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ぽかぽか春庭「世情-シュプレヒコール入り」

2013-12-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/12/28
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(11)世情-シュプレヒコール入り

 中島みゆき「世情-シュプレヒコール入り」を聞きながら、春庭の年末拾遺をお読みください。
http://www.youtube.com/watch?v=q12S3ggaEIw

♪世の中はいつも 変わっているから 頑固者だけが悲しい思いをする
変わらないものを 何かにたとえて その度 崩れちゃ そいつのせいにする

※シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく 変わらない夢を、流れに求めて
時の流れを止めて、変わらない夢を 見たがる者たちと、戦うため※

世の中はとても臆病な猫だから 他愛のない嘘をいつもついている
包帯のような嘘を見破ることで 学者は世間を見たような気になる

※シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく 変わらない夢を、流れに求めて
 時の流れを止めて、変わらない夢を 見たがる者たちと、戦うため※

※くりかえし※


 この歌の冒頭に聞こえるのは、三里塚闘争の農民側の声です。
 今、三里塚とまったく同じ構図が繰り返されています。福島原発周辺をふるさととしていた人々の故郷が奪われようとしているのです。札束さえ見せておけば、人と人とのつながりや、土地への愛着や、そんなものはどうでもいいだろう、という「ふるさとを奪う側の論理」が、復活し、より強大な力をふりかざしているのを、今現在まのあたりにしています。

 以下の文章は、2013年1月に見た東京都写真美術館の感想文なのですが、UPせずに放置してありました。何も行動していない現在の自分が感想だけ書く事にためらいがあったからです。
~~~~~~~~~~~~~
 2013年正月に見た写真美術館。3Fは北井一夫の昭和の光景。最近の作品の船橋での撮影などは特に何も思わなかったけれど、「抵抗」、「バリケード」、「三里塚」は、大学紛争や三里塚闘争を同時代に生きた者としては感慨深く見ました。これらの写真を、「歴史的なドキュメンタリー写真」として見る者と、我がこととして見るのでは、見方が違うのかも知れないけれど、ある歴史の瞬間に、「報道する立場」の人が外側から撮影したのとは異なる迫力を感じました。「内側から」というのは、同じ炭坑を記録するのでも、会社側や政府の調査団が記録するのと、炭鉱夫として坑内にいた山本作兵衛の記録では異なる光景となる、というのと似ていると思う。

 地下一階の「映像をめぐる冒険vol.5 記録は可能か」では、三里塚闘争の記録として余りにも有名な、小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止斗争』を上映していました。
 私が小川伸助の名を知ったのは、1960年代のおわりごろ、ドキュメンタリー『圧殺の森』でした。高崎経済大学の学生闘争を記録したフィルムです。しかしながら、『圧殺の森』を一度も見ていないのです。地元のことなのに、名前だけ知っていて、見るチャンスがなかった。

 小川の『日本解放戦線 三里塚の夏』や『日本解放戦線 三里塚』は、どこで見たのか記憶もさだかではありませんが、1970年代に見た気がするのに対して、『三里塚 第三次強制測量阻止斗争』は見た記憶がまったくなく、この上映ではじめて目にしたのです。

 農民たちの顔、迫力ありました。キョウビの俳優でこの顔の迫真を演じられる人、思い当たりません。肥を我が身にぶちまけ、その肥にひるむ測量隊の人々に「俺たちの土地だ、出て行け」と叫ぶ農婦農夫たちの顔。総武線に乗ると時どき見かける顔に、このドキュメンタリーに出てくる人々の面影を持った人たちを見かけることがあります。もちろん現代の電車に乗っている人々はこぎれいなかっこうをして、親の世代がこのような闘争を繰り広げたことなどまったく表情には表れていません。たぶん、彼らはこのドキュメンタリーを見たいとも思わない、そういう時代になっているのは確かなのでしょう。

 小川作品は、写されている人々の肖像権問題などがクリアされていないのかも知れませんが、DVDなどになっていません。これから上映会などの情報に注意して行きたいと思いますが、私の情報網の網の目は粗いので、2010年にも2012年にも上映会があったのに、網に引っかかっていませんでした。(武蔵大学が小川作品のフィルムを所蔵していることがわかりました)。

 「記録する魂」というのは、私が追求していきたいテーマのひとつです。
 写真美術館での映像収集と上映、ありがたいです。
 忘れ去ってはならない、風化させてはならない光景が、私の中にたくさんある。ささやかな土地に必死にしがみついて生きてきて、いきなり「土地を差し出せ、それが世のため国家のためなのだから」と、農民に有無を言わさず、札束で面をはたいて土地を収容した側に対して、「最後まで戦い抜いたことを記憶する人々」を、私は忘れない。

 成田の滑走路の脇でジェット機の騒音ストレスに耐えながら農業を続ける農家のことも、山形に移り住んで農業を記録しつつ死んだ小川伸助のことも、私は忘れない。

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 20代のころ。多くの若者がデモに参加していました。政治活動社会活動として参加する人もいたし、「みんなが行くっていうから、暇だし、参加してみるか」という人もいたし、団塊世代でデモに一度も出たことがない人は珍しいくらいにみんなスクラム組んでデモに行きました。私も、「医療労連」の一員で「医療労働者の環境かいぜ~ん!」と叫んだり、ベ平連デモのしっぽにくっついて「ベトナム戦争はんた~い!」「米軍基地はんた~い」とシュプレヒコールに唱和したり。

 しかし、最近の国会周辺金曜日デモには、ずっと参加しないできました。関心がなかったのではなくて、金曜日夜は、ジャズダンスの練習日なので、私にしてみれば、ダンス練習を休んでまで参加しなくても、ほかにいくらでも私の意思を表明する方法はあると思っていたのです。また、政党やなんらかの主義主張の派閥に組み込まれるのもいやだ、と思っていました。学生時代にもベ平連のような「軟弱」といわれる団体のデモに参加していただけの私、ノンセクトを貫いてきたのに、今更どこかの団体に巻き込まれるのもいやだと思って。

 一時は、20万人が参加して、首相官邸のまわり国会の前を埋め尽くしたという反原発のあつまりも、年末、この寒さの中、尻すぼみだというので、それならちょっくら出てみようという気になりました。天気予報は「ときどき雨、北国では大雪」の予報。雨で低気温、年末のこの時期に、いったりどんな人たちが集まるのか覗いてみようというやじ馬参加です。

 というわけで、反原発国会周辺デモ。HALデビュー。2013年12月27日金曜日。
 雨が降ったりやんだりのなか、国会議事堂前駅から、しょぼしょぼとあたりをうろつきました。
 ご報告は次回に。

<つづく>

「世情」引用については、1.引用部分の長さは、全体の論述の三分の一以下である。2.論述を立てるために、引用が重要な要素である。3.引用部分に対して、節度ある引用をしている。
という、引用の要件を満たしていると思いますが、問題が生じれば削除いたします。
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