2014/04/17
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>私の舟に載せる(2)日常茶飯事の揖譲
一般的な卓上小型辞書、三省堂国語辞典とか岩波国語辞典などには、7~8万語の日本語が搭載されています。
職業訓練として春休みとか夏休みなどに、辞書を1ページめから最後のページまで眺めて、知らない語があるかどうかチェックしたことがあります。7万語レベルの辞書だと、知らない語はあまりない、という状態になったのですが、漢和辞典や広辞苑、大辞林などの大型辞書だとまだまだ知らない語があるし、20巻(初版)の小学館国語大辞典だと、全部読み通したことすらありません。
江戸期の日本語、江戸言葉を知るのに、松村明『江戸ことば・東京ことば』は役立つし、それぞれの専門用語を知るために、『建築用語』とか『遊里ことば集』などを眺めることも。
山本夏彦の『文語』の中に出てくる、明治期の語彙をチェックしたことがありました。露伴鴎外漱石など、その基本的な素養が漢籍である世代から、大正昭和と時代が下ると、理解語彙使用語彙が変化してきます。現代において、明治時代に通用していた語彙がどれくらい使われているか、を知るのに、山本のエッセイはとてもよい資料です。
山本夏彦(1915-2002)は、大正4年の生まれですが、父親の蔵書(ほとんどが明治期の出版物)を読んで育ったので、「今時の若者にはわからない」という語彙をエッセイ中に用いることがあるのです。そして、「ああ、うちの社員、才媛と呼ばれているのに、こんな熟語も知らない」と嘆く。たとえば「神妙」という語を才媛は知らぬ」と、嘆く。昔は、子供でもチャンバラ好きなら、「神妙に勝負しろ」とか、「御用、御用、神妙にせい」などのセリフを知らない者はいなかった、と。(『日常茶飯事』p20)
山本夏彦の『文語文』を中心とする「明治の語彙」については、下記にあります。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/07/
今回は、山本夏彦の『日常茶飯事』を材料とし、知らない語彙がどれくらいあるか、チェックしました。雑誌『室内』の「日常茶飯事」の連載をまとめた単行本初版は 1962(昭和37)年。私が持っている新潮文庫は2003(平成15)年。
ちなみに、春庭のこのgooコラムのサブタイトルが「日常茶飯事典」であるのは、山本翁の随筆タイトルにあやかりたいと願ってのこと。
さて、「揖譲」は、上記文庫のp62ページ「内と外」に出てきます。
「郷にあっては神州清潔の民であり、揖譲して進退したわが同朋に、悪鬼の振舞があったとは、信じられない。」
常用漢字ではないから「ゆうじょう」とルビがふってあります。ルビがなければ、当然読めません。はじめてみた熟語だから、意味もわかりません。「譲」は「ゆずる」だから、何かをゆずるのか、どのようにゆずるのか、意味の見当をつけて推理してみたけれど、文脈からはわかりません。
岩波国語や三省堂国語などの小型辞書には「揖譲」は、出てきません。しかし、広辞苑には「拱手(きょうしゅ)して、へりくだること。人に会釈して譲ること」と、出ていました。出典として「論語」を上げています。
「デジタル大辞泉」によると、
ゆう‐じょう〔イフジヤウ〕【×揖譲】.
1 拱手(きょうしゅ)して、へりくだること。古代中国の作法。
2 天子の位を譲ること。禅譲。
ほほう、今まで知らなかったことばを知って、脳細胞の縮み方が、ちょっとは抑えられた気がします。脳トレ、脳トレ。
そのほか、なんとなく意味は文脈から理解できるが、私は使ったことがない語「卒そつご」
この読み方でいいのかがおぼつかなかった「鞠躬如きっきゅうじょ」、
「鞠躬如=身をかがめて、つつしみかしこまるさま。(用例)「鞠躬如として用を聞いている」〈円地・女坂〉」女坂を読んだのは40年も昔のことですが、鞠躬如なんてことばを気にもとめないで読み飛ばしたのでしょう。
山本夏彦「日常茶飯事」の中で、以上、三語が「はじめて知った語でした。山本翁にとっては、鞠躬如も、揖譲も、ごく普通の日常茶飯に用いる程度の語彙だったのでしょう。
春庭の「日常茶飯事典」、特にむずかしい語彙を使った覚えはないけれど、きっと今の20代の学生に読ませてみると、「知らない単語ばかり並んでいる」と、言われるのだろうと思います。
言語学では「理解語彙=意味は理解しているが、自分では使わない語」、「使用語彙=日常的な言語生活において読み書き話すに使用している語」という区別があります。春庭も使用語彙はとぼしいものです。しかし、理解語彙をふやす努力は続けてきます。日本語のセンセにとって、日本語は商売道具ですから。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>私の舟に載せる(2)日常茶飯事の揖譲
一般的な卓上小型辞書、三省堂国語辞典とか岩波国語辞典などには、7~8万語の日本語が搭載されています。
職業訓練として春休みとか夏休みなどに、辞書を1ページめから最後のページまで眺めて、知らない語があるかどうかチェックしたことがあります。7万語レベルの辞書だと、知らない語はあまりない、という状態になったのですが、漢和辞典や広辞苑、大辞林などの大型辞書だとまだまだ知らない語があるし、20巻(初版)の小学館国語大辞典だと、全部読み通したことすらありません。
江戸期の日本語、江戸言葉を知るのに、松村明『江戸ことば・東京ことば』は役立つし、それぞれの専門用語を知るために、『建築用語』とか『遊里ことば集』などを眺めることも。
山本夏彦の『文語』の中に出てくる、明治期の語彙をチェックしたことがありました。露伴鴎外漱石など、その基本的な素養が漢籍である世代から、大正昭和と時代が下ると、理解語彙使用語彙が変化してきます。現代において、明治時代に通用していた語彙がどれくらい使われているか、を知るのに、山本のエッセイはとてもよい資料です。
山本夏彦(1915-2002)は、大正4年の生まれですが、父親の蔵書(ほとんどが明治期の出版物)を読んで育ったので、「今時の若者にはわからない」という語彙をエッセイ中に用いることがあるのです。そして、「ああ、うちの社員、才媛と呼ばれているのに、こんな熟語も知らない」と嘆く。たとえば「神妙」という語を才媛は知らぬ」と、嘆く。昔は、子供でもチャンバラ好きなら、「神妙に勝負しろ」とか、「御用、御用、神妙にせい」などのセリフを知らない者はいなかった、と。(『日常茶飯事』p20)
山本夏彦の『文語文』を中心とする「明治の語彙」については、下記にあります。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/07/
今回は、山本夏彦の『日常茶飯事』を材料とし、知らない語彙がどれくらいあるか、チェックしました。雑誌『室内』の「日常茶飯事」の連載をまとめた単行本初版は 1962(昭和37)年。私が持っている新潮文庫は2003(平成15)年。
ちなみに、春庭のこのgooコラムのサブタイトルが「日常茶飯事典」であるのは、山本翁の随筆タイトルにあやかりたいと願ってのこと。
さて、「揖譲」は、上記文庫のp62ページ「内と外」に出てきます。
「郷にあっては神州清潔の民であり、揖譲して進退したわが同朋に、悪鬼の振舞があったとは、信じられない。」
常用漢字ではないから「ゆうじょう」とルビがふってあります。ルビがなければ、当然読めません。はじめてみた熟語だから、意味もわかりません。「譲」は「ゆずる」だから、何かをゆずるのか、どのようにゆずるのか、意味の見当をつけて推理してみたけれど、文脈からはわかりません。
岩波国語や三省堂国語などの小型辞書には「揖譲」は、出てきません。しかし、広辞苑には「拱手(きょうしゅ)して、へりくだること。人に会釈して譲ること」と、出ていました。出典として「論語」を上げています。
「デジタル大辞泉」によると、
ゆう‐じょう〔イフジヤウ〕【×揖譲】.
1 拱手(きょうしゅ)して、へりくだること。古代中国の作法。
2 天子の位を譲ること。禅譲。
ほほう、今まで知らなかったことばを知って、脳細胞の縮み方が、ちょっとは抑えられた気がします。脳トレ、脳トレ。
そのほか、なんとなく意味は文脈から理解できるが、私は使ったことがない語「卒そつご」
この読み方でいいのかがおぼつかなかった「鞠躬如きっきゅうじょ」、
「鞠躬如=身をかがめて、つつしみかしこまるさま。(用例)「鞠躬如として用を聞いている」〈円地・女坂〉」女坂を読んだのは40年も昔のことですが、鞠躬如なんてことばを気にもとめないで読み飛ばしたのでしょう。
山本夏彦「日常茶飯事」の中で、以上、三語が「はじめて知った語でした。山本翁にとっては、鞠躬如も、揖譲も、ごく普通の日常茶飯に用いる程度の語彙だったのでしょう。
春庭の「日常茶飯事典」、特にむずかしい語彙を使った覚えはないけれど、きっと今の20代の学生に読ませてみると、「知らない単語ばかり並んでいる」と、言われるのだろうと思います。
言語学では「理解語彙=意味は理解しているが、自分では使わない語」、「使用語彙=日常的な言語生活において読み書き話すに使用している語」という区別があります。春庭も使用語彙はとぼしいものです。しかし、理解語彙をふやす努力は続けてきます。日本語のセンセにとって、日本語は商売道具ですから。
<つづく>