2014/04/06
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(5)やっちゃんと牛
女子高時代、やっちゃんはソフトボール部のキャプテンで、私のあこがれの人でした。顔立ちは違いますが、雰囲気はソフトボール金メダリストピッチャーの上野由岐子とそっくりでした。
当時、やっちゃんにはファンが多くて、なかなか友達になるチャンスがなかったのです。校舎の窓からソフトボールの練習見つめていました。
ある日、やっちゃんが「牛が大好きだ。となりの家の牛を世話してるんだけど、自分の牛飼いたいから、獣医とか酪農とか牛について勉強しようと思う。でも、理系の大学受けるためには理科科目をもっと強くしなくちゃならないから、ハルちゃんが科学部に入って理系科目勉強して、わからないところを教えてくれ」と言ってきました。
完全文化系の私にとっても、理科は苦手科目です。でも、理科をいっしょに勉強するという名目でやっちゃんと仲良しになれるチャンス。いさんで科学部に入部しました。1年生の時は、中学時代とおなじく文芸部にいましたが、2年生から科学部リケ女です。科学部は望遠鏡を覗く天文地学班と、動物の解剖なんぞに取り組む生物班、化学実験をする物理化学班に分かれていました。私は化学班。
理科室にいても、私はただ大きな硫酸銅のガラス瓶をながめて、「ああ、なんていう青さだろう、海でもなく空でもない始源の色」なんて思いながらぼうっとしていたという文系頭だったのに、やっちゃんのためならと、必死で理科科目を勉強しました。
やっちゃんは、ソフトボール練習の合間に理科室に来て、「化学過去問」の解き方なんぞを質問し、「そうか、そう解くのか」と、また練習に戻っていく。やっちゃんのお父さんもお兄さんも理科の先生なのに、家族に聞かないのは「こんなんが解けないのは、ただの馬鹿」と言われるからなのだって。
やっちゃんとは理科の勉強をいっしょにする、という時間が持てて、「モルの計算」なんぞを教えたことでずいぶんと親しくなれました。今では「モルって何のことだっけ」と思っているのですが、高校科学部の2年間と大学病院検査士時代の1年半のみ、「リケ女」だった私。たぶん、やっちゃんと親しくなるために、必死でリケ女ぶっていたのだと思います。中身は完全文系でしたのに。
やっちゃんは北海道の大学に進学して念願の酪農を学ぶことになりました。牛が大好きだったやっちゃんでしたが、馬術部に入り馬が大好きになりました。
大学卒業後、やっちゃんが馬術クラブの職員として働いていた町に「遊びにこい」というので、大喜びで出かけたら、やっちゃんのアパートには「この人、大学の先輩。今いっしょに暮らしている」という男の人がいたので、びっくり。
やっちゃんは、地元に帰って私立高校の理科の先生になり、この先輩と結婚して男の子に恵まれました。「自由人」だったというご主人は、49歳という若さで病気で他界されましたが、やっちゃんはご両親の助けを受けならが息子さんを育て上げ、高校に新設された馬術部の指導を続けました。
「やっちゃんのびっくり」は、まだあって、自宅を自分で建てたことです。自己資金で建てたというのはもちろんのことですが、宅地の基礎作りからはじめて、カンナ金槌のこぎり自分で手にして、大工仕事左官仕事を自分でやって、ほんとうに「自分で」建てたということ。
今は馬術連盟の役員をしながら、地元の大学の馬術部コーチをしています。「ボランティアだけど、学生も馬もかわいくて」というやっちゃんはすごくいきいきした顔ですてきな60代になっていました。髪も白くなり顔のしわも気にしないやっちゃん、今でも私のあこがれの人です。
女子校時代、クラスメートがあつまって、将来の夢を語り合った日々のことを思い出します。みな、それぞれの夢はかなったでしょうか。
やっちゃんが「私はハルちゃんが言ったことを覚えているよ」と言うには「ハルちゃんは、百歳まで生きて、世の中の変化を見届けたいと言っていた」のだそうです。わぉ、17歳のときから「ぶれてない」というか、成長していないのか。
「ウーマンリブ」が立ち上がろうとしていたころでした。まだまだ女性の地位は低かったけれど、クラスの大半は「女性も男性と対等に働きたい」と言っていて、薬剤師、医者、教師、公務員など、自分の将来の仕事を探していました。
やりたいことを見つけてもくとやり遂げている人、私大好きです。
やっちゃんに言わせると、73歳で現役馬術選手を続けている法華津寛さんは、特別なエリートなのだそうです。しかし、現役ではなくても、馬術ひとすじ、後進の指導を続けているやっちゃんも、すばらしい馬術人生を歩んできたと思います。
やっちゃんとは3月30日にまた会おうということになって、私は法事後、やっちゃんは馬術大会後に会いました。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(5)やっちゃんと牛
女子高時代、やっちゃんはソフトボール部のキャプテンで、私のあこがれの人でした。顔立ちは違いますが、雰囲気はソフトボール金メダリストピッチャーの上野由岐子とそっくりでした。
当時、やっちゃんにはファンが多くて、なかなか友達になるチャンスがなかったのです。校舎の窓からソフトボールの練習見つめていました。
ある日、やっちゃんが「牛が大好きだ。となりの家の牛を世話してるんだけど、自分の牛飼いたいから、獣医とか酪農とか牛について勉強しようと思う。でも、理系の大学受けるためには理科科目をもっと強くしなくちゃならないから、ハルちゃんが科学部に入って理系科目勉強して、わからないところを教えてくれ」と言ってきました。
完全文化系の私にとっても、理科は苦手科目です。でも、理科をいっしょに勉強するという名目でやっちゃんと仲良しになれるチャンス。いさんで科学部に入部しました。1年生の時は、中学時代とおなじく文芸部にいましたが、2年生から科学部リケ女です。科学部は望遠鏡を覗く天文地学班と、動物の解剖なんぞに取り組む生物班、化学実験をする物理化学班に分かれていました。私は化学班。
理科室にいても、私はただ大きな硫酸銅のガラス瓶をながめて、「ああ、なんていう青さだろう、海でもなく空でもない始源の色」なんて思いながらぼうっとしていたという文系頭だったのに、やっちゃんのためならと、必死で理科科目を勉強しました。
やっちゃんは、ソフトボール練習の合間に理科室に来て、「化学過去問」の解き方なんぞを質問し、「そうか、そう解くのか」と、また練習に戻っていく。やっちゃんのお父さんもお兄さんも理科の先生なのに、家族に聞かないのは「こんなんが解けないのは、ただの馬鹿」と言われるからなのだって。
やっちゃんとは理科の勉強をいっしょにする、という時間が持てて、「モルの計算」なんぞを教えたことでずいぶんと親しくなれました。今では「モルって何のことだっけ」と思っているのですが、高校科学部の2年間と大学病院検査士時代の1年半のみ、「リケ女」だった私。たぶん、やっちゃんと親しくなるために、必死でリケ女ぶっていたのだと思います。中身は完全文系でしたのに。
やっちゃんは北海道の大学に進学して念願の酪農を学ぶことになりました。牛が大好きだったやっちゃんでしたが、馬術部に入り馬が大好きになりました。
大学卒業後、やっちゃんが馬術クラブの職員として働いていた町に「遊びにこい」というので、大喜びで出かけたら、やっちゃんのアパートには「この人、大学の先輩。今いっしょに暮らしている」という男の人がいたので、びっくり。
やっちゃんは、地元に帰って私立高校の理科の先生になり、この先輩と結婚して男の子に恵まれました。「自由人」だったというご主人は、49歳という若さで病気で他界されましたが、やっちゃんはご両親の助けを受けならが息子さんを育て上げ、高校に新設された馬術部の指導を続けました。
「やっちゃんのびっくり」は、まだあって、自宅を自分で建てたことです。自己資金で建てたというのはもちろんのことですが、宅地の基礎作りからはじめて、カンナ金槌のこぎり自分で手にして、大工仕事左官仕事を自分でやって、ほんとうに「自分で」建てたということ。
今は馬術連盟の役員をしながら、地元の大学の馬術部コーチをしています。「ボランティアだけど、学生も馬もかわいくて」というやっちゃんはすごくいきいきした顔ですてきな60代になっていました。髪も白くなり顔のしわも気にしないやっちゃん、今でも私のあこがれの人です。
女子校時代、クラスメートがあつまって、将来の夢を語り合った日々のことを思い出します。みな、それぞれの夢はかなったでしょうか。
やっちゃんが「私はハルちゃんが言ったことを覚えているよ」と言うには「ハルちゃんは、百歳まで生きて、世の中の変化を見届けたいと言っていた」のだそうです。わぉ、17歳のときから「ぶれてない」というか、成長していないのか。
「ウーマンリブ」が立ち上がろうとしていたころでした。まだまだ女性の地位は低かったけれど、クラスの大半は「女性も男性と対等に働きたい」と言っていて、薬剤師、医者、教師、公務員など、自分の将来の仕事を探していました。
やりたいことを見つけてもくとやり遂げている人、私大好きです。
やっちゃんに言わせると、73歳で現役馬術選手を続けている法華津寛さんは、特別なエリートなのだそうです。しかし、現役ではなくても、馬術ひとすじ、後進の指導を続けているやっちゃんも、すばらしい馬術人生を歩んできたと思います。
やっちゃんとは3月30日にまた会おうということになって、私は法事後、やっちゃんは馬術大会後に会いました。
<つづく>