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ぽかぽか春庭「プチクラス会のおしゃべり」

2014-04-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/04/05
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(4)プチクラス会のおしゃべり

 上野動物園でアイスクリームを食べながらのおしゃべり。女子校卒業以来の自分史語りや近況報告、にぎやかにおしゃべりが続きました。何を話しても、心はさっと17歳18歳だった頃にかえります。

 みなが「いちばんの思い出」というのが、クラス全員で取り組んだ予選会のだしものです。クラスが一丸となって夢中になって取り組んだ日々。私にも貴重な思い出です。予餞会(よせんかい)、今は「三年生を送る会」とか呼ぶのかな。卒業式前に、在学生が卒業を祝って行う学芸会です。クラス単位のコンクールでもあったのですが、「予餞会準備に1ヶ月も取り組む価値があるのか。私たちのやるべきことは、3年進学を前にして受験準備スタートすることだと、クラス担任も言ったじゃないか」というクラスメートもいました。しかし、1ヶ月も準備や練習を重ねたとき、50人の乙女の心に一生だいじにしたい思い出ができたのです。

 この時のクラス演目「アジア歌めぐり」の台本を書いたのは誰か、といつもクラス会で話題になるのに、だれも「私が書いた」という人がいない。クラス会に来ていない人が書いたのだろうと、みなが言っていたのだって。
 3月25日「ハルちゃんが台本書いたのか」と、やっちゃんに聞かれたので、「うん、私が全体の企画をたてて、台本を作った」と答えました。

 50人のクラスを日本、沖縄、朝鮮、中国、フィリピン、ベトナムの6つの班に分け、班ごとにそれぞれの国の民謡と踊りを練習しました。私はハッピを着て八木節を踊り、Sちゃんは沖縄安里屋ユンタ、ひさちゃんは、チマチョゴリを着てアリラン。フィリピンはバンブーダンスでした。

 やっちゃんはラストのベトナムシーンを担当。テレビのコンバットから録音した爆撃音を合図に屋台崩しをする係りでした。テレビのベトナム戦争ニュースなどで見た草葺の家を作り、家の前でアオザイ姿で踊っていると、やがて爆撃の音。やっちゃんは草葺の家を裏から揺らして崩したのです。
 戦争がピークに達していたベトナムの悲劇をアピールし、最後に全員が出てきてロウソクを手にして、平和を願う歌を歌うというだしもの、学校中が感動し、生徒人気投票で一位になりました。

 班に分けた段階で、私は影にまわり、それぞれの班の練習などは、班リーダーにまかせました。当時はそれが「民主的な」演出方法だと思っていたので。個性と自己主張がつよい女子の集まりだったクラスで、私が黒子にまわったことはだしものの成功の一員だったかもしれません。
 私が全体を統括しようとすると必ず反発する人がでたでしょうから。みんなが「私が一番」と思っているクラスでした。

 ひさちゃんは、小学校教師を定年2年前にやめて、同じ教師だったご主人とともに年金生活。
 ひさちゃん、今は民生委員をしたり、「きみこ方式絵画教室」の先生をして絵を指導しているのだそうです。母校の同窓会幹事もやっていて、退職後のほうが忙しいそう。

 ひさちゃんから届いた絵手紙2014.03.30付


 驚いたのは、私が小学生の時にすでに「地域の名物教師」だったひさちゃんのお母さんが、99歳でご健在だという話。97歳までずっと退職教師会の役員やらさまざまなボランティア活動を続けたそうで、今はいろいろな役職を下りたけれど、元気だというので、「すごいなあ、目標ができたわぁ」と、感激しました。

 私の妹は、地元でひさちゃんと顔を合わせる機会もあり、会うたびに「ももちゃんのお姉さん、今どうしてる?」と聞かれていたというので、私の近況は一番よく知っているクラスメートです。「今、どうしてる?」の返事は「相変わらず貧乏してる」なんですが。

 Sちゃんとは、高校卒業以来ほんとうに久しぶりに会ったのですが、公園口の改札に立っている顔を見合って、お互いすぐにわかりました。

 女子校時代、「ウーマンリブ」が世を賑わしてきたころでした。まだまだ女性の地位は低かったけれど、クラスの大半は「女性も男性と対等に働きたい」と言っていて、薬剤師、医者、教師、公務員など、自分の将来の仕事を探していました。

 けれど、クラスメートのなかには、あきちゃんのように「私はできるだけ学歴が高くて家柄のいい男性と出会って結婚するために大学に入るのよ」と宣言していた人もいました。私は、今でこそ「そういう選択も女性の生き方のひとつ」と思えるけれど、女子校のころはとんがっていたので、「専業主婦希望だなんて、女性解放運動の足ひっぱる存在だ」くらいに思っていました。
 専業主婦の悲哀を感じて生きた母が、つねづね「手に職をつけなさいよ。ひとりで生きていけるようにしなさい」と、諭しつつ私を育てたという影響もあったと思います。

 私の場合、家事育児を手伝うことも家計担当する人もいない家での孤軍奮闘でした。やっちゃんに、「還暦過ぎてるのにそんなに働くと、体こわすぞ」と、心配してもらいましたが、働かなくては食っていけない家なので。

 優雅な奥様のSちゃん、ご主人を早くに亡くしたけれど、お母さんが92歳でなくなるまで支えになってくれたというやっちゃん、実母同居で共働きを続けたひさちゃん。やっぱり、どう見ても私がいちばん貧乏。
 ただ、世間の評価で「クラスでいちばん貧乏でいちばんかわいそうな境遇」であるとしても、私自身がそれを自分で選んだのだから仕方がない。

 妹に「自分に合わないと思っても、中学校の国語科教諭を我慢して続けていれば、他のクラスメートと同じように平教員で3000万、校長なら5000万だかの退職金を手に入れて、還暦後の年金だってそこそこ暮らしていけるくらいにはなったでしょうに」と言われて、確かに老後の生活を考えると、そのほうがよかったかなあと思うこともあるのです。それでもやっぱり、私は自分で選んだのだ、としか言い様がない。我慢ができない性格で、嫌になったらさっさとやめたから転職13回だったのだし。

 まあ、それでも今の時代、それぞれの人がそれぞれの花を咲かせればいい、と感じています。

 3月25日上野公園の桜。
 

 クラスの中で、亡くなった人もいます。スペインまでフラメンコダンス修行に行ったナナちゃんは50代で亡くなりましたし、昨年もクラスメートの訃報がありました。
 健康にはくれぐれも気をつけていこうと話し合いました。

 動物園閉園で上野駅に戻り、ひさちゃんは「6時に新宿駅から高速バスで帰る」というので、解散。やっちゃんとは3月30日にまた会おうということになりました。

<つづく>
コメント (2)
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