20150111
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(25)トランスジェンダー仮面の告白
「2003年のOCNカフェのコラム再掲載」のつづきです。
2003年10月~11月に書いた、「1977年以前に詠んだ本を著者名あ~わ順にたどり、自分語りをする」というシリーズを昨年末から連載しています。
昨年「あ~ま」までUPしました。2015年、「み」から続けます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
トランスジェンダー 仮面の告白
at 2003 10/30 21:29 編集
トランスジェンダーということば。私が知ったのは、虎井まさ衛さんの本が最初に出版された前後だったと思う。現在では、テレビドラマ『金八先生』のテーマになり、上戸彩が「女性の身体を持っているが、心は男性」である主人公を演じたことで、広く知られるようになった。
虎井まさ衛さんを知る前、トランスジェンダーという言葉が市民権を得る前から、私は、虎井さんのような生き方の人に心惹かれてきた。
雑民党の東郷健が選挙に出てテレビで演説するときは、熱心にその主張を聞いたし、テレビ深夜番組にカルーセル麻紀が出演するのも応援した。三輪明宏がまだ自分自身のセクシャリティを明らかにせず、丸山明宏という名で「よいとまけの唄」を歌っている時代から、彼の不思議な魅力はいったいどこから生まれるのか、と思っていた。
おすぎとピーコが登場したとき、「ふたごのゲイ」という特長もあり、彼女たち(?)の自己主張が小気味よかった。それまではテレビの中で「キワモノ」「イロモノ」扱いされ、正に対する負、陽に対する陰のイメージを持たされていたゲイの人たちのイメージを塗り替え、「ひとつの生き方」として認められたような気持ちがしてうれしかった。
ウェブ世界では、リアル社会よりオープンにジェンダーやセクシャリティの問題が語られている。昔に比べれば、若い人たちが自分自身のジェンダー問題について様々な情報を得る機会が多くなった。
トランスジェンダーの方々、臆することなく社会の好奇な視線に負けることなく「本当の私らしさ」を追求してほしいと思う。
若い人はもちろんだが、若くない人も、残り少ない自分の人生を「私らしく」生きていかなければ、生きているかいがない。「私は私。私らしくあれ!」
私自身のジェンダー。セクシャリティについて言えば、身体的にはヘテロ志向なのに、精神的には「男性と話したりいっしょにすごすより、女性といっしょにすごす方が楽しい」と感じる精神的バイセクシャルであったのではないかと、今頃になって自己分析している。
身体的には女性というジェンダーを受け入れ、社会的には母親という役割を引き受けて過ごしてきたが、精神的には、「ボーイッシュな女性が好きな女性」だったと思う。ほぅ、50歳すぎて、ようやく告白いたしました。
私の立場を正確にいうと。「少年同士の恋人たちの片方の男の子に片想いしている女の子に心を寄せている女の子」が私です。
「やおい」が好きな女の子たちが好き。ジャニーズ系の「少年愛」的美少年が好き。宝塚も。歌舞伎の「戦闘美少女」も。
三島由紀夫は、『仮面の告白』で、絵本の中のジャンヌダルクが美少年ではなく、男装の麗人であったことにがっかりしたと書いた。三島は、「男性を性的対象としたい自分」を表に出すことを最後まで拒否し、男に仮装した男性として生きた。軍服や軍刀は、彼の理想の仮装であった。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.37
(み)三島由紀夫『仮面の告白』
三島由起夫が市ヶ谷の自衛隊に突入したというニュースを聞いてすぐ、私はカコちゃんといっしょに野次馬に出かけていった。
しかし、市ヶ谷自衛隊の中に入れるわけもなく、ワイワイしているだけで、何がどうなっているのか、わからなかった。三島が演説している、というので野次馬に行ったのに、何もわからず、つまらないからすぐ帰った。
フジテレビ前を歩きながら、三島の小説について話した。カコチャンは高校生のとき『金閣寺』を読んだ、と言った。「妊娠した女の腹を踏むんだよ、許せないよ」と言っていた。
大学病院の隣の寮へ戻り、カコチャンの部屋でテレビニュースをつけたら、三島は割腹自殺した、ということがわかった。三島が女の腹を踏んだわけではないのに、カコチャンは「赤ちゃんがいる女のおなかを踏んだりするから割腹自殺になるんだよ」と、わけのわからない批評をしていた。
私は『仮面の告白』を読んだ話をした。「おわい屋」を悲劇的だと感じてあこがれたんだって、わけわかんないよね、セバスチャンとかって絵見て、矢が体にいっぱい刺さっているので、興奮するんだって、ますますワケわかんないよね。三島といっしょに楯の会の少年が割腹したんだって、もっともっとわかんない。
カコチャンはすでに恋人を持っていたから、男と女の恋愛については、私よりずっと詳しかった。そのカコチャンも「三島は男が好きなんだって。どうして男が男を好きになるんだろう、ぜんぜんわかんない」と理解できないようだった。
私は「男と男」も「男と女」もわからなかった。私にわかったのは、私はカコチャンが好きだけど、カコチャンはタロさんが好きだということだった。
10/10の項に、高橋和己が入院し死去した病院で働いていたことを書いた。
「友人が高橋和己の後追いで飛び降り自殺した。その半年後に病院をやめた」と書いたので、友人の死が病院の仕事をやめた原因みたいだ。
でも、ちがう。高橋和己が死んで半年後に病院をやめたのは事実だが、やめた理由は「カコチャンがやめてしまったから」だった。
大学病院の隣の職員寮に入寮したとき、4人部屋だった。私は共同生活ができない性格だったので、一ヶ月で寮を出て下宿へ移った。
4人部屋は3人で使うことになった。部屋が広く使えるようになったことを一番喜んでいた人が、飛び降りて死んだのだ。最初から気があわない人だったから、自殺のしらせに衝撃は受けたが、高橋和己が死んだ時より悲しくはなかった。
私が病院を辞めたのは、カコチャンがやめたあと、病院検査室で働くことがつまらなくなったから。
カコチャンの恋人タロさんは、カコチャンの出身地の大学で学ぶ医学生。カコチャンはタロさんと暮らしたいからと、東京から故郷に戻ってしまった。
しかし、タロさんの親に「医学生と臨床検査技師では格が違う」と、結婚の許しがもらえない、という悩みを聞いた後、カコチャンの消息は途絶えた。
三島由紀夫が名家の女性との結婚を決めたとき、それは本当に三島にとって自分らしく生きることだったのだろうか。三島は結婚後もさまざまな男性との交際を続け、最後は楯の会の美少年と共に死ぬことを選んだ。
三島は『仮面の告白』を発表した後も、仮面をかぶり続けた。「三島のあの告白はよくできたフィクションであって、あれは文学上の虚構ですよ」と述べる批評家もいて、三島もその評を利用した節がある。三島は自分を「男性的な男性」へと肉体改造し、高名な画家の娘と結婚した。
もし、三島の生きたころが、現代と同じようにセクシャリティの多様性やトランスジェンダーに対して理解ある時代であったなら、三島の文学と死は、異なる結果を迎えたかもしれない。
彼の死に生い立ちや思想的な面から、また文学的社会的な状況からさまざまな解釈が加えられてきた。
全共闘との対話や、天皇制に対する考え方や、日本の美意識に対する思想、あらゆることがらが、彼を死へといざなったのだと思う。
今のようなジェンダーに対する考え方の変化に対して一番論じて欲しい文学者は、三島だったと思うのだ。現在のジェンダー論が、女性学や社会学の方面からの論より以上に、サブカルチャーからのツッコミによって社会に浸透してきたことを考えると、文学の立場から物言える人のジェンダー論を三島に聞いてみたかったと思う。
ジェンダーとセクシャリティに対し、社会は50年前40年前とは違う反応を示すようになった。パートナー選びも自由。ヨーロッパでは同性との結婚を法的に認める国も出てきた。
男と女も、女と女も、男と男も、どんな組み合わせであれ、ベストパートナーといっしょにいられる人は幸福だろう。そして「私らしさ」を失うことなく、「自分は自分」として生きて行けたらそれにまさることはない。
ケニアに発つとき、英語に弱いので、入国書類に英語で記入するときの注意事項について、旅行会社の人にレクチャーを受けた。
「気をつけてくださいよ。SEXについて記入する欄がありますから。見栄を張ってSEXは週に7回、なんて書いた人がいましたが、それは間違いですからね。いえ、回数が間違いなんじゃなくて、SEXというのは性別という意味ですから。SEXの欄にくれぐれも、週に2回とか、まだ童貞とか、書かないでくださいよ。女性はFemaleが女ですから、SEX=Fと書いてください。男性はMaleですからMですね。」
今や、SEX欄に「Female女」と書くと、口の悪い人から、「また見栄を張って。もう女は卒業したんじゃなかったの」と言われる年齢になった。
いえいえ、何歳になろうと、更年期すぎようと、女であることに変わりなし。ただし、私は、肉体的には男が好きだが、精神的には女が好きな、バイアスがかかったバイセクシャルの女である。
更年期すぎた年齢であれ、男であれ女であれ、男性の心を持った身体上の女性も、女性の心を持った男性も、自分らしく人生をまっとうしたい。
男と女、女と女、男と男、どのような組み合わせであれ、好きな人を見つけて欲しい。
「私らしさ」を大切にできたらいいですね。
~~~~~~~~~~~
20150110
10余年たって、トランスジェンダーも少しは社会に認知されるようになってきたかな、と感じます。女性タレント同士が同性婚をする、と発表されました。自分のセクシャリティやジェンダーをカミングアウトし、堂々と自分らしく生きていける人は、まだまだ少数派なのかもしれませんが、応援したいです。
<つづく>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(25)トランスジェンダー仮面の告白
「2003年のOCNカフェのコラム再掲載」のつづきです。
2003年10月~11月に書いた、「1977年以前に詠んだ本を著者名あ~わ順にたどり、自分語りをする」というシリーズを昨年末から連載しています。
昨年「あ~ま」までUPしました。2015年、「み」から続けます。
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トランスジェンダー 仮面の告白
at 2003 10/30 21:29 編集
トランスジェンダーということば。私が知ったのは、虎井まさ衛さんの本が最初に出版された前後だったと思う。現在では、テレビドラマ『金八先生』のテーマになり、上戸彩が「女性の身体を持っているが、心は男性」である主人公を演じたことで、広く知られるようになった。
虎井まさ衛さんを知る前、トランスジェンダーという言葉が市民権を得る前から、私は、虎井さんのような生き方の人に心惹かれてきた。
雑民党の東郷健が選挙に出てテレビで演説するときは、熱心にその主張を聞いたし、テレビ深夜番組にカルーセル麻紀が出演するのも応援した。三輪明宏がまだ自分自身のセクシャリティを明らかにせず、丸山明宏という名で「よいとまけの唄」を歌っている時代から、彼の不思議な魅力はいったいどこから生まれるのか、と思っていた。
おすぎとピーコが登場したとき、「ふたごのゲイ」という特長もあり、彼女たち(?)の自己主張が小気味よかった。それまではテレビの中で「キワモノ」「イロモノ」扱いされ、正に対する負、陽に対する陰のイメージを持たされていたゲイの人たちのイメージを塗り替え、「ひとつの生き方」として認められたような気持ちがしてうれしかった。
ウェブ世界では、リアル社会よりオープンにジェンダーやセクシャリティの問題が語られている。昔に比べれば、若い人たちが自分自身のジェンダー問題について様々な情報を得る機会が多くなった。
トランスジェンダーの方々、臆することなく社会の好奇な視線に負けることなく「本当の私らしさ」を追求してほしいと思う。
若い人はもちろんだが、若くない人も、残り少ない自分の人生を「私らしく」生きていかなければ、生きているかいがない。「私は私。私らしくあれ!」
私自身のジェンダー。セクシャリティについて言えば、身体的にはヘテロ志向なのに、精神的には「男性と話したりいっしょにすごすより、女性といっしょにすごす方が楽しい」と感じる精神的バイセクシャルであったのではないかと、今頃になって自己分析している。
身体的には女性というジェンダーを受け入れ、社会的には母親という役割を引き受けて過ごしてきたが、精神的には、「ボーイッシュな女性が好きな女性」だったと思う。ほぅ、50歳すぎて、ようやく告白いたしました。
私の立場を正確にいうと。「少年同士の恋人たちの片方の男の子に片想いしている女の子に心を寄せている女の子」が私です。
「やおい」が好きな女の子たちが好き。ジャニーズ系の「少年愛」的美少年が好き。宝塚も。歌舞伎の「戦闘美少女」も。
三島由紀夫は、『仮面の告白』で、絵本の中のジャンヌダルクが美少年ではなく、男装の麗人であったことにがっかりしたと書いた。三島は、「男性を性的対象としたい自分」を表に出すことを最後まで拒否し、男に仮装した男性として生きた。軍服や軍刀は、彼の理想の仮装であった。
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春庭千日千冊 今日の一冊No.37
(み)三島由紀夫『仮面の告白』
三島由起夫が市ヶ谷の自衛隊に突入したというニュースを聞いてすぐ、私はカコちゃんといっしょに野次馬に出かけていった。
しかし、市ヶ谷自衛隊の中に入れるわけもなく、ワイワイしているだけで、何がどうなっているのか、わからなかった。三島が演説している、というので野次馬に行ったのに、何もわからず、つまらないからすぐ帰った。
フジテレビ前を歩きながら、三島の小説について話した。カコチャンは高校生のとき『金閣寺』を読んだ、と言った。「妊娠した女の腹を踏むんだよ、許せないよ」と言っていた。
大学病院の隣の寮へ戻り、カコチャンの部屋でテレビニュースをつけたら、三島は割腹自殺した、ということがわかった。三島が女の腹を踏んだわけではないのに、カコチャンは「赤ちゃんがいる女のおなかを踏んだりするから割腹自殺になるんだよ」と、わけのわからない批評をしていた。
私は『仮面の告白』を読んだ話をした。「おわい屋」を悲劇的だと感じてあこがれたんだって、わけわかんないよね、セバスチャンとかって絵見て、矢が体にいっぱい刺さっているので、興奮するんだって、ますますワケわかんないよね。三島といっしょに楯の会の少年が割腹したんだって、もっともっとわかんない。
カコチャンはすでに恋人を持っていたから、男と女の恋愛については、私よりずっと詳しかった。そのカコチャンも「三島は男が好きなんだって。どうして男が男を好きになるんだろう、ぜんぜんわかんない」と理解できないようだった。
私は「男と男」も「男と女」もわからなかった。私にわかったのは、私はカコチャンが好きだけど、カコチャンはタロさんが好きだということだった。
10/10の項に、高橋和己が入院し死去した病院で働いていたことを書いた。
「友人が高橋和己の後追いで飛び降り自殺した。その半年後に病院をやめた」と書いたので、友人の死が病院の仕事をやめた原因みたいだ。
でも、ちがう。高橋和己が死んで半年後に病院をやめたのは事実だが、やめた理由は「カコチャンがやめてしまったから」だった。
大学病院の隣の職員寮に入寮したとき、4人部屋だった。私は共同生活ができない性格だったので、一ヶ月で寮を出て下宿へ移った。
4人部屋は3人で使うことになった。部屋が広く使えるようになったことを一番喜んでいた人が、飛び降りて死んだのだ。最初から気があわない人だったから、自殺のしらせに衝撃は受けたが、高橋和己が死んだ時より悲しくはなかった。
私が病院を辞めたのは、カコチャンがやめたあと、病院検査室で働くことがつまらなくなったから。
カコチャンの恋人タロさんは、カコチャンの出身地の大学で学ぶ医学生。カコチャンはタロさんと暮らしたいからと、東京から故郷に戻ってしまった。
しかし、タロさんの親に「医学生と臨床検査技師では格が違う」と、結婚の許しがもらえない、という悩みを聞いた後、カコチャンの消息は途絶えた。
三島由紀夫が名家の女性との結婚を決めたとき、それは本当に三島にとって自分らしく生きることだったのだろうか。三島は結婚後もさまざまな男性との交際を続け、最後は楯の会の美少年と共に死ぬことを選んだ。
三島は『仮面の告白』を発表した後も、仮面をかぶり続けた。「三島のあの告白はよくできたフィクションであって、あれは文学上の虚構ですよ」と述べる批評家もいて、三島もその評を利用した節がある。三島は自分を「男性的な男性」へと肉体改造し、高名な画家の娘と結婚した。
もし、三島の生きたころが、現代と同じようにセクシャリティの多様性やトランスジェンダーに対して理解ある時代であったなら、三島の文学と死は、異なる結果を迎えたかもしれない。
彼の死に生い立ちや思想的な面から、また文学的社会的な状況からさまざまな解釈が加えられてきた。
全共闘との対話や、天皇制に対する考え方や、日本の美意識に対する思想、あらゆることがらが、彼を死へといざなったのだと思う。
今のようなジェンダーに対する考え方の変化に対して一番論じて欲しい文学者は、三島だったと思うのだ。現在のジェンダー論が、女性学や社会学の方面からの論より以上に、サブカルチャーからのツッコミによって社会に浸透してきたことを考えると、文学の立場から物言える人のジェンダー論を三島に聞いてみたかったと思う。
ジェンダーとセクシャリティに対し、社会は50年前40年前とは違う反応を示すようになった。パートナー選びも自由。ヨーロッパでは同性との結婚を法的に認める国も出てきた。
男と女も、女と女も、男と男も、どんな組み合わせであれ、ベストパートナーといっしょにいられる人は幸福だろう。そして「私らしさ」を失うことなく、「自分は自分」として生きて行けたらそれにまさることはない。
ケニアに発つとき、英語に弱いので、入国書類に英語で記入するときの注意事項について、旅行会社の人にレクチャーを受けた。
「気をつけてくださいよ。SEXについて記入する欄がありますから。見栄を張ってSEXは週に7回、なんて書いた人がいましたが、それは間違いですからね。いえ、回数が間違いなんじゃなくて、SEXというのは性別という意味ですから。SEXの欄にくれぐれも、週に2回とか、まだ童貞とか、書かないでくださいよ。女性はFemaleが女ですから、SEX=Fと書いてください。男性はMaleですからMですね。」
今や、SEX欄に「Female女」と書くと、口の悪い人から、「また見栄を張って。もう女は卒業したんじゃなかったの」と言われる年齢になった。
いえいえ、何歳になろうと、更年期すぎようと、女であることに変わりなし。ただし、私は、肉体的には男が好きだが、精神的には女が好きな、バイアスがかかったバイセクシャルの女である。
更年期すぎた年齢であれ、男であれ女であれ、男性の心を持った身体上の女性も、女性の心を持った男性も、自分らしく人生をまっとうしたい。
男と女、女と女、男と男、どのような組み合わせであれ、好きな人を見つけて欲しい。
「私らしさ」を大切にできたらいいですね。
~~~~~~~~~~~
20150110
10余年たって、トランスジェンダーも少しは社会に認知されるようになってきたかな、と感じます。女性タレント同士が同性婚をする、と発表されました。自分のセクシャリティやジェンダーをカミングアウトし、堂々と自分らしく生きていける人は、まだまだ少数派なのかもしれませんが、応援したいです。
<つづく>