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ぽかぽか春庭「アインシュタインロマン」

2015-01-21 08:39:11 | エッセイ、コラム
20150121
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(32)アインシュタインロマン

 2003年にUPしたOCNカフェコラムより再掲載をつづけています。
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アインシュタインロマン
at 2003 11/10 05:09 編集

 優秀な人ほど短期間で卒業する。私が出講している大学のひとつには、高校2年生修了から飛び級で大学に入学し、大学3年修了後また飛び級で大学院へ。23歳で博士課程を修了して、まもなく博士号を取得、という超優秀な学生もいる。

 私は鈍才。私立の大学と大学院、国立の大学と大学院で、合計14年間も教育を受けた。この話を留学生にすると、「勉強が好きだったんですねぇ」という感想が返る。

 勉強は楽しかった。でも、要領悪く、好きなことだけしていたから、他の人のようにさっさと必要な単位を取得し、さっさと学位をめざしていく、という器用なことができなかった。

 パチンコが好きな人、競馬が好きな人、カラオケが好きな人、趣味や嗜好、すきなこと人さまざまでいいと思う。

 でも、釣り好きやカラオケ好きは特別変な目で見られることはないのに、勉強が楽しいというと、ちょっとコイツとはつきあえんな、という目で見られてしまう。勉強だって、好きなことを続けるのは、そんなに特別なことじゃないのに。

 私はジャズダンスも続けている。ダンスも好き、朗読も好き、好奇心いっぱいに新しいことを覚えるのが大好き。そして知ったかぶりの蘊蓄たれが、だあい好き。
 
 人が勉強するのは、一流大学に入って一流会社に就職して、出世の階段登るため?
 私は、卒業7回(小学校、中学校、高校、職業専修校、私立大学、国立大学、国立大学大学院)。専攻替え3回。日本古代文学、演劇人類学、日本語文法日本語教育。ものにならないまま専門がコロコロ変わった。

 14年もかかって博士にも届かず修士号どまり。能率悪く、使いものにならなかった私の学問。でも、自分が楽しんだ。それでいい。

 学校の勉強というとき、思い出す人。山元延春(まさはる)さん。テレビ新聞に取り上げられたのでご記憶の人も多いだろう。予定通りのコースじゃなくても、学びたいことが見つかったときが、勉強するとき。そんな勉強の本質を見事に見せてくれた人だった。 

 延春さん、小学校の頃はいじめられっ子。転校先でなじめなかった。
 中学校では昼は学校、夜は母親がやってるラーメン屋を手伝う。父は病弱。手伝いが終わったあと、午前3時、4時まで少林寺拳法の練習をする日々。少林寺拳法は強くなり、県代表に選ばれた。

 昼は学校、夕方から夜はラーメン屋、深夜に少林寺の稽古、それでは朝が起きられるはずない。遅刻欠席が日常化する。通知票は、技術「2」音楽「2」あとはオール1。

 中学卒業後、大工の修行をし、工務店に就職。しかし、延春さんの不幸は続く。16歳で母を、18歳で父を病魔に奪われた。天涯孤独の身になった。世界は暗く、希望はなかった。

 21歳の終わりごろ、突然世界が変わって見えた。同じ少林寺拳法の道場に通う娘さんがビデオを貸してくれたのだ。彼に、NHKドキュメンタリーのビデオ『アインシュタイン・ロマン』を「見てね」と渡した。相対性理論がわかりやすく理解できるビデオだった。

 少年が亀の背に少年が乗り宇宙へ飛び出すロマンあふれる映像を、春庭も楽しんだが、楽しんで終わった。だが、延春さんには終わらなかった。はじまりだった。

 ビデオを見て、延春さんは目が開かれた。『これまでの自分は、時間と空間が不変のものだという自然観をもっていた。それにしてもこの宇宙と世界はなんとめまぐるしく変わり、深くて広いのか。

 もっと知りたい。そうすればもっと違った世界が広がるのではないか』世界を見る目が変わってしまった。この時間と空間の世界を自然の神秘をどうしても理解したかった。

 本屋に行って、化学や物理の入門書をみた。知らない世界がいっぱいに広がる。
 子どもの頃、夕焼けを眺めて感じた疑問がよみがえった。なぜ空は青いのか、なぜ雨は一粒ずつ降るのか。天体の運動にはどんな法則があるのか。ブラックホールはどうなっているのか。

 そんな疑問をもつこと目体忘れていた。世の事象に麻揮した心がよみがえった。もっと知りたい。「なぜ」を追求したい。
 延春さんは大学に行って物理学を勉強しようと決意した。

 進学を思い立ったものの、分数の計算もわからない。かけ算九九から復習した。小学校3年の教科書から勉強をはじめ、24歳で高校定時制に入学した。

 入学後、昼は工務店の仕事。夜は授業。気持ちはあせるが、きつい仕事に疲れ切り、少しも勉強が進まない。

 そんなとき、2年生担任土田秀一先生が「自校の理科実験助手にならないか」と勧めてくれた。月収は3分の1。でも、勉強時間が確保できた。

 仕事のあいまに先生から補習を受ける。両親のいない延春さんを、土田先生は自宅にひきとって親代わりとなった。通信教育の単位も加えて、3年で定時制を卒業見込み。いよいよめざすは大学だ。

 名古屋大学理学部を志望。センター試験では得意の物理は自己採点で満点。だが、遅く勉強をはじめたハンディを全部は克服できなかった。英語でつまずいた。あきらめて一浪か。先生が自己推薦入試があることを教えてくれた。

 自己推薦の作文に賭けた。物理学への熱い思い、これまでの人生これまでの勉学の日々をすべてぶつけた。
 志望動機には、相対性理論の探求に向けた情熱を綴り、名古屋大学に提出。結果、見事に合格。27歳で大学入学を果たすことができた。

 これこそが、ほんとうに学びたいことを学ぶ、という真の勉強の姿だろう。偏差値競争も、ブランド大学も関係ない。延春さんは学びたいから学んだのだ。アインシュタインを理解したいからかけ算九九からやり直したのだ。

 最後に追加の、愛んシュタインロマンをひとつ。彼の世界を変えたビデオ。そのビデオを貸してくれた娘さん、彼女は、今、延春さんの愛妻である。(結婚後は奥さんの姓、宮本となる)
 アインシュタインはもうひとつのロマンもはぐくんだ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.43
(ゆ)湯川秀樹『旅人、ある物理学者の回想』
 日本で最初にノーベル賞を受賞したのは湯川秀樹。何もかも失って萎縮した戦後日本に夢と希望を与え、自信をなくしていた人々が、「やればできる」という戦後復興への熱い期待を取り戻すきっかけとなった。1949年のこと。

 湯川博士は、こどものころは内省的で孤独な少年だった。数学は得意だが、まだ何になりたいというはっきりした将来の夢もなく、秀才揃いの兄弟の中ではむしろ目立たない少年だった。(地質学者小川琢治京都大学教授の5人の息子は、惜しくも戦死した末子滋樹をのぞき、4人がそれぞれ超秀才、各分野の著名な学者になったことで有名)

 ある日の中学校授業。コンビを組んで物理の実験をしていた同級生から「君はアインシュタインのようになるだろう」と言われた。
 言われたが、アインシュタインが何者か、知らなかった。そのうち、世界をわかせた相対性理論の学者であることを知ったが、まだ、心酔するには至っていなかった。

 1922年、アインシュタインが来日したとき、日本中が熱狂して新理論をひっさげて20世紀科学世界を一変させた学者を迎え入れた。しかし、秀樹少年は京都で行われた講演会にも行かなかった。自分が理論物理学に進むとも思っていなかったからだ。

 湯川秀樹がアインシュタインに会ったのは、それから十数年ののち。
 1934年、湯川博士は、原子核内中間子の存在を予言し、素粒子論に新たな理論を加えた。1937年、中間子場理論を発表。1939年、理論が認められヨーロッパへの講演旅行に出発。

 しかし第二次世界大戦の勃発により、ヨーロッパからアメリカへ回った。この時、ようやく湯川博士はアインシュタイン博士と邂逅した。あこがれのアインシュタイン博士はすでに白髪の老人になっていた。

 その後何度も湯川秀樹はアインシュタインに会い、敬愛の念を深めた。
 1955年ラッセル・アインシュタイン宣言の共同署名者となる。アインシュタインが願った世界平和への意志を引き継ぎ、湯川博士は晩年を平和運動に貢献してすごした。

 「湯川博士」の名は、私たちの世代にとって「大学者」「えらい科学者」の代名詞であった。

 「末は博士か大臣か」というのが親が子に望む出世コースだったが、ノーベル賞受賞以来、大臣人気はすっかり寂れ、「将来は湯川博士」が合い言葉になった。

 完全文系人間の私には、湯川博士はいつも遠い遠い星であった。近づくことも夢見ることもないスター。恵まれた環境と素質を持った秀才一家の超秀才。あまりにもかけ離れた存在に思えた。湯川博士になりたいなどと思ったことは一度もない。(私がなりたかった人リストは11/08に書いた)

 しかし、『旅人』を読むと、小学校中学校時代の秀樹少年は、おどろくほど私の小学校中学校時代と似た面を持っていた。

 夢見がちで、いつもぼうっと想像をふくらませていて、現実を忘れる。自分の好きなことだけに熱中して、それ以外の勉強はいっさいお留守。孤独でひきこもりの内省的な生活。

 むろん田舎の鈍才少女と、京都のとびっきりのエリートコースを歩む天才とは、レベルが違いすぎる。だが、秀樹少年の子供時代の回想を読んで、今まで敬して遠ざけていたこのノーベル賞受賞者がとても好きになった。

  秀樹少年も私と同じく、ノートに童話を書きためていた少年であったのだ。彼は引退後の生活について「また、童話を書いてすごしたい」という希望を述べている。

 彼の自伝『旅人』には美しい描写が続き、なつかしく生き生きとした戦前の京都、町屋の暮らしが活写されている。物理学者には、寺田寅彦など文学的才能の豊かな人が多いが、湯川秀樹も理論物理学者としてとの才能と同等に文学的な才能が豊かな人である。

 私は俳句や短歌が好きだから、最後に湯川秀樹の短歌を並べておわりにする。

たそがれて子等なお去らぬ紙芝居少年の日は遠くはるけし
そこはかのうれいある日の帰るさはいやなつかしき今日の夕山
比叡の山窓にもだせり逝きし人別れし人のことを思へと


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20150121
 2003年にこのコラムを書いたのち、延春さん(結婚後は宮本姓)、高校の先生として活躍。2006年には著書「オール1の落ちこぼれ、教師になる(角川書店)」がベストセラーになりました。現在は「教育再生会議」の委員を務めています。私はこの会議が打ち出す方針に反対する意見の持ち主ですが、宮本さんが高校教師として生徒によい影響を与えてきたであろうことは評価しています。

 一方、鈍才春庭は、私立大学6年国立大学4年大学院4年の在籍履歴に、さらに私立の大学院を3年付け加えて、ようやく博士号を得ることができました。私なりに苦労したけれど、今や博士なんぞは珍しくともなんともない時代になりました。自己満足におわっただけの博士号取得ですが、亡き母に「大きくなったらハカセになるんだ」と宣言した約束は一応果たされたので、あの世では母も喜んでくれたと思うとほっとします。
コメント
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