春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「女の物書き、あと15年修行したら」

2015-01-20 08:47:31 | エッセイ、コラム
20150121
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(31)女の書き物、あと15年修行したら、、、

 12年前の羊年、2003年に書いたコラムの再録です。
~~~~~~~~~

女の書き物、あと15年修行したら、、、
at 2003 11/11 06:16 編集

 9/26日にOCNカフェ日記をはじめたとき、何を書くか、まったく決めていなかった。

 本宅「話しことばの通い路」HPの「女の日記50年分全公開」のコンテンツ。読んだ本の感想、映画の感想、日本語教師の教室日誌、日常生活の記録、ニュースへのコメント。これらは、すでに書いている。コンテンツが重ならないよう、別の角度をどこから開くか。

 10歳からの日記を持っていることが私の財産。1977年の分から、読書メモも残っている。だが、1977年以前の読書記録が残っていない。思い出す本、忘れた本。そうだ、本を思い出そう。老化の脳を活性化する。

 たまたま、9/25が、21世紀になって千日目にあたったので、次の二千日目に向かって、「千日千冊」と題して、本をめぐって思い出話を書くことにした。タイトルは松岡正剛『千夜千冊』のもじり。

 知の巨匠松岡正剛の「千夜千冊」がすでに890冊に達している。高くそびえるソフィアの巨峰を経巡って、知の千日回峯を達成しようとしていること、賛仰の目で読んできた。一冊一冊の本に対してほんとうに優れた評論が続く。正剛のまねなんか、しようとは思わない。とても常人にできることではない。

 私ができることは、自分語りしかない。でも、それでいいじゃないか。本について、本格的に書評や評論を書く人は、たくさんいる。しかし、私について語れる人は私しかいない。
 だれも、おまえになど興味を持ちはしない。おまえ自身のことを書いたところで、誰の興味もひかず、誰も読みはしない。そんなことはわかっている。自己満足でかまやしない。

 私にとって私自身について書いておくことが、今、今日の私の生を支えるために必要なのだ。ともすればくじけそうになり、くずおれようとする自分自身の老いに向かう心を奮い立たせるカンフル剤として、今、書くことが必要なのだ。書かなくちゃ。

 長年ひとりの殻にとじこもり、誰にも本音を話したことがなかった。つもりにつもった思いを全部吐き出してしまおう。

 9/25の夜、ファンだった有馬秀子さんが101歳で亡くなった。残念だったが、そのニュースを聞きながら「老いに向かう心の冬支度」をテーマにしようと思い立った。

 マクラに、「高齢者ニュース」を振る。そのときどきのテレビ新聞から拾った、お年寄りが主人公のニュースから話を始める。ニュースにまつわる話題と、あいうえお順に著者を並べた本の思い出をリンクさせる。

 うまくリンクできるかどうか、ここは私の芸人魂。文の芸で生きようと思った若い時代の夢を押し込み、子育てと子供のパンを買う金稼ぎに専念してきた20年。芸人に戻れるか。

 長女が生まれた頃、原稿料を稼ぐ暮らしをはじめてみたものの、子育てと両立できない自分にいらだった。誰の助けもない育児家事の中で、取材に出るにも原稿あげるにも、思うようには書けなかった。原稿料だけでは生活できないし、一日一日と子供は背に重くなる。書きたい。仕事を続けたい。ようやくつかんだチャンスなのに。やっと原稿料もらえたのに。挫折。
 子供が成人するまでは、子供を育てて生きていこう。ペンは机にしまい込んだ。

 20年間、いい母親じゃなかったけれど、なんとか娘は大学生、息子は中学生まで成長。
 中学教師からのイジメを受けた娘の不登校など、つらい時期もあった。でも、二十歳をすぎれば、もう親の手はいらない。

 やっと、自分のやりたいことができるまで、あと一歩、目前に。書きたい書きたい書きたい。へたの横好き、自己満足。いいじゃない。だれに迷惑もかけないで、やれることならやっていこう。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.44
(よ)吉野せい『洟をたらした神』
 吉野せいが、『洟をたらした神』で、大宅壮一賞、田村俊子賞を受賞したとき75歳。
 70歳で執筆をはじめてから、5年目のことだった。それから2年、77歳で没するまで、せいは作家として生きた。

 結婚以来50年に及び、農婦として農作業子育てに生きた吉野せい。晩年の数年を「書くことのできる喜び」の中ですごした。

 せいは、女学校へ行けなかった。高等小学校が最終学歴。独学。検定試験で教員免許を得て、小学校教師になった。夢に燃えた教師生活だったが、2年教えたあと退職。小作開拓農民三野混沌(吉野義也)と結婚後は、農婦として生きた。

 6人の子を育て、労働運動農民運動に飛び回る夫に代わって、田畑耕作と子育てをひとりでこなした。70歳すぎ、子供も成人した後に、昔の思い出を書き始めた。ぽつぽつと、思い出すまま少しずつ。

 なんてすごい一生だろう。つらい開拓農民の暮らし。食べるものにもこと欠く生活の中で、栄養もなく生まれた子供が死んでしまう。戦中戦後、どの人だってつらい生活だったけど、中でも開拓農家の暮らしは辛酸を極めた。

 それなのに、70歳の年を迎えてようやく書き出したせいの文章の、なんとみずみずしくうるおって、生きることの光りに充ち満ちていることだろう。

 書かれている内容は悲しいことも多い。私が好きな「梨花」というエッセイも、生まれてたった六ヶ月で、儚く死んだ赤ん坊の思い出話だ。

 笑顔のかわいい赤ん坊梨花は、小さな身体を小さな箱に収めて、開拓地の冷たい土の中に消えてしまった。

 だが、梨花を死なせた若い母は、40年の歳月を経たのちになって、赤ん坊の姿を書き留める。土にまみれて働く母の胸にだかれた赤ん坊梨花の姿は、永遠の光りになって私たちに降り注ぐ。

 『梨花とは父親が名付けたよく似合う名前であった。おまえのその静かさとやわらかい笑みとは、いつも生活苦のために苛立ちあれている私の心をなごませてくれた。おまえを見るときのみ私の顔はしわみ、私の声はうるおうた。

 「リーコリーコ、よしよし」ひびと土とにがさがさな私の手は、重いおまえのからだをどんなにも嬉しく支えたことか。そしてその支えられた手の上で、垢によごれた綿入れの中からふっくりした白い顔をだして、おまえはどんなに可愛いほほえみを見せたことか。梨花よ。あの顔がみえる
。』

 赤ん坊ながら母の心をなぐさめる笑顔をたやさず、そのために病気の発見がおくれた。生後半年で死なせてしまった貧しい母は、40年たってもその子の思い出を抱きしめる。せいの文を書き写しながら、私は涙が止まらない。

 このように、このように私は生きたい。書いていきたい。70歳まで、あと15年ある。15年ひたむきに修行をつめば、このような美しい文章を書き残せるだろうか。

 たぶん、15年たっても、私が書くものは、今と同じくがさつで下世話な与太話だろう。人間の出来が違うから。

 多くは望まない。もう少しよい人間になって、もう少し優しい人間になって、人の心に寄り添える、あたたかさを身につけられたら、今よりも少しはましな文を書きたい。

 だけどね。やっぱり私はヨタ与太です。同僚に教わって大笑いした川柳がある。
 私のことを書いたのかしらと思った川柳。

 「お隣を許せず世界平和願う」
 ハハハ!私もね。世界平和を望んでイラク派兵に反対だけど、公団アパートの同じ階のだれかさんに我慢ならない。

 うちが廊下に出しておく生協の箱をじゃまにして、いつもけっ飛ばして行く人がいるの。そりゃ、廊下に出しとくうちも悪いけどね、オタクだって自転車その他を廊下にだしているじゃないの。

 いつも心では「もう少しでもいい人に」と思うのに、やってることは馬鹿ばかり。人をうらやみ、ねたみそねみ。友の出世をうらやんだり、同僚がポストを得たと知ってひがんだり。

 でも、こんな春庭を「ねたみそねみ仲間」として、つまはじきしないで迎えてくれるウェブ友もいる。このページのみょうがさん、http://www1.odn.ne.jp/~caa33030/myo.htm はるにわを「ねたみそねみ」つながりとして認めてくれました。

 愚痴をこぼして、ねたんでそねんで、それでも私は私。洟たらしながら、蘊蓄たれでもやっていこう。

~~~~~~~~~~~
20150120
 あと15年ほども修行をしたら、もうちょっとましな文章が書けるようになるのかと思っていたのだけれど、12年書き続けてもたいした進歩はなかった。むろん、12年の間に、多少は語彙を増やした。しかし文体というものは、そうそう進歩していない。あいかわらずの、ぐだぐだと書き流す駄文です。
 修行が足りませんでした。

 さらに15年、修行を続けることにします。

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする