20151107
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記11月(5)2003年のトークトゥハー
2003年三色七味日記を再録しています。
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2003/11/17 月
ジャパニーズアンドロメダシアター>トークトゥハー
午前中、作文漢字コマ。
午後、飯田橋ギンレイで映画を見た。
予告編を見て、「バレリーナと女闘牛士の話なら、ぜったいに私のお気に入り映画になるだろう」と思ったら、予想以上だった。
<あらすじ>映画冒頭で、介護人ベニグノとジャーナリストのマルコが映画を見ている。マルコは泣く。アルゼンチン出身のマルコ。アフリカへ恋人を連れて行った。恋人は麻薬依存症。それをなおすための旅だった。依存症から立ち直った恋人はマルコと別れてしまう。マルコは深い孤独の中にいる。そのための涙なのだ。
ピナ・バウシェのダンスシーンが出る。もうそれだけで、この映画は私にとって最高だ。ピナ追っかけ人楠田絵里子によると、ピナの近作は明るく笑える踊りも増えてきたそうだ。
映画の中のピナは、椅子が並んだ中、男と女のコミュニケーション断絶が踊られる。(と、私は感じたが、ダンスシーンは短い一部分だけなので、本当はどういうダンスだったのかは不明)
でも、一部分でも、ピナの踊りが見られて、この映画はピナが出ているだけで合格。ダンスシーンにピナを使おうと思った監督の感性で作られた映画ならば、見る前からいい映画だと思いこめる。
(アリシアとベニグノ)
ベニグノは母親の介護をする以外に家から出なかった男。向かいのバレエ教室に通うアリシアに片想いを寄せる。
母の死後、ある雨の日、アリシアが交通事故に遭い、植物状態になる。ベニグノはアリシアの父(精神科クリニック医師)に雇われ、病院でアリシアを専門に介護する仕事につく。献身的な介護。たえずアリシアに話しかけ、全身をマッサージし、生理の手当もする。
(リデイァとマルコ)
マルコは女闘牛士リディアに興味を持つ。最近有名闘牛士の恋人と別れたことがインタビューで明らかになり、無謀な闘牛試合に出場しようとしていることが発表されているからだ。
リディアは闘牛士の恋人に未練を持っているが、マルコはしだいにリディアに惹かれる。マルコも元の恋人に未練をもっていたが、彼女とほかの人と結婚式に出席し、未練をきっぱり断ち切って、リディアへの愛を告白しようと決意する。
リディアは危険な闘牛試合を決行し、猛牛に全身を突かれて、脳死状態となる。
マルコは、彼女に話しかけることもマッサージしてやることもできない。ただ見つめる。やがてリディアは死に、元恋人から「試合が終わったら、もとのサヤに納まるはずだった」と、聞かされる。マルコには、愛の思い出さえ与えられなかった。
(ベニグノとアリシア)
ベニグノは「植物状態だから話しかけても無駄」という周囲に耳を貸さず、たえずアリシアに話しかける。全身マッサージを続け、日光浴をさせる。
たまの休みの日には映画を見にいくが、それは自分の楽しみのためではなく、アリシアに映画のストーリーを語って聞かせるためだ。アリシアのために、ピナバウシェのダンス映画も見て、ピナにサインをしてもらったパンフレットをアリシアの枕元に飾ってやる。
ある日の映画サイレントムービーがベニグノの心に残る。新薬実験のために、こびとになってしまった男が、恋人をよろこばせるために、全力で巨大な恋人の体を愛撫する。ついには彼女の体内深くもぐっていき、戻らなかったという映画。
ベニグノはその映画を見て、変化する。語りかけ全身をマッサージするだけのコミュニケーションから、ついにもう一歩彼女に近づこうとしたのだ。
アリシアの妊娠が発覚し、ベニグノは逮捕される。ベニグノは刑務所でアリシアの子ども誕生のニュースを待っていたが、死産したと聞き自殺。
(マルコとアリシア)
マルコは、ベニグノのアパートを借り、向かいのバレエ教室に、アリシアが歩いて現れたのを見た。アリシアは妊娠と死産という身体的極限状態を経て、植物状態から奇跡の復活を果たしたのだ。
バレエの公演会場で出会うアリシアとマルコ。マルコはやがて、アリシアに語りかけるだろう。アリシアが何も知らされていない「ベニグノの献身と奇跡の物語」を。
ときどきサイレントムービーのように途中ではさまれる、シーンパラグラフタイトルの最後のタイトルが「アリシアとマルコ」だったから、ふたりがいつか、コミュケーションをかわすだろうという暗示で映画が終わる。
本当にすばらしい映画だった。ことばとコミュニケーションと、人の愛と孤独。4人の男女の生と死はそれぞれに悲しいが、ベニグノの無償の愛は、奇跡となって報われた。
マルコは必ずジャーナリストとしてこの奇跡を世の人に語り継ぐだろう。ベニグノも十分に自分の果たすべき役割をはたし、むくわれたのだ。
母親の死後、一歩も家から出ようとしないひきこもりのまま生きながらえる人生よりも、アリシアの介護人として献身し、彼女の復活をもたらす人生を、ベニグノは生きたのだ。
アリシアが植物状態から回復したことを知らないまま、「彼女と同じ状態になるために」薬を大量に飲んだベニグノ。 本当に植物状態になろうとしたのか、死のうとしたのかはわからないが。
ベニグノのような表現しかできない愛情のあらわしかたがあることを知る、それで私たちも報われる。
顔と顔を見つめ合って、「愛している」と、一日百回も言わなければ確認出来ない愛ではなく、遠く離れていても、心は通じ合っているような愛、とつぶやきながら、夫の事務所へ。
「映画カード、事務所にちゃんと返せ」と、夫からの電話を受けた。そういう実際的な事務連絡以外に電話をよこすこともないから、よほど映画カードを使う必要があるのだろうと思って、映画が終わってすぐ事務所へ行った。
夫は不在で四街道さんがいた。カードを返し、四街道さんのコンピュータソフトを借りた。私の一太郎を四街道さんのパソコンにインストールしてあげたおかえしだ。くつを脱ぐのが面倒なので、玄関にたったまま立ち話。
そこへ夫が帰ってきた。ドアを開けて、私を見ると「ワアッッッ!」と、マンションの廊下中に響く大声で叫んだ。「ちょっとぉ、自分の奥さんの顔を見て、そんなに驚く人はいないと思うけどなあ」と、言いつつ、おかしくて、夫がそそくさと部屋の中に逃げ込むのを見ながら、「ああ、面白い。このネタ、10回くらい使い回して、みんなに吹聴して笑える」と、考えている自分に気づいて、また苦笑。
夫と会う回数より、姑と会う回数のほうが多い、というのもどうかと思うが、「夫が久しぶりに妻の顔を見て、驚いて大声で叫んだ」というのを、ネタにしてやろうとほくそ笑む妻もどうかと思う。
家に帰ってさっそく、娘息子に「お父さんたらねぇ!!」と、ご注進。
本日のつらみ:顔を合わせていなくとも、見つめ合う時間がなくとも、いつかそのうち夫が植物状態になることがあれば、人工呼吸くらいはしてあげよう
2003/11/21 金 晴れ 1055
ジャパニーズアンドロメダシアター>ベアーズキス
ビデオ会話3コマ。2組、新日本語の基礎復習ビデオ「小野一家」のラスト「結婚記念の指輪」と「続ヤン」を最後までと、を見た。1組はヤンの5話
ヤンが日本人女性に失恋して、失恋旅行で雪国を旅行する話、共感する留学生と、「なんじゃこりゃあ」と気に入らない留学生に別れる。愛を成就するか、悲しい別れになるのか、の感性はさまざま。
17日にトークトゥハーの併映作品として『ベアーズキス』を見た。
セルゲイ・ボドロフ(製作/監督/脚本/主演)で、ロシアの民話にもとずく少女とクマの愛の物語。
サーカスのブランコ乗りの少女ローラと、母熊を殺され、サーカスに買い取られた小熊ミーシャ。ミーシャは成長すると人間に姿を変えられるようになり、ローラと愛し合うようになる。
ミーシャを演じている監督ボドロフの風貌が、クマが変身したというのが、何の違和感もなく観客に受け入れられる風貌で、たぶん、監督は自分がクマから変身した人間だと確信してこの脚本を書いたんだろうと思う。
ローラがサーカスの団長に犯されそうになりミーシャはローラを救うため団長を殺す。人を殺したクマはもう二度と人間の姿に戻れない。ローラはミーシャをシベリアの森に返そうと決意する。森へ逃げ込むミーシャ。ローラは思わずミーシャを追いかける。人間の姿に戻れないミーシャを追って、逆にローラは雌熊に変身してミーシャを追いかける。森の奥深く、だれにもじゃまされないところで、ミーシャとローラはクマの夫婦としt仲良く暮らしていくだろう。
というお話。ロシアの民話をきいているような。とにかく私はサーカスや大道芸を舞台にしていれば、なんであれ、好きな映画。『道』のジェルソミーナも、ダンボも、サーカスや、大道芸や見せ物が出てくるだけで満足。
本日のあみ:ミーシャが警察につかまるシーン、網を上からかぶせられてミーシャは捕まってしまう。一網打熊~~~~~~~~~~~~~~~
20151107
東京の街中に仮装した若者であふれた10月31日夜。オールナイト映画で一晩すごしました。館内は仮装して騒ぎ回るなんてことには縁もなく年をとってしまったジジババで満席。森田芳光特集3本立て。
森田芳光、同世代、同学年です。
『阿修羅のごとく』と『家族ゲーム』は何度も見た映画ですが、『失楽園』は初めて見ました。日経新聞読まないから、1995年連載中に朝っぱらから電車の中でオヤジどもが目をこらして読みふけっていたという話もひとごとに聞いていましたが。ヨシミツ監督の映画をウシミツ時に見るのもなかなかたいへんで。
森田作品、好きなのも多いけれど、失楽園は、どう眠い目をこらしても、ところどころ眠ってしまう映像でした。黒木瞳があえいでも「いい女」とは思えないし、役所広司とからんでもやっぱり「男にとって都合のいい女」にしか見えない、というのは、さんざん小説の「凛子」への批判として出されてきたけれど、森田なら森田なりの凛子像を作り上げるかと思って期待していた。
凛子ファンの中高年男はどうか知らぬが、私は残された家族側からしか見ることができぬから、娘が父親の検死長所に「局所結合のまま死後硬直」なんて書かれているのを知ったら、トラウマになるだろうなあと思う。
って、これまでさんざん出されてきた失楽園批判の範疇を出ないつまらぬ感想ですね。
でも、中国で、村上春樹の次ぎにポピュラーな「現代日本文学」が『失楽園』である、と聞かされて以来、なにがそれほどウケたのかと思っていたけれど、中国語文学だと検閲伏せ字に成るだろうことを、日本文学の翻訳なら読めたからだろうと。中国でも、今ならもっと過激な中国語文学も出されているかも。
『失楽園』をR-15の範囲で、上半身のみの描写にしたのも、興行成績あげなければならない「算盤ずく」の問題があるからだろうけれど、ま、そのうちまだ見ていない森田の『算盤ずく』も、R-15『海猫』も見てみよう。
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記11月(5)2003年のトークトゥハー
2003年三色七味日記を再録しています。
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2003/11/17 月
ジャパニーズアンドロメダシアター>トークトゥハー
午前中、作文漢字コマ。
午後、飯田橋ギンレイで映画を見た。
予告編を見て、「バレリーナと女闘牛士の話なら、ぜったいに私のお気に入り映画になるだろう」と思ったら、予想以上だった。
<あらすじ>映画冒頭で、介護人ベニグノとジャーナリストのマルコが映画を見ている。マルコは泣く。アルゼンチン出身のマルコ。アフリカへ恋人を連れて行った。恋人は麻薬依存症。それをなおすための旅だった。依存症から立ち直った恋人はマルコと別れてしまう。マルコは深い孤独の中にいる。そのための涙なのだ。
ピナ・バウシェのダンスシーンが出る。もうそれだけで、この映画は私にとって最高だ。ピナ追っかけ人楠田絵里子によると、ピナの近作は明るく笑える踊りも増えてきたそうだ。
映画の中のピナは、椅子が並んだ中、男と女のコミュニケーション断絶が踊られる。(と、私は感じたが、ダンスシーンは短い一部分だけなので、本当はどういうダンスだったのかは不明)
でも、一部分でも、ピナの踊りが見られて、この映画はピナが出ているだけで合格。ダンスシーンにピナを使おうと思った監督の感性で作られた映画ならば、見る前からいい映画だと思いこめる。
(アリシアとベニグノ)
ベニグノは母親の介護をする以外に家から出なかった男。向かいのバレエ教室に通うアリシアに片想いを寄せる。
母の死後、ある雨の日、アリシアが交通事故に遭い、植物状態になる。ベニグノはアリシアの父(精神科クリニック医師)に雇われ、病院でアリシアを専門に介護する仕事につく。献身的な介護。たえずアリシアに話しかけ、全身をマッサージし、生理の手当もする。
(リデイァとマルコ)
マルコは女闘牛士リディアに興味を持つ。最近有名闘牛士の恋人と別れたことがインタビューで明らかになり、無謀な闘牛試合に出場しようとしていることが発表されているからだ。
リディアは闘牛士の恋人に未練を持っているが、マルコはしだいにリディアに惹かれる。マルコも元の恋人に未練をもっていたが、彼女とほかの人と結婚式に出席し、未練をきっぱり断ち切って、リディアへの愛を告白しようと決意する。
リディアは危険な闘牛試合を決行し、猛牛に全身を突かれて、脳死状態となる。
マルコは、彼女に話しかけることもマッサージしてやることもできない。ただ見つめる。やがてリディアは死に、元恋人から「試合が終わったら、もとのサヤに納まるはずだった」と、聞かされる。マルコには、愛の思い出さえ与えられなかった。
(ベニグノとアリシア)
ベニグノは「植物状態だから話しかけても無駄」という周囲に耳を貸さず、たえずアリシアに話しかける。全身マッサージを続け、日光浴をさせる。
たまの休みの日には映画を見にいくが、それは自分の楽しみのためではなく、アリシアに映画のストーリーを語って聞かせるためだ。アリシアのために、ピナバウシェのダンス映画も見て、ピナにサインをしてもらったパンフレットをアリシアの枕元に飾ってやる。
ある日の映画サイレントムービーがベニグノの心に残る。新薬実験のために、こびとになってしまった男が、恋人をよろこばせるために、全力で巨大な恋人の体を愛撫する。ついには彼女の体内深くもぐっていき、戻らなかったという映画。
ベニグノはその映画を見て、変化する。語りかけ全身をマッサージするだけのコミュニケーションから、ついにもう一歩彼女に近づこうとしたのだ。
アリシアの妊娠が発覚し、ベニグノは逮捕される。ベニグノは刑務所でアリシアの子ども誕生のニュースを待っていたが、死産したと聞き自殺。
(マルコとアリシア)
マルコは、ベニグノのアパートを借り、向かいのバレエ教室に、アリシアが歩いて現れたのを見た。アリシアは妊娠と死産という身体的極限状態を経て、植物状態から奇跡の復活を果たしたのだ。
バレエの公演会場で出会うアリシアとマルコ。マルコはやがて、アリシアに語りかけるだろう。アリシアが何も知らされていない「ベニグノの献身と奇跡の物語」を。
ときどきサイレントムービーのように途中ではさまれる、シーンパラグラフタイトルの最後のタイトルが「アリシアとマルコ」だったから、ふたりがいつか、コミュケーションをかわすだろうという暗示で映画が終わる。
本当にすばらしい映画だった。ことばとコミュニケーションと、人の愛と孤独。4人の男女の生と死はそれぞれに悲しいが、ベニグノの無償の愛は、奇跡となって報われた。
マルコは必ずジャーナリストとしてこの奇跡を世の人に語り継ぐだろう。ベニグノも十分に自分の果たすべき役割をはたし、むくわれたのだ。
母親の死後、一歩も家から出ようとしないひきこもりのまま生きながらえる人生よりも、アリシアの介護人として献身し、彼女の復活をもたらす人生を、ベニグノは生きたのだ。
アリシアが植物状態から回復したことを知らないまま、「彼女と同じ状態になるために」薬を大量に飲んだベニグノ。 本当に植物状態になろうとしたのか、死のうとしたのかはわからないが。
ベニグノのような表現しかできない愛情のあらわしかたがあることを知る、それで私たちも報われる。
顔と顔を見つめ合って、「愛している」と、一日百回も言わなければ確認出来ない愛ではなく、遠く離れていても、心は通じ合っているような愛、とつぶやきながら、夫の事務所へ。
「映画カード、事務所にちゃんと返せ」と、夫からの電話を受けた。そういう実際的な事務連絡以外に電話をよこすこともないから、よほど映画カードを使う必要があるのだろうと思って、映画が終わってすぐ事務所へ行った。
夫は不在で四街道さんがいた。カードを返し、四街道さんのコンピュータソフトを借りた。私の一太郎を四街道さんのパソコンにインストールしてあげたおかえしだ。くつを脱ぐのが面倒なので、玄関にたったまま立ち話。
そこへ夫が帰ってきた。ドアを開けて、私を見ると「ワアッッッ!」と、マンションの廊下中に響く大声で叫んだ。「ちょっとぉ、自分の奥さんの顔を見て、そんなに驚く人はいないと思うけどなあ」と、言いつつ、おかしくて、夫がそそくさと部屋の中に逃げ込むのを見ながら、「ああ、面白い。このネタ、10回くらい使い回して、みんなに吹聴して笑える」と、考えている自分に気づいて、また苦笑。
夫と会う回数より、姑と会う回数のほうが多い、というのもどうかと思うが、「夫が久しぶりに妻の顔を見て、驚いて大声で叫んだ」というのを、ネタにしてやろうとほくそ笑む妻もどうかと思う。
家に帰ってさっそく、娘息子に「お父さんたらねぇ!!」と、ご注進。
本日のつらみ:顔を合わせていなくとも、見つめ合う時間がなくとも、いつかそのうち夫が植物状態になることがあれば、人工呼吸くらいはしてあげよう
2003/11/21 金 晴れ 1055
ジャパニーズアンドロメダシアター>ベアーズキス
ビデオ会話3コマ。2組、新日本語の基礎復習ビデオ「小野一家」のラスト「結婚記念の指輪」と「続ヤン」を最後までと、を見た。1組はヤンの5話
ヤンが日本人女性に失恋して、失恋旅行で雪国を旅行する話、共感する留学生と、「なんじゃこりゃあ」と気に入らない留学生に別れる。愛を成就するか、悲しい別れになるのか、の感性はさまざま。
17日にトークトゥハーの併映作品として『ベアーズキス』を見た。
セルゲイ・ボドロフ(製作/監督/脚本/主演)で、ロシアの民話にもとずく少女とクマの愛の物語。
サーカスのブランコ乗りの少女ローラと、母熊を殺され、サーカスに買い取られた小熊ミーシャ。ミーシャは成長すると人間に姿を変えられるようになり、ローラと愛し合うようになる。
ミーシャを演じている監督ボドロフの風貌が、クマが変身したというのが、何の違和感もなく観客に受け入れられる風貌で、たぶん、監督は自分がクマから変身した人間だと確信してこの脚本を書いたんだろうと思う。
ローラがサーカスの団長に犯されそうになりミーシャはローラを救うため団長を殺す。人を殺したクマはもう二度と人間の姿に戻れない。ローラはミーシャをシベリアの森に返そうと決意する。森へ逃げ込むミーシャ。ローラは思わずミーシャを追いかける。人間の姿に戻れないミーシャを追って、逆にローラは雌熊に変身してミーシャを追いかける。森の奥深く、だれにもじゃまされないところで、ミーシャとローラはクマの夫婦としt仲良く暮らしていくだろう。
というお話。ロシアの民話をきいているような。とにかく私はサーカスや大道芸を舞台にしていれば、なんであれ、好きな映画。『道』のジェルソミーナも、ダンボも、サーカスや、大道芸や見せ物が出てくるだけで満足。
本日のあみ:ミーシャが警察につかまるシーン、網を上からかぶせられてミーシャは捕まってしまう。一網打熊~~~~~~~~~~~~~~~
20151107
東京の街中に仮装した若者であふれた10月31日夜。オールナイト映画で一晩すごしました。館内は仮装して騒ぎ回るなんてことには縁もなく年をとってしまったジジババで満席。森田芳光特集3本立て。
森田芳光、同世代、同学年です。
『阿修羅のごとく』と『家族ゲーム』は何度も見た映画ですが、『失楽園』は初めて見ました。日経新聞読まないから、1995年連載中に朝っぱらから電車の中でオヤジどもが目をこらして読みふけっていたという話もひとごとに聞いていましたが。ヨシミツ監督の映画をウシミツ時に見るのもなかなかたいへんで。
森田作品、好きなのも多いけれど、失楽園は、どう眠い目をこらしても、ところどころ眠ってしまう映像でした。黒木瞳があえいでも「いい女」とは思えないし、役所広司とからんでもやっぱり「男にとって都合のいい女」にしか見えない、というのは、さんざん小説の「凛子」への批判として出されてきたけれど、森田なら森田なりの凛子像を作り上げるかと思って期待していた。
凛子ファンの中高年男はどうか知らぬが、私は残された家族側からしか見ることができぬから、娘が父親の検死長所に「局所結合のまま死後硬直」なんて書かれているのを知ったら、トラウマになるだろうなあと思う。
って、これまでさんざん出されてきた失楽園批判の範疇を出ないつまらぬ感想ですね。
でも、中国で、村上春樹の次ぎにポピュラーな「現代日本文学」が『失楽園』である、と聞かされて以来、なにがそれほどウケたのかと思っていたけれど、中国語文学だと検閲伏せ字に成るだろうことを、日本文学の翻訳なら読めたからだろうと。中国でも、今ならもっと過激な中国語文学も出されているかも。
『失楽園』をR-15の範囲で、上半身のみの描写にしたのも、興行成績あげなければならない「算盤ずく」の問題があるからだろうけれど、ま、そのうちまだ見ていない森田の『算盤ずく』も、R-15『海猫』も見てみよう。