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ぽかぽか春庭「千葉監獄&千葉大学医学部」

2015-11-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151122
ぽかぽか春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(1)千葉監獄&千葉大学医学部

 建物散歩先達のyokoちゃん、これまで「東京都文化財ウィーク」に何度かごいっしょしていただきました。この11月、文化財ウィークに出かけることがなかったのですが、yokoちゃんが京都旅行から帰ったあと、いっしょに千葉市内を歩いてくれるという約束ができて、楽しみにしていました。

 最初の見学場所は、千葉刑務所(旧千葉監獄)。
 9時半の正門オープンに間に合うように飯田橋を出発したつもりでしたが、正門前に着いたときは、もうお目当ての品物をゲットして門を出てくる人もいるほどで、雨の中、矯正制作品の販売テントは大勢の人で賑わっていました。矯正制作品とは、懲役刑を受けた受刑者が技能習得するために制作した品々で、丁寧に作られた品が格安で販売されます。ほぼ材料費のみの木工製品や革製品、人気です。

 私とyokoちゃんは、年に一度だけ正門から入れるチャンスなのでやってきたのですが、私は買う気マンマン。「無料と格安」が大好きなので。

 傘を差して不自由な写真撮影になりましたが、正門や本館を撮影。デジタル一眼レフを使いこなすyokoちゃんに比べると、防水機能がついただけで、私のカメラは「押すだけ」のコンパクトタイプ。建物写真はあとでyokoちゃんのサイトで見せてもらうのを楽しめばいいからと、「刑務所の部屋」なんぞを撮影しました。

 本館の中、玄関ホールには「模擬刑務所室内」がしつらえてありました。3畳間にふとんがたたんで置かれ、テレビも備わっています。1畳分の板の間に洋式便器設置。昔はくみ取り式だったので、室内に臭いがありました。監獄に入ることを「クサイメシを食う」と通称したけれど、現在では個室で食べるにせよ食堂にせよ、臭いなどない、と説明の人。
 刑務所の生活環境がよくなったと説明されても、ここで暮らしたいとは思わないけれど。

本館


 でも、シャバで生活できない年寄りが、無銭飲食や万引き、寺社の賽銭ドロなどの軽犯罪を繰り返し、刑務所で暮らす、という「高齢受刑者」の存在が話題になって久しい。都会の刑務所では受刑者の70%が65歳以上の高齢者になっているという。
 国民年金額は1ヶ月数万程度、アパート家賃を払えば食費にさえ事欠く高齢者が、暴力団の「麻薬運び屋」や振り込め詐欺のケータイ名義人に使われたりして、犯罪者の仲間になり、刑務所に入ってくる。入ってきても、認知症その他の病気になる人も多く、作業は出来ないこともある。

 そんな刑務所ですが、なんとか作業ができ、陶芸なり革細工なりの技術習得に励んだ人もいて、その方達の作品を販売するのが「矯正展」の目的です。私は本革トートバッグを買いました。このバッグを作った人が、罪をつぐなって社会復帰した後、革細工で生活していけるといいですけれど、、、、、というのは建前で、市販品の革バッグに比べればぐんと安いから買ったのだけれどね。

旧千葉監獄本館・正門1907(明治40)竣工。設計:山下啓次郎(1868-1931)。


 山下は、辰野金吾の弟子。同期の弟子は伊東忠太。山下は司法省営繕として、監獄設計を行う。山下が設計した五大監獄のうち、現在も使用されている建物は、この千葉監獄と奈良監獄(現少年刑務所)のふたつ。(ケームショというより、カンゴクと発音する方が、ずっと響きがおそろしげで、いたずらっ子を脅すには「カンゴクに入れるゾ」のほうが迫力ある)
 (山下啓次郎の孫であるピアニスト山下洋輔は、祖父の作った監獄の門をめぐる『ドバラダ門 』を1990年に出版)。



 山下啓次郎が設計した五大監獄のうち、金沢監獄は千葉監獄と同じ年に竣工しました。金沢監獄正門は、1977年に明治村に移築されています。私は、1975年1976年に2度明治村に行ったのに、監獄を見ることがなかった。
 金沢監獄の門、写真で見ただけですが、門柱にあたるレンガ塔が四角です。千葉監獄正門のレンガ塔は丸い。そのため、金沢監獄のほうが厳つい重さを感じます。

金沢監獄正門(明治村移築・明治村サイトより)


 監獄の設計、近代国家の成立にとって、「国家が国民の罪障を監視する」という権力構造の具現であったろうと思います。レンガの建物は、厳かで威圧的でもあるけれど、美しい。それを目にした者が、その威厳にひれ伏すように設計されたのだろうと思います。
 
 刑務所から千葉大学亥鼻キャンパスの医学部へ。
 医学部の建物のうち、本館は、旧千葉医学校校舎。竣工:1936(昭和11)設計:柴垣鼎太郎(文部省建築課長)



 本館は、関東大震災のあと、各地の学校建物が木造からコンクリートに変わっていった時期の建築です。当時の鉄筋コンクリート造の建物の中でも、もっとも大きなもののひとつだろうと思います。ただ、柴垣鼎太郎の作品のうち、上田市の信州大学繊維学部講堂(旧上田蚕糸専門学校)の木造建築のほうが感じがいい。写真で見ただけだけれど。

上田市サイトより
  

 現サークル会館(旧千葉大学医学部神経科精神科病棟)は、1927(昭和2)年竣工。
 武蔵境にある日本獣医生命科学大学のヴォーリス設計の建物も、学生サークル部室として使用されていてぼろぼろになっていたので、同じ理由と思うけれど、サークル会館の内部はかなりぼろくなっていました。古い建物だから、使い勝手が悪くて学生の部室にするくらいしか使い道がないと思われているのでしょうが、学生には今出来の新しいビルを与えて、このような古い建造物は、資料館とか記念館にして保存用にしたほうがいいと思う。学生に使わせておくと、ぼろくなる一方です。



 次回、千葉教会、さや堂ホールへ

<つづく>
コメント (6)
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