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ぽかぽか春庭「稲毛ゆかりの家&旧神谷伝兵衛別荘」

2015-11-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151125
ぽかぽか春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(3)稲毛ゆかりの家&旧神谷伝兵衛別荘

 yokoちゃんと歩いた千葉の町。最後は稲毛で3つの建物を見ました。
 京成稲毛駅から歩いて行くと、ちょうど11月15日日曜日。何組かの親子連れに出会いました。千葉浅間神社にお参りに来た七五三の子供。ハレの衣装に「お姫様みたいなワタシ」に喜んでいる顔もあるし、駅の電車時間を気にしているのか、歩き慣れないぽっくり姿の手を引っ張っている親御さんもいるし。

 浅間神社の森の南側に、「稲毛ゆかりの家」と「旧神谷伝兵衛別荘」があります。毎週稲毛に来ている私。授業は午後からなので、朝早く家を出て建物見物をしたことが2度ほどあります。今回の訪問は3回目です。

 yokoちゃんと建物巡りをしていると、よくわかってきたのですが、同じ建物を見ていても、関心のありどころは違います。
 yokoちゃんは、建築様式や建築家のデザインにも興味を持ち、専門的な見方もできる。一方、私は「この建物がルネサンス様式であるかゴシック様式であるか」ということは、建物の説明パンフレットを見てから、へぇ、そうなのかと思う程度で、建築の専門的なことはほとんどわからずに、ただ見ています。建築家の名前を見ても、その得意とする建築様式などよりも、誰と結婚したとか、誰と仲違いしたとか、この家に住んでいた誰と誰が不倫関係だった、とか、人にまつわる物語を面白がる方です。いわば、ゴシップ鑑賞法。

 建物の写真も、yokoちゃんは、一眼レフ駆使して建物の細かい意匠やレンガの色合いまできれいに撮影できる腕を持っているます。私が撮ったコンパクトカメラの写真は、備忘録的な意味で撮るのみ。建物写真を見たい方は、yokoちゃんサイトへ。
千葉監獄
http://blog.goo.ne.jp/midnight-blues-yoko/e/8cc783b73b21e12a75c07072fef4979b#comment-list
千葉教会
http://blog.goo.ne.jp/midnight-blues-yoko/e/f612514abdd1c03230072e5d465db1cc#comment-list
千葉美術館・神谷伝兵衛・千葉トヨペット
http://blog.goo.ne.jp/midnight-blues-yoko/e/f4fbbc2ed23aeed5ca9b26f3171ca2c6#comment-list

 「ゆかりの家(愛新覚羅溥傑仮寓)」。
 建築史的には、大正年間に建てられた稲毛周辺別荘群のひとつ、ということらしいです。戦災にも遭わず、屋根瓦なども建築当初のものが残されているというので、貴重な建築です。



 私が好きな「ゴシップ鑑賞法」によるならば、この「ゆかりの家」の物語は満州皇弟夫妻のハネムーンハウスだった、ということに尽きるでしょう。ラストエンペラー溥儀の弟溥傑と嵯峨浩が、満州国に渡る前の新婚初期の半年をすごした家なのです。

 溥傑は、1929年に日本に留学。満州国建国(1932年)後、皇弟という立場になり、結婚も兄皇帝溥儀と満州国を牛耳る関東軍によって取り図られました。しかし、政略結婚ではあったけれど、溥傑と浩は夫婦愛を貫きました。

 このへんのいきさつは、竹野内豊が溥傑を演じ常盤貴子が浩を演じたドラマ『流転の王妃・最後の皇弟』(2003)が、脚色はあるにせよ、夫妻の愛の遍歴がわかる物語になっていました。
 私は、2003年に娘息子といっしょに見たあと、再放送を録画して今年2015年にも見ました。(ケニアロケをしているから、という理由でさだまさし原作大沢たかお主演の『風に立つライオン』を見たり、旧満州の光景がちょっとでも見られるかと『流転の王妃』を見たり、私は自分がすごした地域が写されている映画やドラマをできる限り見ようとする「私のいた場所」大好き人間です)



 この「愛新覚羅溥傑仮寓」でもドラマロケが行われました。
 ドラマの原作『流転の王妃の昭和史』によれば、この仮寓で浩は長女を妊娠したということなので、夫妻にとっては短い新婚生活とはいえ思い出深い住まいだったことと思います。

 仮寓には、離れが一間ついており、以前来たとき解説員から聞いた話だと、母屋のほうには来客や使用人、溥傑の従卒当番兵もいる状態だったけれど、この離れではふたりきりですごすことにしていた、ということでした。



 大官貴顕の家では、家を保ち体面を整えるための結婚が多く、表向きだけの結婚生活をおくる家庭が多かったことを思うと、敗戦によって中国と日本に引き裂かれた期間があったとはいえ、夫婦愛を貫けた嵯峨浩は、幸福な妻であったと言えましょう。

 そんな物語に思いをはせながら見ているのが、私の「建物探訪」です。
 ゆかりの家の近くにある旧神谷伝兵衛別邸も、ワイン王と呼ばれた神谷伝兵衛にまつわる物語がいろいろ。

 神谷伝兵衛(1856-1922)は、名主の家に生まれましたが、江戸時代末期には家は傾き、さまざまなところに奉公に出て働き苦労を重ねました。1873(明治6)年に、兄の勧めにより横浜に出て、フランス人経営のフレッレ商会酒類醸造場で働いたことから、ワインに興味を持ちました。1880年、東京浅草で、一杯売り家「みかはや銘酒店」(後の神谷バー)を成功させ、1886(明治19)年に、日本人向けに甘い味を加えた「蜂印香竄葡萄酒」 (はちじるしこうざんぶどうしゅ)を製造販売、大ヒットとなりました。儲けた金で茨城牛久の土地を買ってぶどう園とし、1903(明治36)年にはワイン醸造場の神谷シャトー(現シャトーカミヤ)を設立しました。

 という物語は、以前に神谷伝兵衛別荘を紹介したときにもUPしました。
 2011年にはまだブログに写真をつけていなかったので、2014年にもう一度写真付きの建物紹介をしました。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/568524a56aa07f288b9f5eacb5d2fb45



 今回撮った写真を見たら、2014年に撮ったのとまったく同じアングルでした。3度目なのだから、もうちょっと違うアングルで撮ったらいいのに。どうも好みの角度というのが決まっているるみたいです。脳が固定化していますね。

玄関前

ベランダ

東側


 私の見方は、神谷伝兵衛別荘の「コンクリート洋館」という建築洋式の興味はそこそこにして、神谷伝兵衛が上層階級にしか飲まれていなかったワインを、甘みの強い「ポートワイン」として大衆の飲料にしていった、その人物伝への興味を持つことのほうがおおきい。
 床柱に葡萄のの木を使い、欄間には葡萄の木を彫らせる、そのこだわり方も含め、ほんとうに葡萄酒が大好きだったのだろうなあと思います。

欄間の葡萄房


シャンデリアの付け根も葡萄意匠ということですが、なんだかよくわかりませんでした。


障子の桟の組み方デザインも心地よいですが、埃をためないようにお掃除する人はたいへん、と思ってしまう貧乏性。


 いつか、茨城牛久のワイン醸造所、シャトーカミヤ(重要文化財)の建物も見に行きたいです。

<つづく>

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(つけたし)
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(1)流転の王妃

2003/12/01(月)
ジャパニーズアンドロメダシアター>『『流転の王妃・最後の皇弟』

 漢字作文2コマ。

 愛新覚羅浩と溥傑を主人公にしたドラマ『流転の王妃』を見た。ビデオの前半。
 娘が常盤貴子のファンなので、常磐貴子が浩を演じるのを見たいというし、息子は、5歳のとき一ヶ月をすごしたけれど、自分の記憶が薄れてしまった長春の町のようすが、テレビに映るかも知れないという興味があったので、見ることにした。

 ドラマ化にあたっては、浩の自伝と溥傑の自伝から脚色という。私は渡辺みどりの『、『愛新覚羅浩の生涯・昭和の貴婦人』を読んだだけで、ふたりの自伝を直接には読んでいない。

 どのような脚色になるのか、竹野内豊が溥傑なのだから、絶対に超美化されているだろうとは、予測がつくが、中国と日本の暗黒時代の交流史をどの程度描ききれるのか興味があった。

 予測通り、浩がひとりで新京の町を歩き回ったりする「アリエネー」という設定もあったが、ドラマとしてのできはそうひどくもなり。中国側の歴史観もふまえて、浩と溥傑を「日本と中国のかけ橋として努力した人」として描いている。

本日のそねみ:16年離ればなれになっていても愛を貫いた夫婦


2003/12/02 (火)
ジャパニーズアンドロメダシアター>『『流転の王妃・最後の皇弟』

 漢字、会話2コマ。

 流転の王妃の後編ビデオ。
 長春は、現地ロケじゃないと思うが、町の雰囲気はよく出ていた。

 満州皇帝の皇居であったところが、博物館になっていた。そこで娘と息子が、満州皇帝と皇后の衣装をつけて記念写真を撮ったけれど、写真はついに送られてこなかったことなどを話したり、故宮、天安門の前で息子が大泣きしたことなどを話したり。

 中国を舞台とし、満州国の成立と消滅に関わる歴史だから、描くのが難しい面もあったろう。

 架空の人物の描き方。中国人留学生と結ばれ、抗日運動をする夫に従って新京へ流れていった「ハル」。新京で浩と関わることは「アリエネー」設定だが、最後にロシア兵から「女をさしだせ」と命じられた満州開拓地避難民が、妻や娘を守るために遊郭で働いていた女達をさしだした、というエピソードは実話を聞いたことがあった。「おかげで、娘や妻を狼藉にあわせずに帰国できた」という新聞投書を読んだことがあるのだ。

 形勢不利の情報をつかむや一般人を見捨てて逃げた関東軍幹部に比べて、みずから志願してロシア兵のもとに同行し、避難民の女子どもを守った娼婦たちがいたことを、ドラマではあっても、テレビで知らせることができてよかったと思う。

 16年の間、夫と妻が日本と中国に離ればなれにされ、安否もわからない。夫と離れている間に、大事な長女が、恋愛のもつれから無理心中へ至り、死んでしまう。
 ほんとに、実話じゃなければ「アリエネー」というくらいの大波乱の末、浩は、夫の国中国へ行き、夫と共に暮らすことを選んだ。

 敗戦後の逃避行を体験した浩、その逃避行のつらい経験こそがお姫様育ちの皇弟妃殿下を成長させ、16年間の夫との別離を耐えさせたのだろうと思う。

 浩が日本で父親の経営する女学校の教師として、静かに在る程度のゆとりのある暮らし続けたとしてもだれも非難はしなかったろう。しかし、浩は、まだ激動の中にある人民中国へ渡ることを決意した。日本と中国が国交回復する前。中国に渡れば、二度と日本の家族親戚とは会えないかもしれないことを覚悟で、夫の待つ中国へ戻った。

 夫との日々をとりもどし、死ぬまで「日本と中国の架け橋」となるべく努めた。
 この一点だけでも、浩を評価したい。

 溥儀の皇后婉容が阿片中毒だったこと。清朝において女性達が阿片をたしなんだのは王朝末期の習慣として、日常的なものだったと思う。王朝に限らず、金持ち階級の暇な奥方が阿片中毒になっていた話は、いろいろな物語からも推察される。

 しかし、関東軍にとっては、皇后に跡継ぎが生まれないようにすること、皇后を阿片付にしておくことは必要だったろうから、甘粕や川嶋芳子を通じて皇后に阿片が潤沢に与えられていたことは考えられる。

 逃避行がはじまり、阿片が供給されなくなってからの婉容の廃人としての生活を思うと、この人もまた歴史の暗部によって殺された人なのだと気の毒に思う。最後は看取る人もなくたった一人で自分の糞便にまみれて死んだと伝えられる一国の皇后。
 国を代表する人間と結婚した女の運命。

 
コメント (2)
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