20160202
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜さまよい日記1月(1)おばあちゃん
2月7日は、姑ユキ子の誕生日です。2016年の誕生日で、91歳になるところでした。
でした、と過去形であるのは、91歳の誕生日を迎えることはできなかったからです。
姑ユキ子は、2015年12月5日夜に虚血性心不全で永眠いたしました。
12月、来週から新学期開始というとき、夜中まで準備に追われていて、おなかがすいた私は買い置きのアボガドを切り、固いタネを取り出して夜食にしようとしました。手がすべり自分の手のひらをナイフで突いてしまいました。血が噴き出し、アボガドの黄色い実が赤くなるスプラッター。あわてて右手で左手の手のひらをきつく押さえ、水道の水を流しながら30分じっとしていました。最初に出た血の量が多かったので、どれほどの深手かと心配し、すぐに病院へ行くべきか迷いましたが、血が止まって見ると、傷口の大きさはそれほどでもない。
これならすぐに病院へ行かなくてもいいかと待つことにし、朝まで傷口を押さえたまま待っているのも退屈だから、メールを開けてみました。
娘からのメール。おばあちゃんが亡くなったと。
ああ、私の手から血が噴き出したのも、この出来事の虫の知らせだったのかと思いました。私は、任期契約期間中は帰国もできません。事前に1月末の私立大学補講のための一時帰国は申請して許可を得ていましたが、教師がひとりしかいない当地の大学日本語教室で、仕事をやすむわけにはいかない状態でした。
忌引きを申し出れば許可は出たのかもしれません。しかし、新学期早々授業が休講になってしまうことの責任を考えると、仕事優先にしなければなりません。そういうことも承知で、3月までの任務を引き受けたのです。
よく、舞台俳優は親が死んだとしても、舞台では喜劇であっても演じ続けなければならない、といいます。一般の会社などでは、忌引きは当然の権利であっても、自分ひとりで仕事をする、というのは、こういう事態も含めて仕事をまっとうしなければならないということなのだと思い知りました。
12月5日土曜日。いつものように、娘と息子がおばあちゃんと週末をすごしていました。
おばあちゃんは、夕方まで娘と買い物に出かけました。冬物のズボンを買ったり、日曜日にくる植木屋さんにお茶出しをするのだと、植木屋さんの好みのお菓子を買ったりして、たのしそうにおしゃべりを続けました。
夜、息子が「おばあちゃん、おばあちゃん」と叫ぶので、ウトウトしていた娘が気づくと、おばあちゃんはすでにぐったりしていて、救急車を呼び、救急隊員が心肺蘇生措置をとったけれど、病院に着いたときは既に心肺停止になっていたそうです。診断名は虚血性心不全。
メールをくれたときの、娘の落ち込み方は、たいへんでした。おばあちゃんが一人でいたときになくなったなら「いっしょにいればよかった」と落ち込むのでしょうが、いっしょにいたらいたで、「おばあちゃんの異変に気づいたときには間に合わなかった、もっと気づくのが早ければ、蘇生できたのではないか、自分たちがついていながら、おばあちゃんの命を助けられなかった」と、強い嘆きをメールで伝えてきたのです。
私は、おばあちゃんが孫ふたりとしあわせな時間をすごしたあとに亡くなったのは、ほんとうに幸福な90年の人生であり、ふたりが見落としたから亡くなったのではない、と、片手を押さえながら、指一本で返信しました。
医師の診断では、虚血性心不全と言うことで、眠るような最後であったことがわかり、娘もおばあちゃんの死が「お迎えがきたので、自然に、おじいちゃんのいるところへ行った」という状況であったことを納得しました。90歳で心臓ペースメーカー装着の手術には成功したのですが、やはり心臓への負担はあったのだろうと思います。
家族は、ペースメーカーをつけておばあちゃんが再び元気になり、「リハビリがんばって、またみんなで温泉へいこうね」と言うおばあちゃんを応援していたのです。家族でよく106歳でなくなったおチヨ伯母さんを越えるかも、と、言っていました。それくらい生きる意欲の強い人でしたから。
親戚縁者への連絡、葬儀手配など、娘と息子は父親を助けながらというより、父親が子供達に助けられながら行い、母親不在の家族の一大事を終えました。
夫は、「個人として生きる」という信念を曲げない人で、親戚なども関わってくる儀礼儀式が大嫌いなのです。
姑がお世話になった近所への挨拶回りなども、娘に「僕は後ろに立って頭下げているから、挨拶はおまえにまかせる」と、娘に「丸投げ」したそうで、ほんとうにこのようなときには何もしない人。
でも、娘は自分の強い悲しみを押し殺して「お父さんも母親を亡くして落ち込んでいるんだから」と、一人で葬儀準備に奮闘しました。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜さまよい日記1月(1)おばあちゃん
2月7日は、姑ユキ子の誕生日です。2016年の誕生日で、91歳になるところでした。
でした、と過去形であるのは、91歳の誕生日を迎えることはできなかったからです。
姑ユキ子は、2015年12月5日夜に虚血性心不全で永眠いたしました。
12月、来週から新学期開始というとき、夜中まで準備に追われていて、おなかがすいた私は買い置きのアボガドを切り、固いタネを取り出して夜食にしようとしました。手がすべり自分の手のひらをナイフで突いてしまいました。血が噴き出し、アボガドの黄色い実が赤くなるスプラッター。あわてて右手で左手の手のひらをきつく押さえ、水道の水を流しながら30分じっとしていました。最初に出た血の量が多かったので、どれほどの深手かと心配し、すぐに病院へ行くべきか迷いましたが、血が止まって見ると、傷口の大きさはそれほどでもない。
これならすぐに病院へ行かなくてもいいかと待つことにし、朝まで傷口を押さえたまま待っているのも退屈だから、メールを開けてみました。
娘からのメール。おばあちゃんが亡くなったと。
ああ、私の手から血が噴き出したのも、この出来事の虫の知らせだったのかと思いました。私は、任期契約期間中は帰国もできません。事前に1月末の私立大学補講のための一時帰国は申請して許可を得ていましたが、教師がひとりしかいない当地の大学日本語教室で、仕事をやすむわけにはいかない状態でした。
忌引きを申し出れば許可は出たのかもしれません。しかし、新学期早々授業が休講になってしまうことの責任を考えると、仕事優先にしなければなりません。そういうことも承知で、3月までの任務を引き受けたのです。
よく、舞台俳優は親が死んだとしても、舞台では喜劇であっても演じ続けなければならない、といいます。一般の会社などでは、忌引きは当然の権利であっても、自分ひとりで仕事をする、というのは、こういう事態も含めて仕事をまっとうしなければならないということなのだと思い知りました。
12月5日土曜日。いつものように、娘と息子がおばあちゃんと週末をすごしていました。
おばあちゃんは、夕方まで娘と買い物に出かけました。冬物のズボンを買ったり、日曜日にくる植木屋さんにお茶出しをするのだと、植木屋さんの好みのお菓子を買ったりして、たのしそうにおしゃべりを続けました。
夜、息子が「おばあちゃん、おばあちゃん」と叫ぶので、ウトウトしていた娘が気づくと、おばあちゃんはすでにぐったりしていて、救急車を呼び、救急隊員が心肺蘇生措置をとったけれど、病院に着いたときは既に心肺停止になっていたそうです。診断名は虚血性心不全。
メールをくれたときの、娘の落ち込み方は、たいへんでした。おばあちゃんが一人でいたときになくなったなら「いっしょにいればよかった」と落ち込むのでしょうが、いっしょにいたらいたで、「おばあちゃんの異変に気づいたときには間に合わなかった、もっと気づくのが早ければ、蘇生できたのではないか、自分たちがついていながら、おばあちゃんの命を助けられなかった」と、強い嘆きをメールで伝えてきたのです。
私は、おばあちゃんが孫ふたりとしあわせな時間をすごしたあとに亡くなったのは、ほんとうに幸福な90年の人生であり、ふたりが見落としたから亡くなったのではない、と、片手を押さえながら、指一本で返信しました。
医師の診断では、虚血性心不全と言うことで、眠るような最後であったことがわかり、娘もおばあちゃんの死が「お迎えがきたので、自然に、おじいちゃんのいるところへ行った」という状況であったことを納得しました。90歳で心臓ペースメーカー装着の手術には成功したのですが、やはり心臓への負担はあったのだろうと思います。
家族は、ペースメーカーをつけておばあちゃんが再び元気になり、「リハビリがんばって、またみんなで温泉へいこうね」と言うおばあちゃんを応援していたのです。家族でよく106歳でなくなったおチヨ伯母さんを越えるかも、と、言っていました。それくらい生きる意欲の強い人でしたから。
親戚縁者への連絡、葬儀手配など、娘と息子は父親を助けながらというより、父親が子供達に助けられながら行い、母親不在の家族の一大事を終えました。
夫は、「個人として生きる」という信念を曲げない人で、親戚なども関わってくる儀礼儀式が大嫌いなのです。
姑がお世話になった近所への挨拶回りなども、娘に「僕は後ろに立って頭下げているから、挨拶はおまえにまかせる」と、娘に「丸投げ」したそうで、ほんとうにこのようなときには何もしない人。
でも、娘は自分の強い悲しみを押し殺して「お父さんも母親を亡くして落ち込んでいるんだから」と、一人で葬儀準備に奮闘しました。
<つづく>