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ぽかぽか春庭「さらに続く悲しみ」

2016-02-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160206
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜日記1月(4)さらに続く悲しみ

 おばあちゃんが亡くなったとき、夫タカ氏がまっさきに知らせたのは、亡き姉の連れ合いだったヒロ氏でした。
 おばあちゃんが亡くなったという知らせ、本来なら一番身近な親族であるユキ子さんの姉、タケ子伯母に知らせるべきところでした。しかしタカ氏がまっさきに知らせたのは、ユキ子さんの娘婿であるヒロ氏。翻訳家のヒロ氏は、海外での仕事に出かける矢先だった、というのを取りやめて、駆けつけてくれました。

 義姉の存命中、タカ氏にとって、ヒロ氏は、「家族にとってもっとも大切な姉を自分たちからかっさらって行った人物」で、それほど親しい間柄にも思えませんでした。しかし、2000年に、義姉が亡くなったあと、ふたりは亡き妻亡き姉の思い出を語り合ううち、無二の親友になったのです。
 以後、タカ氏はことあるごとに家族の問題もヒロ氏に相談し、ヒマがあれば雑談をする仲になりました。

 そのヒロ氏が、突然くも膜下出血で亡くなってしまったのです。ユキ子おばあちゃんの死からわずか3週間後のこと。同じ12月の出来事でした。
 タカ氏、娘息子の衝撃はどれほど大きかったことでしょう。おばあちゃんの死もショックでしたが、虚血性心不全で眠るような安らかな死だったと、医師から説明を受けたあとは、最後の日まで孫と幸せな生活をおくることができた90年の大往生だったと納得することもできたのですが、ヒロ氏は還暦を迎えたばかり60歳の死です。

 翻訳書を何冊も出版しているとはいえ、翻訳で食べていけるのは、一部の著名な翻訳家だけ。出版関係のさまざまな頼まれ仕事もこなしながら、翻訳を続けてきたヒロ氏でした。ヒロ氏&義姉一家、結婚以来、ずっと貧乏な一家で、我が家と同様でした。
 「家族を喰わせてやることを放棄して、カネにはならなくても、自分の選んだ仕事を追求する」という点でタカ氏とヒロ氏は意気投合した仲だったのです。

 姑ユキ子さんにはその点が不満でした。いつも家族を貧乏なままに捨ておく婿殿ヒロ氏が不満で不満で、ヨメである私にその不満をぶつけていました。「ヒロさんがあんなに貧乏でなかったら、娘も若死にをしなかったのに」と。

 あまりな言いようについつい「でも、お義母さん、タカ氏も同じですから、ヒロさんばかり悪く言うのはかわいそうですよ。家庭を顧みないことにかけては、タカさんのほうがひどいです」
 ユキ子さんはいつも「お宅は、お嫁さんのあなたがしっかり者だったから、孫達もちゃんと育ったのよ。ヒロさんは、子供3人の養育を放棄していて、私が意見すると、子供は勝手に育ちますから口出し無用って、取り合ってくれなかった」
 ユキ子さんにとっては、稼ぎのない婿殿が頼りなく、孫達の教育へも口出ししたくてたまらない。婿殿は、そんなおばあちゃんが少々けむったい、そういう仲でした。

 そんなヒロ氏でしたが、自分の母親を四国から東京に呼び寄せ、初志変えることなく翻訳家として貧乏生活を続けました。義姉と出会ったのも、翻訳学校で、ということを語っていました。ヒロ氏にしてみれば、翻訳家を続けることが、妻との思い出を守ることだったのかもしれません。

 たった一人の親友であるヒロ氏を失ったタカ氏の衝撃も大きいものだったでしょう。けれど、母親が50歳の誕生日の少し前に亡くなり、今度は父親が60歳で亡くなってしまった、義姉の娘たちもほんとうに気の毒です。
 長女は母親を早くに亡くしたことから看護師さんをめざし、大学で看護師と保健師さんの資格を得ました。今は男の子、女の子の母親となり、保育施設の看護師さんとして働いています。次女はシングルマザーで男の子を育てています。

 娘には、従姉ふたりの支えになってあげて、とメールしました。ヒロ氏のお母さんは84歳で我が子に先立たれてしまいました。親にとって、子に先立たれるほど悲しいことはありません。
 娘が病院にかけつけたところ、ヒロ氏のお母さんは、「そばにいてほしい」と娘に頼んだのだそうです。どれほど心細かったことでしょうか。ヒロ氏の実姉は九州にいて、東京に着くのは翌日になるとのことでした。

 こんな悲しい年末を過ごすことになったのに、私は契約の仕事ですから、最初に申し出ておいた一時帰国のほかに休みを取ることはできません。ボスは12月24日に日本へ帰国してしまっていますから、事務所には私一人なのです。日本語教室を空にすることもできず、私は仕事を続けました。

 ヒロ氏の翻訳の仕事関係の人々も葬儀に来てくれて、「つらすぎて葬儀に出たくない」と、いつものわがままを言っていたタカ氏も、ヒロ氏のやりかけ仕事の跡始末の相談などをすることが忙しくなり、娘にひっぱられて葬儀に参列できてよかった、ということになったそうです。幼い孫が、ひつぎに向かって「じいじ、いっぱい遊んでくれてありがとう」と言ったひとことに、参列者みなが胸をうたれ、家族は号泣だったと言うことですが、孫のことばにおくられた旅立ちとなりました。

 娘の心に寄り添ってあげることもできず、おばあちゃん死去の悲しみから回復できないまま身近な人を再び失ってしまった息子の衝撃を癒やすこともできない、なんとも情けない母親でした。年末に「いてもたってもいられないのに、どうすることもできない事態」というのは、こういう事情でした。ほんとうにつらい出来事でした。

 1994、2007、2009年に中国に赴任したときは、大変ではあってもつつがなく勤務をまっとうできました。それが当然の出来事だったのではなく、家族がそろって健康でいてくれたからこそ可能であった、ということに今さらながら気づきます。
 今回のヤンゴン赴任、一番必要なときに家族のそばにいてやれなかった後悔は、一生引きずることになるでしょう。

<つづく>
コメント (4)
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