20160218
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン暮らし2月(1)福祉と現世来世
ミャンマー、人々は寺に寄進をすれば来世がよくなるので、せっせとお寺に寄付をします。毎朝の托鉢にごはんやおかずを鉢僧の鉢の中にいれてさしあげます。誕生日など節目節目には、まとまったお金を寺に寄進します。生まれてきて今の生活があるのは仏のおかげなので、誕生日には感謝をこめてお寺に寄進するのです。(周囲の人々にも、誕生日の人は感謝をこめてプレゼントを贈る。誕生日の人が皆からプレゼントを受け取るのではありません)
どんなに困っても、とりあえず寺にかけこめば、寺の下働きなどで生きていける。孤児などもしかり。しかし、下働きもできない場合、町角に座ってものごいをする。町の人々はけっこう乞食の鉢にも100チャット10円、200チャット20円のおさつを入れています。(当地にコインなし)
足がない人など、身体が不自由な人が多い。
人々は小銭をものごいの鉢に入れてあげているけれど、決して彼らに同情はしないし、政府が福祉政策でかれらを救うべきだ、とも考えていません。どんな知識人教養人でも、「かれらが現世で身体が不自由になり乞食ををしているのは、前世の行いが悪かったからだ」と、見なしているからです。現世での自分の立場は、前世での行いの可否により、現世の行いが来世のステージを決める、この考え方は、日本の人が「太陽は東から昇り西に沈む」や「昼は太陽が照らし、夜は月が照らす」と考えているのと同じくらい、絶対確実の思想です。
前世があっての現世の生活であり、現世の行いが来世を決める、という考えがあまりにも浸透しているため、「現世で乞食なっているのは、前世の行いによる」というのを、だれも疑ったりしません。乞食に小銭をあげるのは、かれらに同情してではなく「自分の来世が少しでもよくなるために、現世でよいことをしておく」というためにするのです。乞食にあげるよりも、お寺にあげるほうがずっと来世には「効き目」があるのですが。
お寺は日常の托鉢のほか、さまざまな寄進を受けるので、どんな場末の寺でも、けっこうな金持ちです。高僧になると、ベンツでもキャデラックでも持っているといいます。
で、その高僧は、寺で働く下働きの人に対して「おまえらは、前世での行いが悪かったから今下働きをしているのであって、私は前世の行いがホトケのめがねにかなったから、今こうしてエライ坊さまになったのだ」と、見なしていて、自分の徳を彼らに分けてやろうなどとはつゆほども考えません。せっせとパーリ語のお経を読むことが自分のやるべきことであって、下働きの人に親切にすることは、高僧のやるべきことじゃないからです。
寺が、寄進された財産財物を世のため人のために使うとしたら、たとえば寺子屋の開設です。ミャンマーは世界でもGNPの低い国のひとつですが、国民の識字率は世界の発展途上国の中では抜群に高い。これは、お寺が開いている無料の寺子屋で、貧乏な人でも文字をまなぶことができるからです。サイカー(自転車タクシー)の運転手でも、タバコ1本5円で売る場末の露店商でも、熱心に新聞を読んでいます。
また、孤児を寺の下働きとして受け入れるので、孤児が路頭に迷うことはめったにありません。そのかわり、孤児に対してお坊さん達は「この子らは親を失ったかわいそうな子供だ」なんぞと思ったりせず、「おまえらが孤児になったのは、前世の行いが悪かったから」と、こき使うのです。まあ、それでも孤児が飢えることはない。
年をとって病気になり、働けなくなっても、「ああ、私は前世の行いが悪かったために今病気になり、こうしてひとりで死んでいくのだ」と考えて、少しでもお寺に寄付をして、来世がよくなるように願うのです。
したがって、この国の福祉政策というのは、政権が変わっても、当分は寺任せが続くのではないかと思います。
私からみると納得できない考え方なのですが、当地の人にとっては、「前世来世の因果応報」が絶対の真実。私が「太陽は東からのぼる」というのを疑うことなく受け入れているのと同じことで、「いや、南半球では、1月2月が夏で7月8月が冬だ。それは南半球では太陽は西からのぼるからだよ」と聞かされても、信じないのと同じです。(子供のころ、大学生だった叔父にこう言い聞かされてすっかりだまされ、南半球では西から太陽が昇ると信じていたんですけれど、今はね)
当地で「前世も来世もない」と言っても、だれも信じないでしょう。宇宙研究者でも、遺伝子研究者でも。
ある調査によると、日本の若い世代で、輪廻転生を信じている人、4割いるそうです。そういう若者には「オメーラ、来世でハエに生まれ変わらないように、現世でせっせと善行をつみなさいよ」と、言ってあげましょう。
私は、来世がハエでもよい。私は輪廻転生というのは、遺伝子の継続のことだと思っています。私の前世はネアンデルタール人であってもよいし、来世が乞食であってもいい。でもね、私、現世ではけっこう善行つんでいるんじゃないかしら。主観的には、だけど。あ、当地のお寺に寄進をしたのは、ダラの孤児学校を経営しているお寺に1万チャット千円を寄付したときだけだから、まだ善行たりないか。
さて、日本の現世の福祉政策です。
介護保険適用、見直しが始まりましたね。私が介護を受けるころには、保険認定を受けても、「あんたは、口ばっかり達者だけれど、とにかく口は達者なのだから、歩けなくても手が使えなくても、耳が遠くなってほとんど聞こえないといっても、介護保険の適用はありません」とか言われそうです。でも、みながそういう政府がよいと思っているなら、この国はそうなっていくのでしょう。まあ、私の場合、文句と愚痴の口はいつまで達者なのか、と思っていますけど、今でも耳はそうとう遠くなっています。1万ヘルツの音は聞こえません。
京都では、40代の姉弟が相次いで家の中でなくなっていたのが発見された、というニュースをネットで見ました。死因が確認できないほどの遺体の状態であったとか。
わが娘、30代になったのだけれど、身体が丈夫ではありません。息子もアラサーになったけれど、まだ自立には至らず、ふたりの10年後20年後を思うと、京都の姉弟の不幸がひとごととは思えません。
京都の姉弟が福祉窓口に相談したとき、福祉の職員は「みなりもきちんとしていて、生活に困窮しているとは思えなかった」という理由で手をさしのべず、「仕事をさがせ」と言っただけで見放したのだそうです。悲しい国だなあ。
将来の娘息子へのアドバイスとしては、「福祉窓口に行くときはできるだけみすぼらしい服装でいくように」ということになるのでしょうか。
娘が今の私の服装をみたら「ハハなら、今のそのかっこうで、じゅうぶんにみすぼらしいからOKだね」と、言うでしょう。はい、おっしゃるとおり、インセイン通りの服屋で3900チャット390円で買った中国製のパジャマズボンのようなのを履いてバス通勤しています。
授業中はロンジーという当地の伝統的な腰巻きスタイルに着替えるので、行き帰りの衣装コンセプトは、バス通勤に楽、ということだけ。にしても、日本なら福祉窓口で十分に同情をかえそうな身なりです。準備万端です。なにしろ、内閣支持率が50%越えた、というニュースをみましたから、今から準備おこたりなしに超したことはない。
中古車というより、日本で廃車になったのが輸入されているバス。バス停4つ分(4kmくらい)乗って200チャット20円です。ものすごいキッタネーおんぼろのバスですが、乗っている人たちのロンジースタイルは、シャンとしたのもあり、よれよれもあり。よれよれ度では、わたしも負けていない。
町のロンジー屋。年にカンケーなく、みな鮮やかな色合いを好みます。
HALのお寺参りスタイル。授業の時と寺参りはロンジーで。
<つづく>
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン暮らし2月(1)福祉と現世来世
ミャンマー、人々は寺に寄進をすれば来世がよくなるので、せっせとお寺に寄付をします。毎朝の托鉢にごはんやおかずを鉢僧の鉢の中にいれてさしあげます。誕生日など節目節目には、まとまったお金を寺に寄進します。生まれてきて今の生活があるのは仏のおかげなので、誕生日には感謝をこめてお寺に寄進するのです。(周囲の人々にも、誕生日の人は感謝をこめてプレゼントを贈る。誕生日の人が皆からプレゼントを受け取るのではありません)
どんなに困っても、とりあえず寺にかけこめば、寺の下働きなどで生きていける。孤児などもしかり。しかし、下働きもできない場合、町角に座ってものごいをする。町の人々はけっこう乞食の鉢にも100チャット10円、200チャット20円のおさつを入れています。(当地にコインなし)
足がない人など、身体が不自由な人が多い。
人々は小銭をものごいの鉢に入れてあげているけれど、決して彼らに同情はしないし、政府が福祉政策でかれらを救うべきだ、とも考えていません。どんな知識人教養人でも、「かれらが現世で身体が不自由になり乞食ををしているのは、前世の行いが悪かったからだ」と、見なしているからです。現世での自分の立場は、前世での行いの可否により、現世の行いが来世のステージを決める、この考え方は、日本の人が「太陽は東から昇り西に沈む」や「昼は太陽が照らし、夜は月が照らす」と考えているのと同じくらい、絶対確実の思想です。
前世があっての現世の生活であり、現世の行いが来世を決める、という考えがあまりにも浸透しているため、「現世で乞食なっているのは、前世の行いによる」というのを、だれも疑ったりしません。乞食に小銭をあげるのは、かれらに同情してではなく「自分の来世が少しでもよくなるために、現世でよいことをしておく」というためにするのです。乞食にあげるよりも、お寺にあげるほうがずっと来世には「効き目」があるのですが。
お寺は日常の托鉢のほか、さまざまな寄進を受けるので、どんな場末の寺でも、けっこうな金持ちです。高僧になると、ベンツでもキャデラックでも持っているといいます。
で、その高僧は、寺で働く下働きの人に対して「おまえらは、前世での行いが悪かったから今下働きをしているのであって、私は前世の行いがホトケのめがねにかなったから、今こうしてエライ坊さまになったのだ」と、見なしていて、自分の徳を彼らに分けてやろうなどとはつゆほども考えません。せっせとパーリ語のお経を読むことが自分のやるべきことであって、下働きの人に親切にすることは、高僧のやるべきことじゃないからです。
寺が、寄進された財産財物を世のため人のために使うとしたら、たとえば寺子屋の開設です。ミャンマーは世界でもGNPの低い国のひとつですが、国民の識字率は世界の発展途上国の中では抜群に高い。これは、お寺が開いている無料の寺子屋で、貧乏な人でも文字をまなぶことができるからです。サイカー(自転車タクシー)の運転手でも、タバコ1本5円で売る場末の露店商でも、熱心に新聞を読んでいます。
また、孤児を寺の下働きとして受け入れるので、孤児が路頭に迷うことはめったにありません。そのかわり、孤児に対してお坊さん達は「この子らは親を失ったかわいそうな子供だ」なんぞと思ったりせず、「おまえらが孤児になったのは、前世の行いが悪かったから」と、こき使うのです。まあ、それでも孤児が飢えることはない。
年をとって病気になり、働けなくなっても、「ああ、私は前世の行いが悪かったために今病気になり、こうしてひとりで死んでいくのだ」と考えて、少しでもお寺に寄付をして、来世がよくなるように願うのです。
したがって、この国の福祉政策というのは、政権が変わっても、当分は寺任せが続くのではないかと思います。
私からみると納得できない考え方なのですが、当地の人にとっては、「前世来世の因果応報」が絶対の真実。私が「太陽は東からのぼる」というのを疑うことなく受け入れているのと同じことで、「いや、南半球では、1月2月が夏で7月8月が冬だ。それは南半球では太陽は西からのぼるからだよ」と聞かされても、信じないのと同じです。(子供のころ、大学生だった叔父にこう言い聞かされてすっかりだまされ、南半球では西から太陽が昇ると信じていたんですけれど、今はね)
当地で「前世も来世もない」と言っても、だれも信じないでしょう。宇宙研究者でも、遺伝子研究者でも。
ある調査によると、日本の若い世代で、輪廻転生を信じている人、4割いるそうです。そういう若者には「オメーラ、来世でハエに生まれ変わらないように、現世でせっせと善行をつみなさいよ」と、言ってあげましょう。
私は、来世がハエでもよい。私は輪廻転生というのは、遺伝子の継続のことだと思っています。私の前世はネアンデルタール人であってもよいし、来世が乞食であってもいい。でもね、私、現世ではけっこう善行つんでいるんじゃないかしら。主観的には、だけど。あ、当地のお寺に寄進をしたのは、ダラの孤児学校を経営しているお寺に1万チャット千円を寄付したときだけだから、まだ善行たりないか。
さて、日本の現世の福祉政策です。
介護保険適用、見直しが始まりましたね。私が介護を受けるころには、保険認定を受けても、「あんたは、口ばっかり達者だけれど、とにかく口は達者なのだから、歩けなくても手が使えなくても、耳が遠くなってほとんど聞こえないといっても、介護保険の適用はありません」とか言われそうです。でも、みながそういう政府がよいと思っているなら、この国はそうなっていくのでしょう。まあ、私の場合、文句と愚痴の口はいつまで達者なのか、と思っていますけど、今でも耳はそうとう遠くなっています。1万ヘルツの音は聞こえません。
京都では、40代の姉弟が相次いで家の中でなくなっていたのが発見された、というニュースをネットで見ました。死因が確認できないほどの遺体の状態であったとか。
わが娘、30代になったのだけれど、身体が丈夫ではありません。息子もアラサーになったけれど、まだ自立には至らず、ふたりの10年後20年後を思うと、京都の姉弟の不幸がひとごととは思えません。
京都の姉弟が福祉窓口に相談したとき、福祉の職員は「みなりもきちんとしていて、生活に困窮しているとは思えなかった」という理由で手をさしのべず、「仕事をさがせ」と言っただけで見放したのだそうです。悲しい国だなあ。
将来の娘息子へのアドバイスとしては、「福祉窓口に行くときはできるだけみすぼらしい服装でいくように」ということになるのでしょうか。
娘が今の私の服装をみたら「ハハなら、今のそのかっこうで、じゅうぶんにみすぼらしいからOKだね」と、言うでしょう。はい、おっしゃるとおり、インセイン通りの服屋で3900チャット390円で買った中国製のパジャマズボンのようなのを履いてバス通勤しています。
授業中はロンジーという当地の伝統的な腰巻きスタイルに着替えるので、行き帰りの衣装コンセプトは、バス通勤に楽、ということだけ。にしても、日本なら福祉窓口で十分に同情をかえそうな身なりです。準備万端です。なにしろ、内閣支持率が50%越えた、というニュースをみましたから、今から準備おこたりなしに超したことはない。
中古車というより、日本で廃車になったのが輸入されているバス。バス停4つ分(4kmくらい)乗って200チャット20円です。ものすごいキッタネーおんぼろのバスですが、乗っている人たちのロンジースタイルは、シャンとしたのもあり、よれよれもあり。よれよれ度では、わたしも負けていない。
町のロンジー屋。年にカンケーなく、みな鮮やかな色合いを好みます。
HALのお寺参りスタイル。授業の時と寺参りはロンジーで。
<つづく>