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ぽかぽか春庭「姑ユキ子の生涯」

2016-02-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160204
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜日記1月(3)姑ユキ子の生涯

 姑ユキ子は、1925年2月7日生まれ。
 1925年生まれの姑は、昭和元年は1歳、昭和63年は63歳で、年がわかりやすい。平成になってからは、孫息子1988年生まれの年を63に足す。息子は平成元年が1歳、平成27年が27歳なので。

 ユキ子さんが9歳、末の弟が4歳のとき、ユキ子さんの父親が病死しました。乏しい田畑の収入だけでは生活できない状況から、母親は床屋の技術を身につけ、「村の床屋」として働いて4人の子供を育てました。父親の死のあと、末の弟も病死しました。

 山深い地元の小学校を卒業すると、田舎から町の女学校へ通いました。田舎の子供が女学校へ行くのは、お金持ちと決まっていたのに、金持ちでもない家から進学できたのは、ユキ子さんの母親が「十分な田畑を持たない親がしてやれるのは、教育だけ」という信念を持っていたからです。

 ユキ子さんの兄と姉も、師範学校に進学しました。当時、学費免除で勉強ができたのは、教員になるための師範学校か軍人になるための士官学校だけでした。
 長兄は師範学校卒業して中学校教師となり、姉も小学校教師として働き出したので、ユキ子さんも進学することができたのです。

 貧乏だったので、通学には苦労しました。雪深い冬。他のクラスメートは冬期期間中は町の下宿屋から通学したのに、ユキ子さんの家は下宿屋に払うお金がなく、冬も自宅から通学した、と、この話を何度でも聞かされました。鉄道の駅まで1時間歩き、鉄道で30分、学校まで30分歩き、2時間かかった。駅までの1時間、かんじきで雪道を歩いたこと。女学校では体操が苦手で困ったこと。

 苦労はしたけれど、晩年、同窓会は姑の楽しみのひとつになっていましたし、「貧乏なのに進学させてくれた母親への感謝の気持ち」が強く、私が「こどもを抱えながら二つ目の大学に通うことにし、大学院にも進学する」ということになったときも、賛成してくれました。

 しかし、女学校を卒業する頃には戦争が激化し、家で花嫁修業などというのんびりしたことをやっていると、動員されて工場などで武器作りなどをやることになる、と兄姉に言われて、村の郵便局で働くことにしました。

 郵便局で働き、終業間際になると、近所の子供達がユキ子さんの姉の子供、姑の甥っ子を連れてやってくる。姑は甥っ子を背負い、小学校教員の姉が帰宅するまで子守をしてすごしました。士官学校出の軍人と結婚した姉たけ子さん。たけ子さんの夫は結婚してまもなく戦死し、女手一つで息子を育てていました。姑にとって、甥っ子は、我が子同様にかわいがって育てた子どもでした。

 ユキ子さんは、知り合いの紹介で銀行員サトルさんと結婚し、山形で結婚生活を始めました。サトルさんが仕事で東京へ出ることになり、武蔵小山にひっこしてきました。慣れない東京の暮らしの中、ご近所の方に助けられ、世話になった話も何度も聞きました。1

 1950年代の東京。まだ東京タワーもできていない東京の生活は、田舎者の姑にはたいへんだったことでしょう。しかし、ご近所同士の親戚づきあいみたいなおつきあいに助けられました。
 タケ子さんの息子、姑の甥っ子が大学進学のために上京し、姑は二人の子といっしょに甥っ子の世話をしました。タケ子さんは定年退職まで地元の教師として働きました。

 娘と息子を育てながらの銀行員の妻としての暮らし。
 ユキ子さんの夫サトルさんはカタブツで、酒も煙草も賭け事も女遊びもしない。しかし、気むずかしい夫の世話はたいへんだった、と、娘には話したことがあったそうです。私は、ユキ子さんの口からサトルさんへの愚痴は聞いたことがなかったけれど。

 ユキ子さんの痛恨事は、実の娘が「売れない翻訳家」と結婚し、四国という遠くに行ってしまったこと。貧乏暮らしの苦労の末に、3人の子を残して50歳で亡くなってしまったこと。ガンの闘病5年目のことでした。
 ユキ子さんは、娘の病気治療と生活費のために、当時貯めていた貯金を使い、娘の死の1年後、サトルさんが2001年に入院したときも、「免疫治療」という保険のきかない癌治療のために貯金を使い果たしました。2002年にサトルさんを見送りました。

 舅と義姉のふたりの病院費用で1千万円以上つかった、と言うのを聞いて、驚きましたが、2007年に自宅を「新築そっくりさん」という方法で改築したときも、「現金払い」で改築費を工面したときいて、またまた驚きました。年金生活なのに、どうして?我が家の貧乏生活からは想像できません。秘密の利殖。ユキ子さんは、少額ながら株の売買をしていたのです。けっして「大穴狙い」などはせず着実に株が下がったときに買い、上がったときに売る。娘と息子は、おばあちゃんから「お金はこうして運用する」という話を聞いたとき、「バーチャン、すっげえ」と思ったそうです。同時に「自分たちは決して株売買などには手をだすべきでない」と、思ったとも。

 ユキ子さんは、孫娘といっしょに買い物するのが何よりの楽しみでした。亡くなった当日も、昼間は娘と買い物に出て、「次にデイケアセンターにいくとき、今度買った冬ズボンはいて行こう」と、楽しみにしていたそうです。孫ふたりと楽しい週末をすごし、翌週を楽しみにしながら、静かに逝った姑。眠るようなお顔の最後だったそうです。

 最後まで生きる意欲を失わず、「おばあちゃん、100歳まで生きてね。100歳になったら、なにしようか」と尋ねると、「100歳になったらお金持ちになりたい」と言っていました。心臓が弱って後は、得意の株売買は「投資信託任せ」にしていたようですが、「お金持ちになりたい」というのは、ユキ子さんらしくていいな、と思いました。
 
 姑は88歳の米寿までは元気に一人暮らしを続けていましたが、89歳を過ぎると心臓が悪くなり、90歳を前に入院。90歳誕生日を病院で迎えたあと、心臓ペースメーカーの手術を受けました。退院後は、平日はデイケアセンターに通い、夜は夫タカ氏が泊まる、週末は娘と息子がお相手をする、という生活を続けました。
 昭和平成の庶民史を生ききったユキ子さん。

 おじいちゃんのお葬式の時は、「本家の墓に入れなさい」という親族にさからって、東京の納骨堂式のお墓に入れました。今はいっしょにいます。
 今頃は、おじいちゃんとよもやま話しているでしょうか、、、、、完全無宗教人間だったユキ子さんは、「死んだら灰になるだけよ。葬式も戒名もいらない」と言っていましたが。
 私は、舅姑ふたり仲良くおしゃべりしている姿を思い浮かべることにしています。

 ユキ子さん、90年の生涯、お疲れ様。
 至らぬヨメでしたが、デイケアセンターで「ヨメ自慢」してくれてありがとう。

 2011年2月におばあちゃん誕生日ランチを横浜中華街でしました。86歳の誕生日祝い。


 中華街は春節祝いで賑わっていました。


 中華街から山下公園を通り、赤レンガ倉庫、ランドマークまで歩き通しました。姑はさすがに疲れたようでしたが、「疲れたならランドマークの展望台はやめて、もうかえろうか」と聞くと、「展望台に行ってみたい」といい、横浜夜景を眺めました。あとで、娘と「私たちにはちょうどいい横浜散歩だったけれど、おばあちゃんにはハードな歩行数だったね」と、反省しました。でも、楽しい思い出が残せてよかった。
 
<つづく>
コメント (8)
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