20161119
ぽかぽか春庭@アート散歩>劇的なるロシア(3)チェホフ『三人姉妹』
19世紀末期、ロシア革命前夜、帝政ロシア崩壊前夜のロシア社会。ゴーリキーのどん底に見る底辺社会もあれば、社会変動などどこ吹く風で舞踏会に明け暮れていた貴族社会もあった。
1900年。まさに世紀の変わり目のロシアの姿を書き残したのが、アントン・チェホフの『三人姉妹』。
田舎町に暮らす三姉妹を主人公に、ロシア革命を目前とした帝政ロシア末期の家族を描いています。知識階級のプローゾロフ家は、父親が高級軍人として華やかな生活を送ったモスクワをなつかしむばかり。1917年の革命の足音は、田舎の町にはまだ遠い。
一家の三姉妹。長女オーリガは独身教師。次女マーシャは、教師の夫クルイギンに幻滅しつつ惰性で暮らしています。三女イリーナは、まだ人生を始めることもできていない。共通しているのは。三人とも、兄の姿に我慢がならないこと。兄嫁のナターシャを「無教養の田舎者」と、軽蔑していること。
父の死後、一家をたてなおすべき長男のアンドレイは学者になる夢を捨てて、田舎娘のナターリヤと結婚し、市長秘書に甘んじています。そのくせ学者になれなかった自分を認めることができず、賭博におぼれていきます。ナターリャはアンドレイを尻に敷き、三姉妹に対し、しだいに態度を大きくしていきます。
マーシャは妻子あるヴェルシーニンとの不倫に身をこがすようになり、イリーナは「働いて輝きたい」と言っていたのが、実際に働いてみると、退屈で輝きのない労働に幻滅して、男爵との結婚を決意します。しかし、結婚前夜、男爵はイリーナへの愛を競ったソリューヌイと決闘に向かい、、、
「三人姉妹」は、何度も新劇系の劇団で上演されています。女優が三人そろうと、三人姉妹やりたくなるみたいです。
私が今年テレビで見たのは、昨年2015年3月にケラリーノ・サンドロヴィッチ演出シスカンパニーのバージョン。4月に録画しておいて、やっとこの夏に見ました。
長女オーリガに余貴美子、次女マーシャに宮沢りえ、三女イリーナに蒼井優。三人の女優&ナターリャ役の神野三鈴、4人の女優が丁々発止と台詞を交わす演技合戦がすごかったし、ヴェルシーニン役の堤真一もよかった。
舞台の役者中心に見るなら、とても上出来の「三人姉妹」だったと思うのだけれど、私は、チェホフがこの戯曲を「喜劇である」として執筆したことがわからない。みんながみんな、思い通りにいかない閉塞感を抱えて、閉塞したままおわるんです。笑えない。
どこにも出口のない閉塞した田舎暮らし。「モスクワへ」という希望も打ち砕かれ、よりどころのひとつだった家さえも借金の抵当。
このお芝居で一番がっしりと生きているのは、ナターリャです。3人の小姑達に、下品だ、無教養だ、田舎者だとさげすまれているのに、着々と夫を尻に敷き、家を自分の領分にしていく。長年仕えてきたばあやを、年取って思うようにこき使えないからと、追い出そうとするなど、自己本位で無神経な女性だけれど、ひたすら我が子がよい思いができるようにとがむしゃらです。神野三鈴は、生命力の強い女性を描き出していました。
姉妹三人とも人生思い通りにはいかないとしても、食べるに困っているわけじゃない。どん底の人々に比べると、「四の五の言ってないで、働け!」ですが、「働こう」と言って働き出したイリーナは、「労働はたいくつで、心をすり減らす」なんぞとぬかす。
「劇的なるロシア劇」のなかで、チェホフはあまり劇的じゃない。静かに退屈に日常が過ぎていく、「劇的じゃないロシア」です。「劇的じゃない人間」を描くのが目的なら、チェホフは、その姿を的確に描写しているのですが、見ている方としては、それは、自分を見ていれば十分、というところ。
たいていの人の「自分史」というものが、自分史を書いた人の家族以外には退屈そのものの読み物となるように、三人姉妹の物語も、最後の決闘以外はドラマチックではない。まあ、それが人生なのでしょう。そして、三人姉妹が言うように、なんであろうと生きていかなくちゃならぬ。
<おわり>
ぽかぽか春庭@アート散歩>劇的なるロシア(3)チェホフ『三人姉妹』
19世紀末期、ロシア革命前夜、帝政ロシア崩壊前夜のロシア社会。ゴーリキーのどん底に見る底辺社会もあれば、社会変動などどこ吹く風で舞踏会に明け暮れていた貴族社会もあった。
1900年。まさに世紀の変わり目のロシアの姿を書き残したのが、アントン・チェホフの『三人姉妹』。
田舎町に暮らす三姉妹を主人公に、ロシア革命を目前とした帝政ロシア末期の家族を描いています。知識階級のプローゾロフ家は、父親が高級軍人として華やかな生活を送ったモスクワをなつかしむばかり。1917年の革命の足音は、田舎の町にはまだ遠い。
一家の三姉妹。長女オーリガは独身教師。次女マーシャは、教師の夫クルイギンに幻滅しつつ惰性で暮らしています。三女イリーナは、まだ人生を始めることもできていない。共通しているのは。三人とも、兄の姿に我慢がならないこと。兄嫁のナターシャを「無教養の田舎者」と、軽蔑していること。
父の死後、一家をたてなおすべき長男のアンドレイは学者になる夢を捨てて、田舎娘のナターリヤと結婚し、市長秘書に甘んじています。そのくせ学者になれなかった自分を認めることができず、賭博におぼれていきます。ナターリャはアンドレイを尻に敷き、三姉妹に対し、しだいに態度を大きくしていきます。
マーシャは妻子あるヴェルシーニンとの不倫に身をこがすようになり、イリーナは「働いて輝きたい」と言っていたのが、実際に働いてみると、退屈で輝きのない労働に幻滅して、男爵との結婚を決意します。しかし、結婚前夜、男爵はイリーナへの愛を競ったソリューヌイと決闘に向かい、、、
「三人姉妹」は、何度も新劇系の劇団で上演されています。女優が三人そろうと、三人姉妹やりたくなるみたいです。
私が今年テレビで見たのは、昨年2015年3月にケラリーノ・サンドロヴィッチ演出シスカンパニーのバージョン。4月に録画しておいて、やっとこの夏に見ました。
長女オーリガに余貴美子、次女マーシャに宮沢りえ、三女イリーナに蒼井優。三人の女優&ナターリャ役の神野三鈴、4人の女優が丁々発止と台詞を交わす演技合戦がすごかったし、ヴェルシーニン役の堤真一もよかった。
舞台の役者中心に見るなら、とても上出来の「三人姉妹」だったと思うのだけれど、私は、チェホフがこの戯曲を「喜劇である」として執筆したことがわからない。みんながみんな、思い通りにいかない閉塞感を抱えて、閉塞したままおわるんです。笑えない。
どこにも出口のない閉塞した田舎暮らし。「モスクワへ」という希望も打ち砕かれ、よりどころのひとつだった家さえも借金の抵当。
このお芝居で一番がっしりと生きているのは、ナターリャです。3人の小姑達に、下品だ、無教養だ、田舎者だとさげすまれているのに、着々と夫を尻に敷き、家を自分の領分にしていく。長年仕えてきたばあやを、年取って思うようにこき使えないからと、追い出そうとするなど、自己本位で無神経な女性だけれど、ひたすら我が子がよい思いができるようにとがむしゃらです。神野三鈴は、生命力の強い女性を描き出していました。
姉妹三人とも人生思い通りにはいかないとしても、食べるに困っているわけじゃない。どん底の人々に比べると、「四の五の言ってないで、働け!」ですが、「働こう」と言って働き出したイリーナは、「労働はたいくつで、心をすり減らす」なんぞとぬかす。
「劇的なるロシア劇」のなかで、チェホフはあまり劇的じゃない。静かに退屈に日常が過ぎていく、「劇的じゃないロシア」です。「劇的じゃない人間」を描くのが目的なら、チェホフは、その姿を的確に描写しているのですが、見ている方としては、それは、自分を見ていれば十分、というところ。
たいていの人の「自分史」というものが、自分史を書いた人の家族以外には退屈そのものの読み物となるように、三人姉妹の物語も、最後の決闘以外はドラマチックではない。まあ、それが人生なのでしょう。そして、三人姉妹が言うように、なんであろうと生きていかなくちゃならぬ。
<おわり>