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ぽかぽか春庭「映画山中常盤」

2019-03-23 00:00:01 | エッセイ、コラム

 羽田澄子監督作品『山中常盤』パンフレット

20190223
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート散歩2019(5)映画山中常盤

 3月9日、東京都美術館へ。
 「奇想の系譜」展の関連イベントとして映画「山中常盤 牛若丸と常盤御前ー母と子の物語」が上映されることを知り、この映画を見るために、第3水曜日の無料公開日でなく、前売り券を買って観覧したのです。チケット半券提示で映画を見ることができます。

 私は、『平塚らいてうの生涯―元始、女性は太陽であった』などの羽田澄子監督作品を見てきました。
 羽田澄子。1926年生まれ。現在92歳。
 岩波映画製作所で監督としてドキュメンタリーを取り始めてから、また、独立して夫工藤充がプロデューサーをつとめる自由工房で二人三脚で歩んできてからも、ドキュメンタリーの作り手として、名作と呼ぶにふさわしい映画を作り続けてきました。

 10時半から入場整理券配布、11時半上映開始の回を見た後、すぐに1時半整理券配布の列に並び、2時半上映の回も見ました。こののちいつ上映があるかわからないから、2回見ることにしたのですが、2回目に見て正解でした。
 午後の回に、「奇想の系譜」の著者辻惟雄とその弟子で「奇想の系譜展」監修者山下裕二、そして思いがけないことに、監督羽田澄子監督がおそろいで、会場で映画をごらんになったのです。
 左:羽田監督 中:辻惟雄先生 右:山下裕二先生


 ミーハーHALは、映画が終わってからサインもらっている人がいるのを見て、我もわれもとパンフレットにサインもらってきました。午前の回のとき、パンフレット買っておいてよかった。午前中だけで売り切れでした。パンフレットは、自由工房編集2005年発行。
 左端に「羽田澄子」サイン


 私の安物ボールペンで書いてもらって申し訳なかったけれど、監督は「ヘタな字でごめんなさい」とおっしゃった。いえいえ、一生の宝物です。

 有名人を見るとすぐにサインもらいたがる人、みたいに思われても仕方がないけれど、だれにでもサインをせがんでいるんじゃありません。HALが「この人のように生きていきたい」と思える先達に書いてもらっているんですからね。羽田澄子は世田谷九条の会呼びかけ人にして、卒寿を超えてもしゃんとしていらっしゃる。
 杖を携えていらしたけれど、歩き方はシャキシャキとしていて、膝を悪くして以来のたりのたりと歩く私よりしっかり歩いてらした。とてもチャーミングな方でした。

 ファンから握手を求められる羽田監督。その後ろに辻惟雄先生


 羽田澄子は、絵巻の詞書を「人形あやつりの古浄瑠璃」で語られたものとし、鶴澤清治に作曲を依頼。鶴澤は、詞書に曲をつけ、全巻三味線をひいています。豊竹呂勢大夫(文楽義太夫)の声と清治(ツレは清二郎)の三味線が絵物語を立体的にし、現代のアニメ活劇にも負けない迫力を生んでいます。
 詞書以外の部分は、ナレーションを喜多道枝、音楽は高橋アキ演奏のサティ作曲「ヴェクサシオン」。

 山中常盤物語は、中世御伽草子などに見られる物語のひとつですが、史実にもとづく話ではなく、牛若丸の仇討ち英雄譚として語られます。
 古浄瑠璃節によるあやつり人形の上演をもとに絵巻が描かれたとみられ、岩佐又兵衛工房制作とされる『洛中洛外図 舟木本』の中に、芝居小屋の絵のわきに「かぶき」「やまなかときは」という文字が見られます。

 全12巻。150m。「奇想の系譜」展には、前期が巻4、後期が巻5の展示。私は前期の巻4を見ました。MOA美術館が4年前のリニューアルオープンしたときに「山中常盤物語」全12巻の展示があったのですが、私は見ることかなわず。

 映画は、物語を追って絵巻を撮影していきますが、冒頭に牛若丸が住んだ奥州平泉の景色や途中に又兵衛の一族が皆殺しにされた有岡城の跡の景色などがはさまります。片岡京子演じる十二単の貴人が現れ、12巻の絵巻を前に悲しそうな表情をみせます。牛若の母常盤のようでもあり、又兵衛の母、「たし」のようにも見えます。(大河ドラマ『官兵衛』では、桐谷美玲が「たし」を演じていました。たいていの歴史ドラマでは荒木村重の一族皆殺しのところまでしか出てきませんが、官兵衛のときは、村重が各地放浪の末、ちゃっかり茶人として生き残るところまでドラマにしていました)。

 源義経の母常盤は、源義朝との間に生まれた3人の子の命乞いのため、源義朝の敵平清盛に身を預けた、とされていますが、史実の裏付けはありません。
 義朝が1160年に平治の乱で討ち果たされたのち、1163年には一条長成との間に一条能成を生んでいます。こちらは史実の裏付けあり。賢く絶世の美女であったとされていますから、義朝亡きあと引く手あまたであったことはわかります。

 義経はのちに一条長成の養子となっていますから、常盤としては、寺送りになった息子3人の庇護を求めるために、すぐに再婚する必要があったのだと思います。それにしても、前夫がなくなって2年とたたないうちに再婚していたとは、さすが、都のうちの美女千人集めた中の第一の美女といわれた常盤さんだわ。公家の結婚、正妻は政略結婚も多いのに、義朝側室となる前は雑仕女にすぎなかった常盤を正妻格で迎えたのは、よほど常盤を愛していたのね。

 山中物語は、鞍馬山を抜け出して行方不明となっていた牛若丸に一目会いたいと、乳母と二人だけで奥州目指して旅に出て、山賊に命を奪われる常盤の物語と、母の死を知り、山賊に仇討ちを果たす15歳の牛若丸の物語です。

 貴族の女人が、物騒な時代に乳母と二人だけで旅に出ることはありえないし、山賊に身ぐるみはがされることになるようなきらびやかな装束を身に着けて歩くこともないのですが、そこは御伽草子。貴人の装束は華麗でなければならないし、仇討ち場面を描くには、凄惨な母の死を語らねばなりません。

 岩佐又兵衛「山中常盤物語」
巻1
 牛若は鞍馬の寺を抜け出し、平泉の藤原秀衡を頼って東下り。常盤は京の屋敷で行方不明になったと伝えられた牛若の身を案じています。(史実では、一条長成が自分の親戚にあたる秀衡に牛若の育成を頼んだということですから、常盤は安心して牛若を秀衡に託したと思います)

巻2 巻3
 常盤は侍女の「侍従」たったひとりを供に連れ、奥州をめざします。慣れない旅の道に疲れ、山中宿についたとき、病に伏せてしまいます。

巻4 巻5
 山賊6人が宿に押し入り、常盤と侍従の装束をはぎ取り、ふたりとも殺してしまいます。宿の夫婦は、誰とも知らないまま常盤を土葬にして弔います。

巻6 巻7
 牛若の夢枕に立った常盤は、母の仇を討てと告げます。牛若は山中宿に到着し、宿の夫婦の話から母の最期を知り、仇討ちを誓います。盗賊をおびき寄せるために、衣装や道具を宿に持ってきたことを触れ歩きます。

 盗賊どもをおびき寄せるために、牛若丸は山中宿に装束を並べて見せつけます。


巻8 巻9 巻10
 盗賊6人が宿にやってくると、牛若は6人とも首を切り胴を真っ二つに切り、仇討ちを果たします。盗賊の亡骸は菰にくるんで川に投げ捨てます。回向ができないような形で亡骸を扱うのは、一番ひどい扱い方で、この盗賊は人ではない「鬼」として扱われたことがわかります。

巻11 巻12
 18歳になった牛若、元服して義経と名乗り、大軍の将として晴れがましく@g2上洛するさまを描いています。義経は殺された母を弔ってくれた山中の宿夫婦に手厚く礼をつくします。

 映画『山中常盤』
 プロローグ実写
 冒頭は、北上川の流れ。方丈記の冒頭部分が朗読されます。
 ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、、、、

 義経の死から400年たったころの洛中洛外図。岩佐又兵衛工房の作とされる舟木本。南蛮人の行列や歌舞伎の触れ歩きなど、にぎやかな京の町の描写のなか、「山中ときはあやつり」という人形浄瑠璃の小屋があります。

 義経と常盤の紹介

 第1巻から古浄瑠璃の詞章に鶴澤清治が作曲した義太夫が流れます。
♪さてもそののち御曹司は十五と申せし春のころ、奢る平家を攻めんためあづまをさしてくだらせ給う♪

 第五巻のあと、又兵衛の紹介。有岡城、福井城。乳飲み子又兵衛が救いだされ、絵師になって生きていく。
 山中常盤物語絵巻の作者岩佐又兵衛(1578-1650)は有岡城主荒木村重の息子。村重は、織田信長に謀反を起こして逃走隠遁します。村重が有岡城に残した妻子郎党一族600人は信長に処刑されました。母のたし(だし)は21歳で首をはねられました。たしと荒木村重の子、乳飲み子であった又兵衛は、乳母に連れられて城を抜け出し本願寺にかくまわれたとされています。
 石山本願寺の門徒に匿われて育った又兵衛は、母たしの旧姓岩佐を名乗り、福井や江戸で絵師となって生きていきます。

 第6巻-第10巻
 牛若丸は、盗賊たちをぶった切る。首を切る胴を切る手足を切る。


 第11巻-第12巻。
 大軍の将として上洛する義経


 エピローグ実写
 関が原に残る現在の山中の宿。常盤の墓と伝わる場所。
 又兵衛と義経の最後。義経は藤原泰衡の裏切りにあい、平泉で討ち死に。
 又兵衛は、江戸に招かれ72歳の一期まで絵を描きました。

 朗読「朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける
 「終」マーク。クレジット。

 よい映画でした。絵巻が現代によみがえり、詞章が読めない私も物語を堪能できました。
 又兵衛の絵もすごいし、羽田監督の描き方もすばらしい。

 映画パンフレット、絵巻の詞章などは全部読んでいないけれど、辻惟雄先生の解説文を読み、疑問点がありました。パンフレットの13ページ。

「(又兵衛)60歳にあたる寛永十四(1637)年、尾張徳川藩の姫が宗家に嫁ぐ婚礼調度の作成を命じられ、家族を(福井に)残して江戸へ出、そのまま江戸に住んで慶安3年(1652)73歳でなくなっている」という部分。
 
 寛永14年の徳川家婚礼というと、三代将軍徳川家光の娘千代姫が数え3歳で尾張徳川家の光友に嫁いだ婚礼以外にありえません。
 家光の嫡男家綱は1641年にようやく生まれましたから、1937年に婚礼できるはずもない。 尾張徳川家と宗家の1637年の婚礼なら、「初音の調度」という超豪華嫁入り道具を携えて尾張家に嫁いだ千代姫3歳と尾張徳川光友13歳の婚礼のことだと思います。

 この豪華な婚礼は、尾張家と宗家の緊張関係を和らげるための輿入れという意味も含まれる、と私は思います。輿入れとは、言ってしまえば人質と同じ。二代秀忠の娘千姫が豊臣秀頼のもとに嫁いだときの事情と同じ。
 千代姫は尾張で光友と共に育ったおかげで、夫との仲もよく、子も生まれています。

 政略結婚、家格上位の姫が下位の家に嫁ぐ場合、お飾りの正妻という場合が多く、夫はすでに側室との間に多くの子をなしている、という例が多かったのに比べると、千代姫は幸福な結婚であったようで、初音の調度も喜んでいることでしょう。現在国宝として徳川美術館に所蔵されている初音の調度、私は、江戸東京博物館の「尾張徳川家の至宝展」2013で見ることができました。
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/805882a6a2133bf6db39977f080e5923
 (ちなみに、海外流出した初音の調度のうち、お櫃のひとつは、オランダのアムステルダム国立美術館が9億6000万円で落札)。
 
 辻惟雄先生、美術史のすごい学者ですし、国宝「初音の調度」のこともよくご存じのはずですが、美術史の本ではなく、映画のパンフレットだったので、輿入れの姫を尾張と宗家で逆にし、校閲がないままパンフレットに残ったのだと思います。

 徳川宗家に輿入れした御三家の姫は、徳川15代の中にひとりもいません。大名家から将軍正室となった例は二人いて、一人は薩摩藩島津重豪の娘。近衛家の養女という格式で11代家斉の正室になりました。家斉死去ののちは広大院と称する。もうひとりは、やはり薩摩藩島津家から近衛家に養女となったのち13代家定の正室となった天璋院篤姫。将軍の正室となれるのは、皇女か公家(摂家)の娘だけでしたから、尾張家の姫が宗家に輿入れということはありえないのです。

  論文として発表されたものは史実確認の上で書いておられるでしょうが、映画パンフに解説を執筆した時は、「奇想の系譜」から30年もたった頃。記憶で岩佐又兵衛の晩年について書き、婚礼の姫がどちらから輿入れしたか取り違えたのかも。

 もちろん姫がどちらからどちらに行こうと「奇想の系譜」の本の価値も映画山中常盤の価値も関わることはありませんけれど、家業が校正屋だもんでいささか気になったまで。
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 映画を見たときのわたし(3月9日)


<おわり> 
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