20220122
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2022ふたふた日記冬夜(2)一葉&鷗外
わたしは、50年前の専攻は日本文学でしたから、一葉も鷗外もそれなりに読んできました。しかし地理学専攻の娘は、高校国語教科書に一葉の「たけくらべ」下駄の鼻緒シーンが出てきたかも、という程度。鷗外の山椒太夫は?ほら安寿と厨子王の話、と聞くとああ安寿厨子王の話は絵本で読んだかなあ、という近代文学に縁薄い娘。そんな娘が、ぐるっとパス使い倒しのために、娘がまだいったことのない一葉記念館と鴎外記念館を観覧してみようといいます。私も、一葉記念館は新しい建物になってから一度も行っていないし、鴎外記念館は鴎外記念図書館の時代から一度もいったことがなかったです。
最初は、墨田区竜泉の一葉記念館へ。
先日和田誠展を見にいったオペラシティを設計した柳澤孝彦の設計した近代的なビル建物で、娘は「あまり明治文学の香りがしない建物だなあ。もうちょっと明治の雰囲気がしてもいいかも」という感想。台東区が市民文化センターとしても集会所などを利用するための建物ですから、2006年の最新設備になったのでしょう。
一葉記念館

館内の展示は、一様の自筆原稿レプリカなど。
写真をとりたいなあと、思う展示物には撮影禁止マークがでています。
一葉が最初に世に問うた小説「闇桜」の自筆原稿レプリカ

真多呂人形制作による一葉執筆人形

一葉は、生活に困窮し借金を重ねます。生活を仕切りなおそうと、「士族」の誇りを捨てて下町竜泉で開業した駄菓子雑貨の店。その当時の竜泉の模型が展示されていました。

竜泉に住んだのは、満9か月。1年足らずの下町暮らしで、一葉はまた元の本郷に戻りましたが、この竜泉の暮らしが一葉の文学を深化させたのです。
一葉の小説第8作「雪の日」をモチーフにした絵「雪晴れの朝」

竜泉のの一葉駄菓子屋に雪がふった朝の光景です。
「雪の日」は、師を慕う恋の物語。
小説の師であり心の中で慕う半井桃水に師事することを、和歌塾の師匠中島歌子に禁じられたことを執筆動機にしたと思われる小説です。
田舎娘の珠が、伯母に禁じられても師の桂木を慕い、ついに出奔。東京で桂木の妻となったあと、決して幸せな結婚ではなかったことを悔いる、という物語。多くの人が指摘しているように、桃水の妻になっても決して幸福にはなれない、と、自分に言い聞かせるために書いたように思われる短編です。
生活のためになら、あやしげな相場師を単身でたずねて借金を申し込む、というような大胆な行動もとれた一葉ですから、奇跡の14か月といわれる短い執筆時期のあと、24歳で結核に倒れていなければ、どんな作品を残したでしょうか。
擬古文で書いた一葉なので、漱石鴎外らが近代文体を確立したあとには、新しい作品はだせなかっただろう、という評もあります。流れ星のように光り輝きつつ消えていったからこそ、後世にこれほどたたえられる作品を残せたのであり、たとえ長生きできたとしても、14か月にのこした作品以上のものは書けなかっただろうと。
それでも、後世に5000円札の肖像に採用されたことがいっそう哀れに思われます。一か月7円の生活費が工面できなかった一葉一家。女戸主としてせいいっぱい胸を張って生き抜いた生涯を思い、作品を読み継ぐことで一葉をしのぶことになるでしょう。
娘は、「たけくらべ」のお話を、「鼻緒が切れて困っている信如に、緋ちりめんの布を差し出すこともできないでいたみどり」という場面のみ覚えていたのですが、ロビーのビデオアニメで鑑賞して「こういうお話だったのか」と納得していました。
私がいちばん好ましく思った展示物。「一葉愛用の紅入れ」
生活に追われ、着物を新調することもなかった一葉が、文学の師半井桃水を訪ねるようなおりには、そっと紅をさして出かけたのかもしれない、と、一葉の密かな恋心が詰まっているようなかわいらしい紅入れでした。

一葉の旧居あとに建てられた石碑

一葉が文壇に綺羅星のごとく現れた時「一葉崇拝者のそしりを受けようともかまわない」と評価を公にしたのが森鴎外でした。
鴎外記念館は、森鴎外が後半生に住んだ千駄木の家「観潮楼」のあった場所に建てられた文学館です。
一葉記念館を出た後、バスで鴎外記念館へ向かいました。団子坂を上り、鴎外記念館前で降りると、「本日、鴎外誕生日につき入館無料」という案内がでていました。ぐるっとパスで入館する予定だったので、「あらま、今日は無料だって、混んでるかな」と心配しながら入館しましたが、それほど混んではいませんでした。
「鴎外の生涯をたどる写真展」ということで、津和野にいたころから東京に出てきたころの鴎外、ドイツ留学中の鴎外、軍医として勤務を続けた鴎外、さまざまな時代の鴎外の姿を見ることができました。
軍医姿の鴎外と

鴎外は、文学者としても軍医としても、の他の文学者のなかで誰よりも恵まれた生活を送った明治時代人と感じます。自分自身の文学でも、他の人の才能を見出すことにかけても、たぐいまれな才能を生かした鴎外。息子娘もそれぞれ文学の道でそれなりの成功を収めたのですから、「功成り名遂げた」一生といえるでしょう。
そのために、軍医としての鴎外に対し、後世の評価はきびしい。最後まで鴎外が「脚気の原因は細菌」説を曲げなかったことは糾弾されてしかるべきかもしれません。海軍は、ビタミンB補給の食事すなわち麦飯をとりいれることで脚気を克服したのに比べ、鴎外の陸軍は、日清日露の戦死者以上に脚気による死者をだしたのです。
鴎外記念館でも「鴎外を語る3人の文学者」などがビデオ上映されていました。
娘はカフェで一休みして一葉館の疲れも復活したので、「今日もおもしろかった」と満足して帰宅しました。
カフェのプレッツェルセット

鴎外が評論を共にした幸田露伴、斎藤緑雨の「三人冗語」は、明治文学を縦横に論じ、一葉の名声を確実にしました。この3人がいっしょに写真をとったときに鷗外が腰掛けていた庭石が「三人冗語の石」として、鴎外記念館の庭に残されています。
「三人冗語の石」

本郷には一葉が通った質屋も残り、「一葉の井戸」も残されて文京区の文学名所になっています。一葉死して質屋「伊勢屋」を残し、鴎外死して「観潮楼」を残す。どちらも、文京区台東区の文学散歩のためには大きな足跡です。
<つづく>