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ぽかぽか春庭「走り続けてセカンドライフ」

2015-01-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150110
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記1月年始(3)走り続けてセカンドライフ

 毎年正月2,3日は、娘息子とあれこれ話しながら、箱根駅伝を見てすごします。
 箱根の山を駆け上った今井正人や柏原竜二続く「新・山の神」のニックネームはどうなるのか。本名が「神野大地」だから「箱根の山の神の大地」か、などとたわいのない会話ですごす。正月早々、金はないが、家族なごやか、ありがたいことです。

 娘は母校が久しぶりに優勝候補になったというので、復路も、気合いを入れて見ていますが、在籍校がそもそも駅伝と縁のない息子は、居眠りしながら見ているし、私もまあ、シード守れればいいや、くらいのテンションなので、それほど身を入れて見ていない。新聞の漢字クイズを解きながら見ていました。

 漢字五文字の列、「○閣○辞職」は、すぐに「内閣総辞職」とわかるし、「征夷○○軍」は、「征夷大将軍」。「○舞○○墳」は、「石舞台古墳」、「○浪○○男」は、「白浪五人男」と推理する。しかし、次なる五文字の列、前半三つに「曾根崎」と入ったので、すかさず後半二字を「心中」と入れてしまった。ここから、調子が狂います。通常はすらすらと運ぶ漢字クイズが、うまくいきません。

 正月早々漢字でつまずいたのでは、今年のウンも逃げてしまうと思い、娘に助け船を求めました。私は辞書は1度もひかずにクイズを解くのがポリシーですけれど、娘は遠慮なしにケータイの辞書機能を使います。
 娘は「曾根崎のうしろには、心中でなくて天神を入れるんじゃないの」と、教えてくれました。私は「曾根崎」とくれば「心中」と思い込んでしまい、そのほかの語を考えてもみませんでした。脳が硬直しています。曽根崎心中とお初天神が分離していました。

 熟語を作っていって、納得できない四文字ができました。「干将莫邪」という語を「こんな言葉、知らない」と私がいうと、娘はまたケータイの辞書をひいて「中国古代の名剣の銘。干将と莫邪という夫婦が作った刀剣のなまえ」と教えてくれました。「日本の刀剣名でも村正くらいしか知らないのに、中国の刀の名前までは思い及ばなかった」
 近頃のケータイは便利ですねぇ。

 調べてみれば、「干将莫邪」という中国の刀剣の銘は、今昔物語や太平記にもその名が登場する名剣なので、今まで知らなかったのは、古典をしっかり学んでいない証拠。「たかがクイズ」ですが、勉強になりました。

 娘のヘルプのおかげで、67文字の漢字がすべてわかって、箱根駅伝大手町のゴールは、夫の母校も娘の母校も「残念、また来年に挑戦」となり、私の出身校は、「まあ、シードはとれたんだから、いいんじゃネ」という成績でした。

 テレビの実況中継では、レポーターが「4年生、これがラストランになります。この選手は、卒業後は公務員になるそうです」など、選手の動向を放送しています。
 箱根出場選手20校200人の選手のうち、実業団などで選手生活を続けられるのはほんの一握り。これは甲子園出場の野球選手のうち、プロ野球選手になれるのがほんの一握りであるのと同じこと。

 学生時代の花形スポーツ選手も、卒業後の生活はさまざまです。
 学習院大学時代に関東学連選抜の選手として箱根駅伝に2度出場した川内優輝さん。卒業後は埼玉県立高校職員として働いています。実業団からのオファーもたびたびあったということですが、仕事をしながら、市民ランナーとして活躍しています。しかし、川内さんのような選手はまれな存在です。

 その点、ソチオリンピックで5位入賞そのあとの世界選手権では銀メダルを獲得し、今後も活躍していくものと思っていた町田樹選手が、フィギュアスケート全日本選手権を最後に選手生活から引退すると宣言したことは、驚きではあったものの、見事な決断と思いました。もともと本を読むことが好きで、愛読書は、ドイツ哲学者ヘーゲルの『美学講義』。 スポーツ選手のインタビューコメントからすると一風変わった発言を聞いて、「また、町田がおもしろいこと言った」と、家族で楽しみにしていました。将来は研究者になって、「スポーツ選手のセカンドキャリアについて研究したい」という町田樹、応援したいと思います。

 私も、同年齢の人々のように、現役の職業生活を引退して、悠々年金生活といきたい年齢になりました。
 しかし、残念ながら、私には余生を送るに足る年金がありません。現役で働き続ける選択肢しかありません。
 気力はあるけれど、体は確実に年をとりました。老骨にムチ打って、国立大学雇い止めになる3月以後の仕事を探しているところです。

 しかし、探し始めてみると、私にはなんの取り柄もないことが、よくわかりました。1988年に日本語教師になって以来、大学で20年間教えてきたことも、博士号をとったことも、何の評価にもなりません。研究者としての業績もなし。授業の実践研究をばりばり発表してきたわけでもなし。

 受け持った授業は誠心誠意、学生のためにとがんばってきたつもりでしたが、そんなことはなんの評価にもならない現実。
 今頃こんなことを言うのは自分が悪い。何本論文がジャーナルに掲載されたか、学会で発表を何度やったか、その数だけが業績として評価される業界にいたのです。「教育」は片手間にして、学生のことなど脇道において、論文本数を稼ぐことが正解だとわかっていながら、そうしないできた報いですから、しかたなし。

 今まで教師として使ってもらえたこと、実はラッキーなだけで、この年になって仕事を探そうとしても、なんの目当てもないことがよくわかりました。

 2015年、どうやら我が家には暗い1年になりそうな気がします。でも、きっと道はあると信じて、箱根への往復を走り抜いた選手達に勇気をもらいながら、歩き続けることとします。
 仕事、いっしょうけんめい探します。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「ご年始」

2015-01-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150108
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記・ひつじ年新年(2)ご年始

 春庭の正月、例年と同じ。紅白歌合戦見て、テレビの年越しカウントダウン聞いて眠り、1日はぐうたらと寝正月。

 1月4日は、姑宅にご年始。
 姑宅の近くのスーパーで買い物をしていると、あとから夫が来ました。「お鍋をして、最後に雑炊にしようかと思うのだけれど」と言うと、「ばあちゃんは、雑炊がきらいだ」と夫からの進言。そういえば、私の母も「芋雑炊だの大根雑炊だの、戦争中に一生分食べたから、雑炊はもう食べなくてもいい」と、言っていたっけ。でも、すいとんは好きでよく作っていました。まあ、姑も雑炊が好きじゃないってのも、たぶん私の母と同じなのでしょう。一生分は、もう食べ尽くした。

 それで、主食はスーパーの寿司コーナーで「うまいかどうかわからないけれど」という寿司30貫セットを買い、鍋は白菜やキノコなど野菜のほかは、エビ、タラ、イカつみれなど海鮮鍋にしました。
 おばあちゃんは、「お昼に来ると思って、朝から何も食べてない」と待っていたので、「おいしい、おいしい」と、食べてくれました。

 夫はいったん事務所に戻って、雑事を片づけてから姑宅に泊まりにくると言って、私たちより一足先に姑の家を出ました。姑が元気でいる間は何も親孝行らしいこともしてやらない夫でしたが、体が弱くなってからは、なにかと母親を気遣うようになりました。
 娘はおばあちゃんの病院通いに毎回付き添ってくれています。
 姑は、デイケアセンターの「体操教室」を楽しみにしていて、火曜日のほか土曜日にも体操の日を増やして体力温存に励んでいます。足腰弱くなったことを嘆くのですが、娘が「おばあちゃん、歯医者さんで、90歳なのに、自分の歯が残っていてえらいって、誉められたでしょ」と、元気づけました。

 「みんなの世話になるばかりで、、、」と言う姑に、私も「米寿すぎたら、みんなの世話になって当たり前。今までさんざん周りの人の世話をしてきたのだから、そのお返しを受けて当然と思って、世話になっていいのよ」と、返します。
 
 娘息子と、最寄り駅に向かいながら、近所の神社ともいえない祠に手を合わせて初詣のつもり。私は、お賽銭箱もない祠で「健康長寿一家安寧天下太平学業成就環境向上、、、、」と、ありったけをお願いしたのですが、ちょいと欲張りすぎかも。
 娘は「おばあちゃんが長生きしますように」とだけ願ったのですって。私としては、娘自身の「良縁祈願」でもしてほしいところなのですが、祖母の長寿を願う心優しさをうれしく思いながら帰宅しました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「羊の文化史西欧編ひつじ名画」

2015-01-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150107
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひつじの文化史(4)羊の文化史西欧編ひつじ名画

 コメは、完全栄養食品に近い滋味豊かな食品です。東南アジアから東アジアの米作地帯では、米さえ作っていれば人々は豊かな生活ができました。しかし、乾燥寒冷地帯が多い西欧は、小麦栽培だけでは暮らしていけず、牧畜小麦栽培併用でやっていくしかありませんでした。
 牧畜では、牛とともに羊が重要な家畜であり、羊は、西洋文化史のなかでも、重要な役割を果たしています。

 乾燥した牧畜地帯に発っしたユダヤ教では、羊は犠牲を象徴する動物であって、神への生け贄として神前に捧げられました。イエス・キリストが十字架にかかると、「真の過越の子羊であるキリストによって救われる」という信仰になり、羊は、キリストのシンボルにもなりました。キリスト教がヨーロッパの文化の中心になり、羊は描かれる動物のトップに君臨しています。

 西欧の絵画、さまざまな図柄で羊の絵を見ることができます。私が一番好きな羊の絵は、セガンティニ、次がミレー。農村風景、牧畜の風景とともに描かれた羊が好きです。

 セガンティニは、アルプスの空気まで写し取ったと言われます。
 母を早く亡くして不幸な子ども時代をすごしたセガンティニ。妻と共にアルプスの地でようやく絵を存分に描く暮らしをはじめて、アルプスの代表的な家畜である羊を数多く描きました。

アルプスの真昼


 セガンティニの「海を渡るアベマリア」は、はっきりと宗教的な背景をモチーフにしています。しかし、「アルプスの真昼」には、どこにも宗教画の画材はないのに、それでも静謐な雰囲気がただようのは、「母なき子セガンティニ」が、いつも聖母を我が母とも慕ってすごした心を持ち続けたからなのでしょうか。

海を渡るアベマリア


 キリスト教の「犠牲の子羊」以上に、日本で「西洋の羊」の代表になったのは、「メリーさんの羊」かもしれません。
 エジソンが蓄音機を発明したときに、一番最初に録音しようとしたのがエジソン自身が歌う「メリーさんの羊」であったのに、歌う前にエジソンがくしゃみをしてしまったために、蓄音機に最初に記録されたのは、「くしゃみ」というエピソードが知られています。このとき録音されたメリーさんの羊は、音源が失われてしまっているようです。
 絵にしろ音楽にしろ、羊は西洋文化の重要なモチーフでした。

 昨年見た旅番組の中で、東出昌大がモンゴルの考古学発掘現場で遺跡発掘の手伝いをする、という番組を見ました。東出昌大さんは、遊牧民の家族の家テントの家ゲルにホームステイします。家族は、一家の大事な財産である羊を屠って客人をもてなそうとします。私が感心したことに、東出さんは、羊の作業に参加していたことです。手を羊の体に差し入れ、羊皮を剥いでいく作業を手伝っていました。

 人間のために命を差し出した羊に感謝しつつ皮を剥ぎ、その肉や内臓を食べる。日本ではたいていの人が薄切り肉に加工された肉を食べながら、生前の牛や羊の姿を想像することがない生活を送っていますが、肉を食べるというのは、本来こういうところから始めるべきなんだ、と画面に見入りました。

 私がウールのセーターを着て一杯のコーヒーを飲むとき、羊の毛を刈り取った人が働いていたということ、コーヒーの豆を摘み取る仕事をしている人がいるってことだし、豚汁を食べるには、豚を飼育した人やした人が働いてきた、というひとつひとつの単純なことを忘れないように、私の命と毎日の生活の隅々まで、まわりの人すべてのおかげだということを、今年も忘れずに暮らしていきたいです。
 
 ことし、羊との出会い、何か新しい発見がありますように。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「羊映画・好大一対羊」

2015-01-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

ようこそ羊さま

20150106
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひつじの文化史(3)羊映画「ようこそ羊さま」

 「羊」をタイトルにした文学で思い浮かぶのは村上春樹「羊をめぐる冒険」です。映画となると『羊たちの沈黙』が一番有名だと思いますが、新年そうそうの羊の話題としてはもう少し明るい方向にしたいので、劇場未公開ですが、中国映画『ようこそ羊さま 好大一対羊』をご紹介。

 「ようこそ羊さま」も、決して明るいだけの話ではありません。10年前の中国の地方格差が、収まるどころか、今もなお格差は拡大する一方なのですから、暗くとらえればどこまでも暗鬱なお話になってしまうようなストーリーなのです。しかし、それをユーモアに包んで、中国農民の不器用で実直な姿を描き出しているところを手柄として紹介したいのです。

原作:夏天敏(シャア・ティエンミン)
監督:劉浩(リュウ・ハオ)
出演:孫雲昆(スン・ユンクン)雲南省の老農民ターシャン
   蒋志昆(ジアン・ジィクン)ターシャンの妻

 中国の最南部雲南省。電気も水道もなく、村人の移動手段はスクーターを一台持つ男のほかは、みな徒歩。市場に行くにも、獣医のもとへ行くにも、村長のところに、郷長が来なすった、という連絡に行くのも、ひたすら自分の足で。

 村人達が耕す大地には、冬場ということもあるのだろうが、木一本たっておらず、草一本生えていない。茶色の乾いた荒野が広がっている。
 老いた農夫ターシャンは、それでも毎日土をかき立てる。ある日、県の副長の命を受けた郷長が村長のところにやってくる。県の出世頭である中央にいる偉い学者先生から村へのプレゼントを持って。

 学者先生、中国のとは異なる種類の羊を西欧から輸入して、これをふるさとに贈った。中国原産の羊より上等の羊毛がとれるから、飼育に成功すれば、貧しい村の新産業にできる、というお達し。
 飼育を任されたのは、村でも最も貧しいターシャン夫婦。「一番貧しいものが一番エラい」という共産党の教条が雲南省の奥地にも行き渡ったころ。

 夫婦はなれない羊の飼育に大わらわ。寒さに弱いつがいの羊のために、家の中に小屋を作り、寒ければ自分たちの上着を羊に掛けてやる。
 それなのに餌が合わないのか羊はやせていき、ターシャンは獣医に聞いたり遠くの山まで草を取りに行ったり必死に世話をする。

 西洋羊のつがいに子どもが生まれれば、やがて村の産業になると言われたけれど、つがいは子を産む気もなく、周囲をはらはらさせる。ようやく雌が子を持ったかと思ったのに、産まれない。やがて繁殖失敗のため、ターシャン夫婦は羊を取り上げられてしまう。
 ターシャンは、一大決心をして、羊を取り戻そうとするのだが、、、、



 荒涼とした雲南省の景色が印象的です。私はいままで雲南省は、緑豊かな土地と思ってきたので、どこまでも乾燥した茶色の大地が広がるようすに驚きました。雲南省は広大な地域ですから、このような草一本ない土地もあるでしょうし、雨が降らない地域もあることでしょう。

 ターシャン夫婦は、託された羊の世話を誠実に賢明に行います。その努力は少しも実を結ばず、みなが県のエライさんの顔色をうかがうばかり。
 中国農村の貧しさと矛盾がユーモアの中に描かれていて、悲惨な感じはしないつくりですが、上からの命令を下に下ろすだけで、自分たちでは判断できない幹部農民も、責任を負うことを回避しようとする役人や、2005年の中国の現実はよくわかるが、さて、映画発表から10年たって、農村の現実は改善されていないのではないでしょうか。役人は相変わらず上目遣いの一方で、農民は相変わらず貧しいでしょう。

 2005年から10年後、沿岸部の工業地帯と、内陸部の農村の経済格差はますます拡大していると思います。
 私が中国で暮らしたのは、1994年、2007年、2009年のそれぞれ半年ずつにすぎないし、中国南部には行っていないから、雲南省については、昆明出身や大理出身の学生の話を聞いたほかは、ニュースなどで間接的に知っただけです。

 中国と日本の間がぎくしゃくしているときこそ、私は、こういう中国映画を見て、中国の一般の人々の暮らしを、日本の人に知ってもらいたいと思います。中国に親しみを感じないという人が。83%で過去最高になった、という内閣府の調査が2014年末に出ました。

 漢字や漢文学など、古代中国から受けた大きな文化的恩恵はもちろんですが、現代中国の素朴な一般の人々にも親しみを重ねてきた私にとって、83%の人が中国に親しみを感じないという状況は残念なことです。

 羊年がどんな年になるのかわかりません。
 政府首脳は、宗主国(?)のいいなりになって属国扱いされて喜んでいるのでしょうが、そういう政府に白紙委任した人ばかりではないと思いたい。周辺国とも友好な関係を築くことが平和で安定した国を作ると思っています。

 羊年。大人しい群れが、寄らば大樹を求めて右往左往する年になるのかどうか。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「羊の文化史日本編sheeple」

2015-01-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150104
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひつじの文化史(2)日本編sheeple

 野生のヒツジは、群れの中ですごす。いつも群れの中にいることを好み、群れから引き離されると強いストレスを受ける。また、先導者に従う傾向がとても強い。そのため、人類文化の中でもっとも早くから家畜化され、人類の歴史とともに、歩んできた動物のひとつです。羊毛、肉、ミルクなどが有効に利用されてきました。

 しかし、日本では、縄文遺跡の貝塚などから、鹿、ウサギ、イノシシなどさまざまな骨が出土するのに対して、羊の骨は出土せず、飼育されたという記録もありません。
 599年に、百済から推古天皇に朝貢物として、駱駝、驢馬各1頭、白雉1羽、羊2頭が献上されました。平安時代にも、820年には、新羅から嵯峨天皇へ鵞鳥2羽、山羊1頭、黒羊2頭白羊4頭が献上されました。903年には、醍醐天皇へ、唐人が羊と鵞鳥を献上。

 このように、日本に来た羊は「珍獣」扱いであり、その後、家畜として飼育された記録がありません。寒い日本の冬にウールの衣類は役だったことでしょうに、だれも羊の毛を紡いでセーターを作ろうと思わなかったようです。ウール製品は、中国や南蛮貿易などで、「羅紗」として高値で輸入され、大金持ちの衣類となったのみ。どうして、羊は飼われなかったのでしょうか。

 十二支に登場する動物のなかで、龍は想像上の動物だからしかたがないとして、羊は7番目に登場する動物であるのに、推古天皇から千年以上も、だれもこの動物を飼ってみようとしなかったのは、不思議。
 これは、馬の飼育にあたって、なぜ去勢が行われなかったのか、とともに、古代の家畜史における私の疑問のひとつです。

 江戸時代になると、羊の飼育が試みられました。渋江長伯が羊飼育を試みた巣鴨薬園は、綿羊屋敷と呼ばれたそうです。
 「渋江長伯(しぶえちょうはく)1760-1830)
 渋江長伯は、江戸時代中期-後期の医師,本草家。1793(寛政5)年幕府の奥詰医師となる。,巣鴨(すがも)薬園総督をかね、巣鴨薬園で羊を飼育し羅紗(ラシヤ)を試作した。文政13年71歳で死去


 家畜として日本に定着しなかった羊なので、詩歌にも登場することがなく、「羊をめぐる文学」は、明治以後に綿羊飼育が始まるまで、見当たりません。

 「羊」が出てくるような本、なにか読んだかなあ、、、、とタイトルを思い浮かべて、思いついたのは、加藤周一『羊の歌』(岩波新書)1968年初版のこの本を、1970年から1975年の間に読んだと思うのですが、1977年までは、読んだ本のメモをとらなかったので、読んだ年がわかりません。私がこの本に興味を持ったのは、筆者が父親と同じ「羊年」の生まれだったからです。1919年。本のタイトルはこの「未年生まれ」によって名付けられていますが、羊はまったく出てきません。

 羊が重要なアイテムである文学と言えば、真っ先に村上春樹の『羊をめぐる冒険』が頭に浮かびます。続編『ダンスダンスダンス』と両方に、主人公「僕」の友人「羊男」が登場します。
 スピンオフとして「羊男のクリスマス」なんていう本も出ました。

 女優の吉田羊(本名は羊右子(ようこ)さんも好き。日本語関連の良書を出版しているひつじ書房も好き。ってことで、自分ではかなりの「羊好き」だと思っています。

 ただし。ブログ友のすみともさんに新しい造語を教わりました。
 羊(sheep)と人々(people)を組み合わせて作られた混成語、sheeple。10年ほど前には登場した語らしいですが、ネットなどで盛んに使われるようになったのは、ここ2,3年のことらしい。
 シープルの反意語は「free-thinkers自由に考える人」すなわち、シープルとは、自分自身の頭で自由に考えることをせず、強者に従うのみの人のこと。
 な~んだ、それなら、この国には、昔々からおおぜいいました。1930~1945の15年戦争のあいだ、人々は人であることをやめ、思考停止のsheepleになっていました。

 そしてまた、今も。
 ふるさとを失ったり家族と離ればなれに暮らさざるを得ない人がいるとしても、一部の人が犠牲になるとしても、自分自身は電気を使いたいだけ使う人でありたいというsheel;e.
 格差が広がる一方であるとしても、自分の子孫は格差の上になれば、格差なんぞあってもかまわない、と、せっせと孫子に教育資金だの子育て資金だのを無税で残してやろうとするsheeple.

 私は、自分で考え続ける人でありたい。羊年のことしも。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「羊太夫」

2015-01-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150103
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひつじの文化史(1)羊太夫

 群馬県で小学校中学校時代を過ごしたという人に会ったら、「好きな上毛カルタを3つ言ってください」と、聞いてみてください。
 3つ言ったあと、止まらず、たぶん、ほとんどの人が10や20、記憶力のいい人なら、いろはの「い」からゑひもせずの「す」まで、全部そらんじているはず。かくいう、私も、いろは順なら、伊香保温泉日本の名湯、から、裾野は長し赤城山、五十音順なら「浅間のいたずら鬼の押し出し」から「和算の大家関孝和」まで、すらすらとはいかず、途中つっかえながらも、言える。ちなみに関孝和は、歴史書にでている「せきたかかず」ではなく、「せきこうわ」と発しておりました。

 この上毛カルタ暗記によって、群馬県の子どもは、群馬の津々浦々の名所旧跡名人大家の事跡を頭にたたき込むのであります。大人になって、クイズ大会などに出たとして、「日本で最初の製糸工場となったのは、どこか」なんて問題が出たとして、すぐに「日本で最初の富岡製糸」と、言えた。もっとも、世界遺産に決まって以後は、他県のひとでも富岡製糸の名を知らない人はいなくなりましたけれど。

 ノーベル文学賞受賞川端康成の名作『雪国』の冒頭、「国境の長いトンネルをぬけると雪国であった」の長いトンネルの名前は、というクイズにも「ループで名高い清水トンネル」と、答えられる。こちらは、ループもなくなったので、他県の人は、トンネルの名だど知らない人が多いけれど。

 さて、以上が枕です。ここから、今日のメインテーマに入ります。
 上毛カルタ「む」は、「昔を語る多胡の古碑」
 私は、2009年に中国集安市に残る世界遺産の「広開土王の石碑」は、見たことあるのに、多胡の古碑は見たことがないのです。今年こそ見に行けるといいなあ。なぜなら、未年だから。

 なぜ、未年と多胡碑が関わるかというと。8世紀に立てられたという石碑には、こう書かれているからです。


弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊



 二行目の最後「羊」の文字があります。
 冒頭の文意は、「上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる

 群馬県の南西部、8世紀には「羊」なる人物が支配を任されていたのです。 
 「羊」は、人名ではなく方角を表す、という論もあったのですが、現在最新の学説では、古代の渡来系、すなわち中国北部、百済、高麗などから倭国にやってきた人々の長であったろう、という説がもっとも有力です。

 埼玉県高麗川の付近には、朝鮮半島北部の高麗から渡来した人々が大和朝廷から土地を与えられた、という記録もあります。2014年の読書「広開土王の素顔」「韓のくに紀行」によって、古代朝鮮半島の歴史に深く心動かされました。

 多胡に渡来した人々は、中国で「五胡十六国」と称された時代の「胡」、北方ツングース系の民族のうち、中国内での争いに敗れた人々の子孫であったのではないか、と私は想像しています。

 百済の滅亡後、朝鮮半島から日本に亡命してきた人々によって飛鳥天平の文化が華やかに繰り広げられたように、荒々しい「毛の人々=毛人(えみし)」の住む土地であった毛の国に、中国北方文化がもたらされ、その結果、馬の飼育技術が入ってきた。その結果、毛の国が有数の牧場となり駿馬の産地になったのではないか、と想像しているのです。

 毛の国が算出した馬は、関東武士にも珍重され、現代のゆるキャラ「ぐんまちゃん」まで続くのです。

 さて、その毛の国を支配した「羊」です。
 大和朝廷から関東国司に任じられた者の多くは、渡来系の帰化人とその子孫でした。
 正倉院古文書や万葉集にも「羊」という人物は出てくるので、個人名というよりは、ある一族がこの名で呼ばれたのかも知れません。

 下って、寺の縁起に出てくる「羊太夫」の伝説が残っています。ただし、多胡石碑の「羊」と、寺社縁起の「羊太夫」が同一人なのか、子孫のだれかなのか、まったくの別人か、さだかではありません。

 緑野郡上落合村宗永寺縁起に「羊太夫、諱小水麻呂、姓阿部。其先天児屋根命遠裔中臣羽鳥孫、菊野連子也。人皇三十二代用明帝崩御時物部大連叛、羽鳥党之、羽鳥謫上野国府蒼海・今之本惣社也

 また、慈光寺実録に「和銅元年、上毛国多胡郡羊太夫に勅命有て、大般若経を令書写、当山観世音へ備へ給ふと矣。又小水麻呂と云は羊の孫也。」
と、あります。
 羊太夫の子孫は、毛の国で一族が繁栄していった、ということです。
 羊太夫をまつる神社が、安中市に建立されています。その名も「羊神社」
 今年は初詣客が多かったかも知れません。

 午年は群馬県には関わり深いと思っていましたが、未年も、古代のゆかりで親しめる動物であり、1年間、いろいろ出てくるであろう羊の話題も楽しめることと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「謹賀新年」

2015-01-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150101
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記・ひつじ年の新年(1)謹賀新年

 みなさま、明けましておめでとうございます。
 本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。
 明けてめでたく未年。

 昨年は午年ということで、我が生まれ故郷の群馬県のマスコット「ぐんまちゃん」が、めでたく「ゆるキャラグランプリ」で優勝することができました。これも、「力あわせる200万」が盛り上げたおかげでしょう。おお、群馬県の人口は、200万人、、、私が暗記した上毛カルタでは、「力あわせる160万」でした。私がふるさとを出てから、故郷の人々は夫婦よろしく力あわせて子作りにはげみ、ついに人口200万人。めでたい。、、、都会で家を持てない持ち家難民が土地値の安い群馬に逃れ、晴れて家を建てた結果かも知れませんが。

 と、言っても日本はあげて少子化の時代。年金も労働力確保も、危うい中での解散選挙。これで、日本はどうなっていくのか。
 穏やかなイメージがある羊年ですが、先行き不安は、毎年変わらぬ春庭の暮らしです。

 我が人生も、いよいよフルムーン満月だという気分で、今年の日記名を「十五夜満月日記」としました。満つれば欠けるが月のならい。今月は5日に満月になりますが、我が人生は、もう、欠ける一方の月でよし、下り坂をとぼとぼと歩きつつ、欠けていく月を愛でるのも、またよきかな。
 
 そんなこんなで生きていく。今年も春庭駄文におつきあいのほど、よろしくお願いいたします。

<つづく>
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