春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2003年のフルーツバスケット」

2015-10-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151011
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記10月(1)2003年のフルーツバスケット

 2003年の三色七味日記10月の再録です。
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2003/10/01 水 晴れ1006
ニッポニア教師日誌>フルーツバスケットゲーム

 午前中、授業準備。午後、日本語教授法2コマ。
 ゲーム教材研究はフルーツバスケット。
 初級前半なら、動詞文が出てきたところ、初級後半なら、連体修飾が出てきたところで、このゲームをとりいれる。遊びながらなめらかに新出の文型が口出すためにフルーツバスケットを利用したゲームをすることを説明。練習方法。

 留学生もそうだけど、日本人学生も、文型なんて関係なく、みんなでひたすらキャーキャーとゲームを楽しんでいた。「恋人がいる人」キャー、っと走り回って椅子をさがす。「去年落とした単位がある人」キャー!

本日のひがみ:若者よ、若さはフルーツのごとし。しなびないうちご賞味あれ


2003/10/02 木 晴れ 1007
日常茶飯事典>運動会

 息子、運動会二日目。二日間運動会を続ける学校は、都内では少ないのじゃないだろうか。今年は、中学受験案内のある本に、「運動会一般公開あり」という誤情報が掲載されてしまった。

 きのうは、都民の日で休日になったから、都内の「お受験親子」が学校見学にきた。いつものような「男子校ばかさわぎ」はひかえるのかと思ったら、そうでもなく、みんな遠慮無く、バカやっていたそう。応援合戦はもっと「バカばっかり」で、モー娘。の扮装の踊りあり、ウォーターボーイズさながら、海パンいっちょで「シンクロナイズドスイミングプールサイド踊り」あり。

 息子の運動会二日目の騎馬戦は、一勝一ワケ。

本日のうらみ:剣道に出場した息子、小手をくらってコテンコテン

2003/10/03 金 晴れ 1008
日常茶飯事典>視覚障害者パンフに掲載したメール

 「東京視覚障害者生活協議会」のパンフレット。視覚障害者会員へは点字で、わたしのような晴眼者会員へは墨字のパンフが届く。

 東視協の会員むけ月刊パンフレットに、私が編集部へ送ったメールを転載したいという連絡があった。匿名でならいいですよ、と返事した。8月号に載った、視覚障害者の文章への感想をかいたもの。東京で鍼灸院を開業した人が、「めあきの鍼灸師」が増えていることに不安を感じていることを述べていたので、感想を書いた。2003/9月号に掲載された。

編集部へのメール
『 はじめまして。私は晴眼者会員です。いつもパンフレットをお送りいただき、ありがとうございます。
最近は何も活動していないユーレイ会員ですが、パンフを読むたびに、皆様のご活躍に励まされています。8月号の記事についての感想を、執筆者へメールでおくりました。墨字で送ったメールを音声変換して読めるのかどうか、ということさえ、私にはわかりませんので、コピーを編集部あてに送ります。

 8月号に掲載の「私の輝く時」を拝読しました。
 50歳をすぎて給与生活の安定から飛び出て、鍼灸院開業にこぎつけたことを読み、「ここにもがんばっている方がいるなあ」と、うれしくなり、元気がでてきました。

  晴眼施療者がこれから増えることは確実でしょうが、今後の経営難を心配なさいませんように。わたしと同じように、晴眼者に施療されるのを好まない人も多いと思うからです。
何年か前に五十肩に苦しみ、近くの整体院に通いました。ベッドに横たわり、全身を施療者に預けるとき、私の感覚では、晴眼の施療者だと、ちょっといやです。私がもともと「視線恐怖症」に近い不安神経症的な性格を持っているからかも知れませんが、こちらが無防備に全身をさらしているとき、手と声だけでコミュニケートできるほうが安心できるのです。これって、変わり者の感性でしょうか。

手と声のコミュニケーションで安心し、やすらぎを得たり癒しを感じたりすることってあると思うのです。施療者が患者のことを大切に扱ってくれているかどうかは、手と声から確実に伝わってきます。

「あはき(あんま、針、灸)」の仕事をする方々にとって、これからいろいろ厳しい現実が続くだろうと思いますが、みなさまの活躍を待ち望む患者も多いことをお知らせしたくてメールしました。患者にとって、あはき施療者のみなさんとの心と心のコミュニケーションこそが、もっともよい治療になると思います。
 鍼灸院の今後の経営が順調にいくことと、みなさんのご活躍を祈っております。かしこ。 』

 若い頃の私は一種の視線恐怖症で、人から見られることがとてもいやだった。劣等感がつよいからだ。人と話すことは、電話ならいいが、直接会って話すのはいや。手紙でコミュニケーションをとるのがいちばんいい。

 昔は、電車の中で、向かいのシートに座っている人を見つめられなかった。見ているとこちらも見返されることがあるからだ。年をとった現在は、向かいのシートに座っている人をみつめることができるようになり、人間観察が面白くてたまらない。こんなにいろんな顔の人がいて、こんなに様々な個性の持ち主がいるとわかった。見返されたら、にっこり笑って「銀髪がとてもすてき」「ブローチとイヤリングのコーディネートがいいですね」とか、声に出さずに心であいさつする。

 「顔の大きさ、車中人間観察をはじめて以来、最大です」とか、「母親、娘、孫娘の三人がそっくりな顔で並んでいると、DNAの見本のようです」と思ったり。

 視覚障害者となら、こころおきなくつきあえるのは、視線が気にならないからだ。私の声で私の心や性格を判断してくれるからだ。声にはちょっと自信がある。滑舌がいいので、眼の不自由な人にとって、とても理解しやすい声だと、言われている。
 ラジオキャスターか、声優になればよかったと思う。

本日のうらみ:若い頃、自分の声質のよさに気づいていれば

2003/10/04 土 曇り 1009
日常茶飯事典>おい!老い、笈の小文

 フリースペースちえのわ更新。2003/09をUP
 一日中、笈の小文を書く。どんどん書ける。本を思い出しながらの自分語り。
中高年にとって、自分語りは一番の楽しみ。ただし、自分だけが楽しくて、読む人はいないのが難点。

本日のつらみ:金にならないことは、楽しくはかどる


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20151011
中高一貫のはずが途中でドロップアウトしてしまった我が家の半貫息子は、今日はばあちゃん孝行の日。デジカメ写真をパソコン印刷して、アマゾンで買った写真立てにいれて、遅ればせ敬老のプレゼントにするのだって。

 娘の報告によると、最近姑は、「手芸」にせいをだしているので、娘はユザワヤへ行って、ばあちゃん注文の編み棒を買ってきたり、ぬいぐるみにつける「目玉」を買ってきたり。
 前は、「手芸は性に合わない」と言っていたのに、デイサービスの手芸サークルに加わるようになったのは、「ひ孫にぬいぐるみをプレゼントしたいから」
 ミャンマーのおみやげと敬老の祝袋を届けに10月4日に行ったとき、姑がデイサービスで作った「ふくろう」のぬいぐるみを見せてくれました。
 「叡智」のシンボルだというフクロウ。ひまごちゃんたち、気に入ってくれたかしら。卒寿媼の手作りぬいぐるみ、持っていればきっと長寿の御利益有り。
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ミンガラ春庭「サク君還俗するその2還俗祝い食事会in momoさんち」

2015-10-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151009
ミンガラ春庭ミャンマーだより>2015ヤンゴン日記9月(8)サク君還俗するその2還俗祝い食事会in momoさんち

 スーレーパゴダのお参りがすんで、独立記念塔があるマハバンドゥーラ公園で休憩しました。スーレーのすぐ前にあるのに、モモさんは初めて来た、と話すのでびっくりしました。モモママが許した場所に、ママが許可した人といっしょでなcければ、ひとりで出かけることはないモモさん。
 私がいっしょにいるから若い男性ふたりがいっしょでも公園に来ることができたけれど、箱から出たことないモモさんにとって、ゲストハウスの中に入ってみるのも、公園にすわって時をすごす、というのもはじめての経験でした。

 恋人がいる、というシン君に対してガールフレンドなしのサク君、さかんにモモさんに「どういうタイプの男性が好みか」なんて尋ねるのだけれど、モモさんは、そもそも男性の好みなど考えたこともない。時期がくれば、ママが選んだしかるべき人と結婚するのだろうけれど、それまで男性と手をにぎったこともない青春をすごすのだろうと思います。それがミャンマーの良家の子女。

 サク君は、そういう当地の男女関係を聞いて「うゎあ、昔の人みたいじゃないですか」というのだけれど、ミャンマーで「自由恋愛」なんてことが一般的になるのは、いったいいつになることか。

 公園散歩で「ナンパ」に忙しいサク君に、なんとか聞き出した「修行のようす」。
 「朝、托鉢に出ると、炊いたご飯を半端なく鉢に入れてくれるので、毎日食べきれないくらい腹一杯になった」と言っていました。僧侶をもてなし寄進することが、ミャンマー人の生活の中で大事なことなのです。

 僧侶が食事を許されるのは午前中だけ、午後の飲食は禁じられています。お茶はOK。しかし、サク君といっしょに出家したニワカ僧侶や、ほかの短期修行者たちは、「ラペットゥは、お茶の葉だから、これは食べ物に入らない。お茶を飲むのといっしょだ」と言って午後も食べていました。ラペットゥというお茶の葉の漬け物に、ビーナツなどの豆類ココナツを刻んだものなど、さまざまな薬味を加えて作るお茶うけがあります。お茶の葉だから、お茶の部類、という解釈をしているのです。
 サク君も誘われていっしょに食べていたところ、あるとき、先輩の本当の出家者が、にわか出家者たちのたまり場をのぞきにきたとき、みな大急ぎでラペットゥを隠してしまいました。「なんだ、こいつら、隠れて食べていたんだ」と、わかったのだそうです。
 
 サク君は、朝一番のパーリ語のお経の時間にも出たし、そのあとの瞑想の時間もちゃんと出ていたけれど、いっしょに出家儀式を行ったスポンサー婦人の息子は、托鉢はサボるし、瞑想時間は昼寝しているし、どうにも「母親が出家修行してこいっていうから来ただけ」という態度に終始していたそうです。まあ、そういう修行もあることでしょう。母親は僧侶となった息子に、拝跪拝礼していたというのに。

 1週間の短期修行者の生活は、午後はひたすらお寺めぐり。一日に5ヶ所くらいのお寺を先輩に連れられてお参りしてきたそうです。
 私がお参りした市内のお寺数カ所でたくさんの僧侶姿を見かけましたが、なるほど、彼らは短期修行者だったのね。

 午後の飲食は破戒ですが、その他については、先輩僧侶によって言うことが違っていて、テキトーだったとか。
 音楽を聴くこと、歌を歌うことは破戒である、という僧侶もいるけれど、「仏教に関連した曲なら、お経をきくのと同じだから聞いてもいいのだ」と、アイフォンのイヤフォンを耳にしてずっと聞いていた僧侶もいたのだそうです。

 仏教に関連した曲ってどんなのかしら。ビートルズの歌だって、イマジンは世界平和を求めているので、仏教精神にのっとっているし、ジョンレノンはインドで修行もした人だから、と解釈して聞くことができる。
 お経ラップなんてのもよさそうだ。

 ともかく、サク君はかなりまじめに1週間を僧侶としてすごし、還俗して俗世間にかえってきました。


 モモママは、仏教大学卒業のサク君に対して、その名が「仏教大学」というだけで、信用してくれました。当地の仏教大学は、身分の高い僧侶を養成する、国内随一のエリート大学です。「でも、一流企業に勤めている人でなければ、モモママは交際を認めないと思うよ。サク君は就職する気があるの?」と尋ねると、「いやあ、もうちょっと世界を回ってから」というので、モモさんにモーションかけるのはあきらめてもらわねば。
もっとも、モモさんは、サク君が「オレとつきあわない?」という日本式ナンパをしているのだということもわからない。

 モモさんの家で、晩ご飯をいただきました。
 モモさんの家には、ママの信用を得た日本人留学生(女性に限る)が出入りしているから日本人の好みを知っているからかも知れませんが、ママさんの作ったミャンマー料理は、今までで食べたミャンマー料理のなかで一番おいしかったです。そんなに油っぽくないし、味付けもよい。私もたくさんいただきました。
 ラペットゥは、各家庭ごとにそれぞれの家の味付けがあり、それぞれの家庭で「我が家のラペットゥが一番おいしい」と考えているところ、日本のそれぞれの家の味噌汁みたいです。ママさんのラペットゥ、ほんとうにおいしかった。

 サク君とシン君は「オマイラ大食い大会してんのかよ」と、つっこんだくらい、ものすごく食べました。次々に出てくるおかわりのご飯も何種類ものおかずも、何度でも平らげる。
 心配になって、いっしょに食事会に出ていた日本人留学生のナツさんに、「こんなに食べて、家族の分が足りなくなりはしない?」と聞いてみました。部屋には、モモママさんとモモ従兄弟の中学生くらいの男の子がいて、食べずに待っているからです。ナツさんは「あ、ぜんぜん大丈夫ですよ。たくさん食べてくれれば、それだけお料理が気に入ってもらえたのだと喜んでいますから」という返事でした。ミャンマー人の「おもてなし精神」は、徹底しています。

 サク君は、これから、ミャンマーをちょっと旅したら、シン君といっしょにインドへ旅立つそうです。
 35年前のバックパーカーである春庭、ふたりを見ていると、ケニアの各地をふらふらとリュック背負って歩いた日々が思い出されます。大学でまじめ一筋にビルマ語を勉強している留学生たちもよい若者なのですが、私は、バックパッカーのふたりの方に、断然親近感を感じました。

 facebookには、シン君が投稿した「ヤンゴンでは、道が川になるのは日常です」という写真が載っていました。私の宿舎のまわりも水没するけれど、下町の水没ぶりもハンパない。「みんな平気で川になった道をじゃぶじゃぶ歩いています」というシン君のコメントに「HALの宿舎のまわりも、おんなじですよ」と、コメントを入れました。

 ふたりのインド行が、無事にいきますよう、ヤンゴンのお釈迦様たちにお祈りしました。現世利益を求めちゃ行けない、というミャンマーのお釈迦様ですが、ダラという地域にある大仏にお参りしたとき、ビルマ語試験を控えている日本人留学生が「ここのお寺にお参りすると、ひとつだけ現世のことを願ってもいいんだそうです。私はビルマ語試験がパスするよう、祈ります」と、祈っていました。

 私の現世利益のお願いも、きっと心広いお釈迦様がかなえてくれて、バックパッカーふたりの旅が安全にいくと思います。
 サク君、シン君、よい旅を!

<つづく>
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ミンガラ春庭「サク君還俗するその1スーレーパゴダお参り」

2015-10-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

下町のランドマーク、スーレーパヤー

20151008
ミンガラ春庭ミャンマー便り>2015ンゴン日記9月(8)サク君還俗するその1スーレーパゴダお参り

 サク君は7日間の出家修行を終えて、9月12日土曜日に還俗し、俗世間に復帰しました。出家前には、「ゲンゾクって、なんすかぁ」と言っていたサク君ですが、7日間の出家修行を終えて、徳の高い人に生まれ変わったにちがいない。
 還俗の儀式も見たかったのですが、土曜日午前中に、日本語教材売り込みの業者と面談アポイントメントが入ってしまいました。土曜日も仕事、しごと。

 午前中を日本語教材ソフト開発者との面談に費やし、さて、ようやく、サク君が還俗後の身を寄せているモモさんの家に出かけました。パスポートなどの貴重品が入ったサク君のリュックサックを預かっていたのです。

 下町のパークロイヤルホテル近くにモモさんの家があります。7階建ての4階に自宅があるけれど、当地の古いビルは、何階建てだろうと、エレベーター設置のビルは少ない、と聞いています。

 タクシーでパークロイヤルホテルへ。モモさんに迎えに来てもらい、徒歩5分ほどのモモさんの家に着きました。4階までの階段、きつかったです。2階で小休憩し、踊り場から見えるモモさんの高校のグランドを眺めました。斜め向かいが高校。徒歩1分通学です。

 モモママさんは、モモさんを「徹底的箱入り」に育てています。大学生になった今も、大学のロシア語専攻の授業時間のほかは、すべての時間がママによって、「英語家庭教師の授業を受ける時間」「フランス語話者とミャンマー語の交換教授の時間」「中国語交換授業」「韓国語交換授業」「日本語交換授業」と、空き時間がすべて、ママが管理した語学授業になっています。
 私は12月からモモさんと「ミャンマー語日本語交換教授」をする予約をしています。ミタさんから引き継ぎです。

 最初、モモさんの語学漬けの毎日を聞いたとき、わあ、すご~い、よほど語学が好きなのだろうと感心したのですが、よくよく事情がわかってみると、これはモモママのモモ管理の一環なのだとわかりました。すべての時間、娘の自由にはさせずに、ママが指定した人とだけいっしょにいるように、とのママのはからいなのです。
 私はヤンゴン大学の教師だから、ママからの信用は篤い。

 昼ご飯をUサクといただいたあと、モモさんを散歩に連れ出しました。スーレーパヤーのお参りに行くHAL先生を案内する、という名目でママのお許しが出ました。

 Uサク君は、まず、スーレー近くにあるオキナワゲストハウスに立ち寄りました。
 ゲストハウスとは、ホテルより格が落ちる安宿の呼び方。バックパッカー御用達の宿です。
 4人部屋6人部屋のドミトリーで一泊1000円10000チャット程度。シングルで1500円~2000円。バックパッカーは、旅の情報を交換するために、大部屋を希望することが多い。

 スーレーのすぐ近くにあるシャングリラホテルが、スタンダード部屋でもシングル一泊300ドル3万円~500ドル5万円くらいするのと比べると、大きな違いがありますが、当地の労働者のなかで、一日に1000円稼げる人は高給取りのほう、という事情を考えると、一泊1000円だって贅沢だと私には思えます。バックパッカーのいいところは、一日1000円の宿でもそれが贅沢だと知っていること。シャングリラに泊まる人たちは、ホテルのルームキーパーがどれほどの給料で1ヶ月を過ごしているか考えたことないと思います。

 ミャンマーの人件費は、おそらく東南アジアのなかでも、カンボジアやラオスと並んで安い。経済発展につれて、タイやベトナムの人件費が高騰していったように、これからミャンマー人の給与もどんどん高くなっていくでしょう。でも物価も高騰するから、どっちがいいかわかりませんけれど。

 サク君は、タイやラオスで知り合ったバックパッカーたちとfacebookで連絡を取り合っていたので、オキナワゲストハウスに旅仲間のシン君が到着したことを知っていました。彼に会いに来たのです。そして、サク君のゲストハウスも、トウキョーゲストハウスからオキナワゲストハウスに住み替えをしました。

 トウキョーゲストハウスは、オーナーが日本人なのですが、居丈高な人で、「部屋に南京虫がいる」と、宿泊客が文句をつけると、掃除をするよりも「そういうことを言うと、うちの評判が悪くなるから出て行ってくれ」と、客を追い出す、という人なのだそうです。
 トウキョーと名がつけば、日本人バックパッカーが寄ってくる。営業努力せずとも一定の宿泊客があるので、とても横柄な態度なのだ、と、ネットの評判記に書いてありました。ネットの書き込みだと信用できないときもあるけれど、モモさんの友達のミタさんも、一度泊まったときに、シャワー室を覗かれたので文句をつけたら、追い出された、と話していました。評判を落とすようなことを口にする客は追い出すという、トーキョーゲストハウスのオーナーの方針らしいです。

 で、オキナワゲストハウスで、シン君とサク君は感激の対面を果たす。ふたりは全く逆のコースでカンボジアマレーシアシンガポールなどを回って、それぞれが勝手なバックパッキング旅を続けていたのだけれど、こうして再びミャンマーの地でめぐり逢うことができた。これはきっとサク君が修行してきたお寺のホトケ様のお導きに違いない。

 サク君は、モモママさんに「晩ご飯のご招待、友達を連れて行ってもいいか」と、申し入れてあったので、スーレー参拝にいっしょに出かけることにしました。シン君は昨晩ヤンゴンに到着したばかりなので、まだどこにも出かけていない、ということでした。

 スーレーバゴダは、シュエダゴンバゴダと並んで、ヤンゴンで最も有名なお寺のひとつ。 観光客は、シュエダゴンバゴダの中に案内されますが、スーレーはたいてい外からいわゆる「車窓観光」するだけですませることが多いです。
 スーレーの中に入り、お参りすることにしました。ミャンマー人のお参りは無料ですが、外国人はひとり3ドルとられました。シン君サク君はバックパッカーらしく「タッケー」と言いますので、私が3人分を支払う。9ドル9000チャット。私だってタッケーと思いますよ。1500チャットの学食なら、6回食べられる。



 お賽銭を船の形の入れ物に乗せて塔の上までロープで届ける、という装置があったのでサク君はポケットから小銭(5円札、10円札など)をありったけ出して、賽銭係のおばちゃんに「まけてくれ。オレたちは貧乏な日本人なんだ」と、賽銭を値切っている。おばちゃんも笑ってOKしてくれました。ハンドルをぐるぐる回すと、ロープにつるされた船がどんどん上に登っていく。3人で交代でハンドルを回しました。モモさんは、笑ってみているだけ。はたして、値切った賽銭は来世をよくする御利益があるのか。

 スーレーの中は、例によって白塗りのお顔、唇赤くおめめばっちりのマネキン人形風仏像が並んでいます。上座仏教の仏像はすべて釈迦牟尼です。いっぱい並んでいるのはそれぞれ役割が違うお釈迦サマだから。
 お参りの人々は、みな熱心に床に額をつける拝礼を繰り返している。

 3人は、それぞれの曜日のお釈迦様にお水をかけてお参りしました。私は月曜日、虎が守護している釈迦にお参り。
 小さなコップが並んでいて、年齢プラス1回だけ水をかける。プラス1回っていうのは、仏教関係のことは、旧暦、年齢は数え年でいうためだと思います。
 私は66回も水をかけるのは面倒なので、バースデイケーキのように、太い蝋燭が6本と細いのが6本方式で行きました。コップに大小はなかったけれど。

 シン君は22歳大学3年で休学中。兵庫出身、サク君は23歳大学卒業した京都人。ふたりが話していると、いつも掛け合い漫才になります。さすが関西人。どの人も吉本に入れる素質もっているなあと、感心する。
 ミホトケに水をかけながらも、「オーオー、そんなに水かけたら、お釈迦さん風邪ひいてまうがな」「そやな、釈迦がオシャカになる」てなことを話し合っています。
 モモさんの日本語は初級レベルなので、私が笑い転げているこんな掛け合いにもすましています。

<つづく>
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ミンガラ春庭「サク君出家するその2ヤンゴンの出家儀礼」

2015-10-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151007
2ミンガラ春庭ミャンマーだより>2015ヤンゴン日記9月(2)サク君出家するその2出家儀式

 朝、2時に目が覚めた。もう一度寝ようか考えたが、5時に家を出た方がいいと思い、起きてしまうことに。

 5時すぎ、Uサクからモーニングコールが入る。ちゃんと起きたとみえる。5時半にはタクシーをつかまえなければならないが、まだ暗い中、MICTパークの前にタクシーはなし。インセインロードに出るために、MICTパークの中をつっきる。メインゲートは開いていたが、インセインロード側の門は閉まっていた。がっしりと鍵がかけてある。さて、どうしようとウロウロする。塀を乗り越えようか、とか。警備員室の電気がついているので、イクスキューズミィと声をかけてみるが、応答なし。巡回している警備員が見えたので、開けてほしいと頼んだ。車通過のための大門は鍵がかかっていたが、大門の脇の小さい通用口は鍵がかかっていなくて、押せば開くのだった。な~んだ。でも、出られて良かった。

 インセインロードでタクシーを拾う。この時間ではさすがに渋滞はなくて、すいすいとすすみ、約束のダウンタウンの5つ星ホテルパークロイヤルに20分で着いてしまった。ロビーで待つことに。ミタさんに電話をすると、私がついてくることを予定していなかったらしく、車の手配が変わるので、少し待って、と言われた。なんか、余分な手間暇をかけてしまったみたいで、申し訳なかったけれど、Uサクが出家する儀式を見たかったので。

 Uサクは眠そうではあったが、きちんと約束の6時にホテルに来ました。ふたりでロビーのいすで待っていたら、フロントの女性が「あなたが待つという友人は、当ホテルに宿泊中か」と問う。Uサクは「泊まり客ではないが、もうすぐ来るから、待たせてくれ」と、堂々ひらきなおりました。バックパッカー、いろいろ場数を踏んでいるとみえ、おうように自己主張する。
 ミタさんとモモさんが来るまで15分ほど待ち、タクシー2台に分乗して寺へ向かいました。

 寺は北オッカラッパ地区にある。寺の名を教えてもらったのだけれど、ミャンマー名前が覚えられない。還俗後のUサクに確認したら、北オッカラッパアウンサワディ寺院。
 ヤンゴンの地図を見せて、モモママに、北オッカラパ地区のどのへんにあるお寺なのか尋ねたのだけれど、当地の人には地図リテラシーがないので、地図のどこかはわかりませんでした。日本の地理教育では、地図の見方を徹底指導するけれど、国それぞれに何を教えていくかは異なります。当地では地図を見る教育よりお坊さんの説教を聞くほうが大事。

 市内のいたるところ、隣近所用のお寺があります。人々は朝晩お寺にお参りする。


 北オッカラパアウンサワディ寺院の門から中に入るUサク君。一番うしろで背中にリュックサック背負っている。右端の赤いロンジー姿がmomoさん。momoさんは、普段はミニスカートだったりワンピースだったり、当地の若い女性の中では最新流行の服を愛用していますが、さすがに寺参りのときはロンジー姿でした。



 寺は、観光用のものではなく、お坊さん達の修行用の寺なので、簡素というより、宿坊などはぼろい。


 1階はお坊さんがいっしょにお経をとなえたり、パーリ語の勉強をするスペース。
 2階も同じようなもの。
 3階が信徒の集まるスペースで、儀式は3階で。

 3階で、主催のお坊さんに神妙に挨拶するサク君



 2階では、僧侶達がお経を唱えて修行中


 最初、Uサクは髪を洗われ、剃髪の儀式。



 お坊さんがおごそかにカミソリでそり上げる。参列者は白い布を掲げて、髪を受け止める。出家はできない女性達も、こうして儀式に参加することで、出家者の功徳を受けることになり、来世のステージが上がる。

 Uサクの次ぎに、こちらが本来、今回の出家者であった男性が頭をそる。この男性の母親が、今回の出家のお布施を出す第1のダーナー(旦那)。第2ダーナーがモモママなのだそう。ダーナーの婦人とモモママは遠い親戚。モモママが誕生日のお布施をしたいと思ったとき、「うちの息子が出家するからいっしょに寄進しましょう」ということになって、双方の親戚が一同3階に集まった。日本の法事のように、親戚一同が集まるので、女性達にとって一種の親戚懇談会であり、会ったことのなかった遠縁の人と出会うチャンス。

 ダーナーとは、「寄進する人、お布施する人」という意味のサンスクリット語です。英語に渡るとドナーとなり、移植臓器の提供者(寄進者)などがドナーと呼ばれる。漢語訳されると旦那。お布施をする人の意。旦那寺とは、自分が寄進をすると決めている寺のこと。日本では、自分に給料を渡してくれる人、生活費をくれる人が「旦那さん」となりました。

 剃髪後、3階で、まずお坊さんの唱えるパーリ語のお経をUサクともうひとりの出家者が復唱する。Uサクは、日本で英語学校などに行ったことはないけれど、5ヶ月間バックパッカー旅行をして旅仲間と英語で話し合ううちに、英語が話せるようになった、と言っていました。それは、耳がいい証拠。私には聞き取れないパーリ語を、けっこう正確に復唱していた。むろん、パーリ語がわかっている人には、発音など違う点があるのだろうけれど。
 聞いている一同には、パーリ語のお経の意味はわからない。日本のお坊さんが唱える漢訳経典が、一般の人にはわからないのといっしょ。

見習い僧侶姿のサク君


 お経復唱が1時間も続いて、僧侶見習いとなる。次ぎにダーナーが寄進した新僧侶のための僧衣に着替える。Uサクはパンツも脱げ、には従ったが、手足についているたくさんのミサンガや腕輪をすべて取れといわれて、ちょっと悲しげ。旅の間に親しくなった人と交換した思い出の品々だという。でも、きっぱりカッターでミサンガなどを切りはずす。

 ダーナーが寄進した僧衣に着替えるサク君。


 僧衣に着替えると、坊主頭によく似合い、いっぱしのお坊様に見えます。いよいよ得度式。ヤンゴン仏教大学のNo.2という偉いお坊さんがやってくる。これも、寄進額によってNo.1だったり、No.5だったりするのだろう。今回は、かなり奮発した寄進なのだと知れる。



 No.2坊さんは、30分以上パーリ語のお経を唱える。ミャンマー語を話す一般の人々にはわからないことばだから、退屈した人は、お菓子を食べたり親戚同士で近況報告をしたり。
 日本の法事と同じで、親戚の誰かが出家儀式を行うときに寺に集合する、親戚縁者の大切な行事なのです。なかには、momoさんが初めて出会う親戚とかもいて、ダーナー婦人はなかなかの有力者らしい。

 次にミャンマー語での説法となる。参列者は、そのことばに返答したり、復唱したりする。パーリ語にしろミャンマー語にしろ、私にはわからないから、退屈する。はやく説法がおわらないかなあと、眠くなる。朝2時起きは、やっぱり早すぎました。

 説法がおわると、修行中の僧侶達が入ってきて、お経の学習。これも、30分くらい続きました。Uサクは、僧侶の読経の間、まじめな顔で聞いていました。今朝のパークホテルまでは、気軽なバックパッカーだったのに、頭を丸めて僧衣を着ると、ほんと、馬子にも衣装、立派なお坊様です。



 最後にまたパーリ語のお経。最後のお経のとき、3組の銀椀とお水の入った小さい水差しが参列者のもとに運ばれました。一番の年長者であるモモじいちゃんと、ダーナー婦人の前に運ばれ、ダーナーの指示で私の前にも置かれました。遠来の客である私をもてなす意味もあるのでしょう。お経の間に、ほんのわずかずつ、水差しを傾けて、椀に水を受けるよう、ミタさんから説明がありました。
 これは、おそらく「法雨」の意味だろうと推察する。椀から水があふれるまで少しずつ注ぎました。これで、ぐんと来世への功徳がついたはず。

銀色の水差しから銀椀に少しずつ水を注ぐ儀礼。


 最後に、僧が一列になり、参会者も一列になって、お坊さんひとりに男の人がビニール袋を掲げてついて歩く。女性達は、ひとりひとりの袋に、自分の袋の中の供物を入れていく。私は石けんの入った袋を渡され、一個一個渡していきました。
 Uサクも今は立派な僧侶だから、列の一員に。

 この托鉢儀式ですべてが終わり、記念撮影の時間になった。新僧侶は、いろんな親戚達とそれぞれ記念撮影をする。Uサクは、「お坊さんになってどんな気持ち?」と、聞かれて、「いやあ、特別な気持ちです」と、答えていました。
 1週間の僧侶修業のあいだ、女性にふれてはならず、午後の飲食も禁止。ふとんに寝てもいけないので、ゴザを敷いて寝る。

 サク君寝起きのスペース


 ナオライの昼食。これもダーナーの寄進による。丸テーブルを囲んで7~8人ずつ座る。客用が10テーブル以上、僧侶用も同じくらいあった。お寺は○○地域に本寺があるので、供される料理も○○地方の料理だ、と聞かされたが、私にはその○○地域がどこなのか、わからない。そんなに辛くはなく、おいしかったが、殺生は固く禁じられている寺なので、蝿も多い。蝿付きのスイカを勧められたが、感謝しつつ謝絶。





 3月に買ったロンジー生地1着分を、モモママにプレゼントしました。ダーナー婦人には、日本から持ってきた「招き猫掛け軸」をプレゼント。いちおう、サクの親代わりの気分で、ダーナー婦人の寄進に対する謝礼の気持ちです。婦人は「今日出会ったのも、前世からの仏縁です」と言う。

 Uサクが1週間寝泊まりする宿坊は、他の僧侶たちの寝ている坊の2階。ゴザがしかれており、枕などが用意されていました。モモさんが、枕カバーなどをつけている。
 Uサクは「全部世話になっちゃって、ありがとう」とお礼を言いました。しかし、ミタさんから「もう、お坊さんになったのだから、人間じゃない。人間より上の存在。だから、人がなにかやってあげることに対してお礼を言ったりしないこと。人は、僧侶に奉仕することが自分の喜びであって、坊さんがお礼をいうのではなく、人がお坊さんにありがたく思っているのだ」と説明。

ありがたい存在となったサク君。寺院の中に入っていきます。サク君の荷物は、男の人が持ってあげています。お坊様は、基本お経を読んだり托鉢に出る以外の労働はいっさいしない。


 モモさんは、Uサクへの崇敬の気持ちの表れとして、私が持っていた「指さしミャンマー語」のコピーを作って差し上げる。こちらでは、一冊の本を丸ごとコピーし、30分ほどでパクリ本ができあがる。これからまったくミャンマー語ができないUサクが僧侶の間でくらすために、実に行き届いた奉仕だ。ミャンマー文字わからなくても、とりあえず、必要なところを指させばよい。

 寄進者のダナー婦人は、僧侶となった自分の息子とUサクに対して、地面に額をつける拝跪礼を行う。Uサクは「わぁ、オレ土下座されちゃってるよ、どうしよう」と、人間以上の存在になっている自分の存在にとまどっています。

 Uサクは、「腹痛くなった」と言う。午前中一杯緊張していたこともあるだろう。私の腹も少し悪くなったので、もしかしたら、夕べの生野菜が悪かったか。午後は、別のお寺にお参りすることになりました。おなかが痛くなったUサクは寝ていることに。

 モモ&ミタがコピーを受け取りに言っている間、私は腹具合が悪いので、トイレの近くで待っていることにする、と、残りました。
 トイレに入ったら、カメラケースが締めて無かったので、トイレの中にカメラを落とした。水濡れ。

 前のカメラはカバンの中に入れておいて、ペットボトルの水がかかって壊れた。直すには買うより高くつくと言われて、なおすのをあきらめたのだが。HALなので、またしてもカメラ水没となってしまいました。

 寺参りの帰りに、下町のカメラ屋に修理にだしましたが、1週間後に取りにいくと、「修理不能」と、言われました。お寺参りをして功徳がついたはずなのに、トイレにカメラ落とすなんて、なんのくどくじゃあ~!!

 たぶん、功徳じゃなくて、ウンがついた。

<つづく>

~~~~~~~~~~~~~~~
20151007」
くちかずこさんのコメントに答えて
 ユダヤ教とキリスト教徒イスラム教は、同じ一神教の神を信じています。キリスト教のいう父と子の「子」はイエスですが、「父」は、ユダヤ教の神と同一のはず。イスラム教のアッラー神も同じ。
 でも、この三つの宗教はことあるごとに争いを繰り返してきました。現在も、争いが続いています。

 仏教も、古代インドの原始仏教から上座部仏教と大衆部仏教に分かれました。大衆部仏教は、中国を経て日本に伝わった大乗仏教となりました。インドからビルマやタイに伝わった上座部仏教の流れを汲むのが現在の上座部仏教(小乗仏教という呼び方は、大衆部仏教を大、上座部を小とした古代中国での呼び方)

 元は同じところから出ていても、エホバ・ヤハベ・アッラーは争いを繰り返したのに対し、日本の仏教が他の国の宗派と大きな争いをしなかったのは、海で隔てられていた恩恵のひとつ。(国内では、天台宗最澄と法相宗徳一との法論争などはありましたし、一向一揆なども宗教戦争のひとつとも言えますが)

 争いはなかったですが、タイやミャンマーの仏教と日本の仏教は、キリスト教とイスラム教くらい違いがあります。

 お坊さんへの考え方も本当に異なっています。
1週間だけの出家でも、その間、サクくんは、ほんとうに人間以上の存在だったのです。
還俗した今は、元の気楽な若者ですけれど。

 たぶん、寂聴さんの出家とはいろいろ異なっていることと思います。天台宗、出家前後に厳しい修行が必要だったと、寂聴さんのエッセイで知りました。

 上座部仏教について、ミャンマーに行く前は、理念的なことしか知らず、人々の考え方の違いなど、細かいことは知りませんでした。
 たとえば、「ビルマの竪琴」のなかで、水島一等兵は僧としてビルマに残り、死んだ兵士の遺骨供養を続ける決意をします。
しかし、上座部仏教では遺骨を集めるなんて、とんでもないこと。仏教の教えに反する行為なのです。

 僧侶は物質に拘泥してはなりません。遺骨はモノです。物体です。ですから、僧侶が遺骨というモノにこだわることは、上座部の仏教ではありえません。音楽を奏でることが破戒行為であることは私も知っていましたが、遺骨収集が上座部で得度した水島が決してやってはならないことだ、ということ、ミャンマーにくるまで、気づきませんでした。日本では遺体遺骨を供養することは当然のことと思っていたからです。

 ヤンゴン市内には火葬場があり、ご遺体は火葬されます。葬式は次の輪廻転生がよいステージになるようにと願うための儀式であり、魂を次の世に送り出した後、この世に魂はありません。だから、墓もありません。仏教徒の家には仏壇がありますが、お釈迦さまの仏像があるだけで、家族は釈迦に祈りをささげるけれど、先祖供養などしません。先祖はどこかで何かに生まれ変わっているので、仏壇の中や墓のなかにはいないのです。火葬後の遺骨は、田んぼにうめようと散骨しようがエーヤディ川に流そうと、処理はそれぞれ。

 ただし、北オッカラパには、ビルマで亡くなった日本人のための墓地があります。きちんと管理されているそうです。私はまだ墓参していませんが、機会があったら、行ってご供養したいと思います。

 上座部仏教と大乗仏教、特に鎌倉期に生まれた新仏教(真宗、日蓮宗など)は、おそらくキリスト教とイスラム教以上の差があると思います。
 日本の仏教は、日本に伝わった当初から、古神道の先祖供養と習合しています。お盆の先祖供養なども、本来の仏教の教えにはないことです。

 でも、ビルマの仏教徒は、「私はzenブッディストだ」と言うと、同じ仏教徒として扱ってくれます。いがみ合っているキリスト教とイスラム教よりは、ずっと平和です。
 もっとも、私が言う「禅仏教徒」という意味は、初詣とお盆の墓参りと、年に2回お寺へ行けば十分なので、ミャンマーの上座部仏教とのように朝晩お寺参りする必要はないのだ、と、言い訳するためです。
 私のビルマ仏教理解は、まだまだ不足なので、これから学んでいきたいと思っています。
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ミンガラ春庭「サク君出家するその1オレ出家したいっす」

2015-10-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

北オッカラパアウンサワディ寺院

20151006
ミンガラ春庭ミャンマーだより>2015ヤンゴン9月(5)サク君出家するその1バックパッカーサク君おれ、シュッケしたいっす

 サクは、大学卒業後、ふ~らりふらりと気の向くままバックパッカーをしてきた、モラトリアム青年です。23歳。就職活動して、きちっと社会人になって、定年までず~と働き続ける、という生活になる前に、世界中を見ておきたい、と思って、、、というより、あんまり物事を思わないで、旅にでました。マレーシア、タイ、カンボジア、ラオスなどを巡ってきて、インドへ向かう途中、「通り道だから」ミャンマーにふらりと立ち寄りました。

 ネット情報でヤンゴンについて調べて、最初の一泊はスーレーバゴダ近くのトーキョーゲストハウスへ。
 ヤンゴン大学というのがあると聞いて、なにか面白そうな情報が聞ける人がいるかも、と思ってとりあえず、バスに乗ってみることにした。バスの車掌に、ヤンゴンユニバーシティー、ヤンゴンユニバーシティと叫んでみると、いいからこれに乗れとジェスチャーされたので乗って、ここで降りろと言われて降りた。

 私は、木曜日の授業を終えて事務室でパソコンやプロジェクターなどの機材を片づけて、入り口に出ていきました。
 授業中ティーチングアシスタントをしてくれたカウンサー君(日本人留学生のビルマ名です)が誰かと話している。「シェエタゴンパゴダは、ぜったい行ったほうがいいですよ」なんてカウンサー君は教えている。私は、カウンサーの友達だと思って、あいさつしました。

 「Uサクです、サクって呼んでください」と、名乗った185cmの青年は、昨晩ヤンゴンについて、まっすぐ大学へ来たのだという。知り合いがいるから真っ先に大学めざしたのだろうと早合点し、まじめなビルマ語学習留学生カウンサーの知り合いなら悪い人ではなかろうと、思いました。でも、もう、事務所を閉めなければならない時間。
 「私、もう帰宅するんで、事務所閉めますけれど。これから知り合いと晩ご飯食べに行くの」と、「事務所であなたの相手をしている時間はないので、あしからず」の含みで言うと、「あ、おれもメシ食いに行きたい。いっしょに行っていいっすか。どこで食ったらいいか、わかんないんで」と、ついてきた。

 知り合いとの待ち合わせ場所、レーダンセンターのヤークンに向かう途中、話してみたら、カウンサーとはたまたま国文科入り口の前で会って、「あれ?日本人がいるんすか。おれも日本人っす」てな名乗りで立ち話をしていたところに私が通りかかっただけ、ということがわかりました。

 約束の時間まで30分あったので、セインゲーハースーパーで買い物をすることに。カセットコンロのガスボンベを買いました。彼にとっては、道ばたに出ている露店も、スーパーの店員がおつりを渡すときに、ミャンマー作法で右のひじに左手を添えてお金を差し出す作法も、めずらしい。 
 
 ビルマ文化人類学研究の日本人大学院生ミタさんと、6時半にヤークンカフェで会う。
 私は、ミタさんの友人のミャンマー人女子大生モモさんと話をするために、ヤークンカフェに来たのです。モモさんは、母語はビルマ語。英語も日常会話はできる。そのほか、ロシア語を外国語大学で専攻し、フランス語と韓国語と中国語を、ビルマ語を学んでいる留学生と交換レッスンしています。日本語はミタさんが教えています。ミタさんは大学でビルマ語専攻、2年前にヤンゴン外国語大学に留学し、大学院ではビルマ地域の文化人類学を研究するという女性です。

 渋滞のため、30分ほど遅れてきたモモさんを見て、サク君は「モモちゃんといっしょにご飯食べられるなら、どこにでも」という気持ちになり、私がモモさんをYKKO麺店にさそうと、ついてきました。
 麺料理を食べながら、サク君は、タイでは古式マッサージの店でマッサージを習ってきた、ミャンマーでは瞑想をしたい、と語ります。ミタさんもミャンマーのお寺で瞑想をしたことがあるとのこと。

 今は雨安居の時期なので、観光客の瞑想体験を受け入れてくれるお寺は少ないかも知れないけれど、モモさんのお母さんの知り合いのお寺に行けば、大丈夫かも知れない、と、ミタさんは言います。ミタさんは、ももさんのお母さんに電話してくれました。
 お母さんは、今週誕生日を迎えるので、お寺に寄進に出かける準備をしています。お母さんの遠縁の女性の息子が出家するので、親戚が集まるのだそうです。

 ミャンマーの男性は、一生のうち何度かは出家修行を行います。学校の休みの間に出家し、還俗して学校に戻る、一人前になってからも、出家する。退職してからは、毎年のように出家する人もいて、短期間の出家は、仏教徒にとって必須の通過儀礼です。

 出家ときいて、サク君は「あ、おれも、瞑想より出家がいいです」と、軽いノリで希望。ミタさんがまたモモママに電話して、あれこれ相談します。ビルマ語の相談内容は、私とサクにはわかりませんでしたが、ミタさんは会ったばかりのサク君について、なんとか説明をしました。

 最初、モモママはサクがまったくビルマ語を話せない人であることを懸念し、渋っていたのだそうです。そりゃ、そうだよね。メイソーでもシュッケでもどっちでも面白そうなことやりたい、というサク君なのですから。

 でも、ミタさんのサク君紹介のある一言が、決定的にモモママの心をうごかしました。サク君は、京都出身。京都の仏教大学の卒業生だったのです。
 といっても、仏教学科ではなくて教育学科出身。小学校教員免許は取得したけれど、学部生のころに必修だった仏教学の授業は、「完璧、睡眠不足解消タイム。最初から最後まで寝てました」という。そうだろうね。なにせ、「出家修行は1週間くらい行い、修行後、還俗して実社会に戻る」と説明すると「ゲンゾクってなんすか」というくらい、仏教について何も知らない青年でしたから。

 ミャンマー上座仏教のお坊さん達は、人々から篤い尊敬を受けています。その中でも仏教大学を出て、地位の高いお坊さんになる人はたいへんなエリートです。仏教大学出身ときけば、一般の人とは異なる優れた人、というイメージなのです。

 ミャンマーが日本の大乗仏教とは異なる、上座仏教という宗派なのだ、ということなどをレクチャーしながら麺を食べました。

 サク君、上智や青学立教出身だったら受け入れてもらえそうになかった出家修行に、仏教大学出身のひとことが効いて、土曜日には出家できることになりました。
 あまり現実的ではなく「出家してみてぇ~」というノリだったことが現実となり、「え~、どこのだれともわからない、オレでも出家できるんですね!」と、本人もびっくり。

 モモママの親戚の女性が、息子を出家修行に出すため、僧衣などを寺院に寄進する。息子の僧衣のほか、主立ったお坊さんたちにも僧衣を贈る。ついでに、サク君のぶんの僧衣も寄進するから、息子といっしょに出家したらいいよ、と、承諾してくれたのだそうです。
 この女性が出家儀式の第1スポンサーで、誕生日の寄進をしたいモモママが第2スポンサーです。

 だれかを出家させるスポンサーになることは、お寺への寄進のなかでもたいへん重要な寄進にあたります。女性は自分が出家できないかわりに、息子なり親戚の男の子なりの出家スポンサーになって功徳を積むのです。

 金曜日、サク君はタイからミャンマーに入る飛行機の中で知り合ったというシホさんという栄養学専攻の学生を連れて、私の授業見学にやってきました。シホさんの大学は、東京の我が家の近くであることもわかりました。授業のティーチングアシスタント補助員もやってもらいました。

 インセインロードにある地元の食堂で晩ご飯。いよいよ、明日は出家です。シホさんはゴールデンロックを見にいくので、お寺には行けない、ということでした。
 親戚にお寺なんかない私にとっても、出家の儀式なんぞ見るのは初めてのことですから、サク君同様、ミーハー気分でわくわくしています。

 出会ったばかりのサク君ですが、自由な旅をする青年は、何はともあれ大好きです。私も、35年前にバックパッカーとして、アフリカをぶらついた。アジアをぶらついている、サク君のキャラがとても気に入って、応援する気持ちになりました。

 お寺で。ももさん、HAL、美人のモモママ。


<つづく>
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ミンガラ春庭「サバイバル授業の成果」

2015-10-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151003
ミンガラ春庭ニッポニアニッポン教師日誌2015ヤンゴン教師日誌9月(5)サバイバル授業の成果

 8月6日に前任者の授業を見学させてもらったとき、学生達は、授業中のリピート練習では、教師に後に続いてよく声を出し、活発な授業風景にみえました。けれど、そのあとの、文型暗記、単語暗記などは求められていませんから、まったく定着はしていませんでした。

 私が引き継いで8月7日に6課の授業を始めたとき、受講生たちは、5課の単語も文型も覚えていませんでした。
 当地の学生達、授業中はひたすら先生のあとについてリピートする。試験前に教科書を丸暗記する、これが勉強のすべてです。日本語は単位なしの授業ですし、期末試験もありませんから、学生達は「丸暗記」なし。これでは定着するはずもありません。
 
 5課復習から始めました。
 単語の復習。図書館、食堂、郵便局、銀行などの場所名詞を絵カードをパワーポイントに取り込んで、スライドを見せながら復習する。リピートはみな、よく出来ます。つぎに「きのう、どこへ行きましたか」「ぎんこうへいきました」「あした、どこへ行きますか」「ゆうびんきょくへいきます」という例文を読み、リピートする。よくできます。このあと、TA(ティーチングアシスタント、ビルマ語学習の日本人留学生)に「A」のカードを持たせ、私が「B」のカードを持って、例文の質問と答えのやりとりを言って、Aが質問したことをBが答える、というやりとりを見せます。(直接法では、これを教師ひとりがAカードを右手に、Bカードを左手に持ってひとり二役でやりとりしたり、右手と左手に指人形をはめて、二人の人物の対話であることを理解させます)。

A:「きのう、どこへ行きましたか」B:「スーパへ行きました」
A:「あした、どこへ行きますか」B:「デパートへ行きます」
というやりとりを見せて、TAに、Aさんが質問したら、Bさんが答えるようにビルマ語で指示してもらいます。

 それから、教師がAとなって、学生1にBのカードを渡します。一般の直接法授業なら、Bのカードを持った学生は、自分はAの質問に返答するのだと解釈します。しかし、当地では、Bに対して「きのう、どこへ行きましたか」と尋ねると、学生1は、「きのう、どこへ行きましたか」と、復唱するのです。郵便局の絵カードを示して、「ゆうびんきょくへ行きました」と答えるようにいうと、やっと「ゆうびんきょくへいきました」と、復唱はできる。次の学生2に「あした、どこへ行きますか」と尋ねると「あした、どこへ行きますか」と、復唱するのみ。

 リピート以外の授業は、なかなか成立しないクラスでした。
 前任者は当地のリピート中心授業に合わせてクラスを進行していましたから「みな、よくできます」と言っていたのですが、リピート練習だけなら、オウムでもできる。
 しかし、当地の学生がリピート以外の学習活動になじまないですごしていたのは、リピート以外の活動をしてこなかったからでした。

 私がゼロスタートから授業を行った、理系教員のためのサバイバルジャパニーズクラスでは、教師の発問意図をよく理解して、「ここは、リピートするところ」「ここは教師の質問に対して答えるところ」と、活発な語学活動ができたのです。むろん、30人のクラスではじめた授業では、リピートが中心になってしまうこともやむを得ず、私が引き受けたサバイバルクラスでは、11名の「11月に日本へ行く」という強い動機を持った教員のクラスでしたから、一概には言えません。でも、リピートしかしようとしないクラスのあと、さまざまな活動に答えてくれるサバイバルクラスを受け持ったおかげで、自信をうしなわずにすみました。

 数字の言い方をならったあと、「いくらですか」「○○円です」「これ、ください」という買い物の言い方をならう。そのあと、教室に、傘とカバンを並べた洋品屋、本を並べた本屋、ペンや消しゴムの文房具屋などを設定して、「お買い物ごっこ」をやったときも、みな、よく文型を暗記して、買い物のやりとりをやっていました。あまりリピートしないでさっとすませた「ぜんぶで、○○円です。千円お預かりします。500円お返しです」という店員のセリフや、日本では、デパートやスーパーではfix priceだから、値引きしないと説明した上で「高いですね、安くしてください」という秋葉原電気街に行った時用のセリフも、みな喜んで口にしていました。

 日本の留学生教育センターでは「旧来のオーディオリンガル方式でリピートのみのクラスでは、教師はテープレコーダーと同じ存在意義しかない。学習者から自発的な発話を引き出すことこそ、教師の腕である」という考えで授業を行ってきました。
 リピートしかしようとしない学生相手だけだったら、私の25年間の日本語教育歴が否定されたように感じたままになってしまい、がっくりきたことでしょう。

 サバイバルクラスの授業、ひらがなカタカナは覚えなくてよいから、日常会話をこなせるようにしてほしい、という注文でした。1月にオープンしたばかりの当地の事務所には、教材がそろっていません。書棚にはひらがなを覚えてから1課に入る教科書のみで、ローマ字による教科書はありませんでした。
 しかたない、第1回から第6回までの教材を手作りしました。絵カード、ローマ字表記の日本語、ビルマ語を並べて、簡単な文型を理解させる教材です。ビルマ語がわからない春庭ですので、作るのにたいへん時間もかかり、苦労しました。「ビルマ語日本語語彙集」と「旅の指さしビルマ語」から街頭語句を選び、PDF画像を貼り付ける、という手間暇かけました。

 しかし、苦労した分、受講者たちはとても熱心に授業を受け、Q&Aもこなし、文型定着率も非常に良かった。
 私のやり方で日本語教育の成果があった、と思えるクラスとなり、私にとっても当地で日本語教育を実施してよかった、と思えました。

 最終日には、春庭が持って行った娘と息子の浴衣を受講生に着せて、「日本の夏の伝統衣装のひとつです」と、紹介が出来ました。浴衣を着る人は、じゃんけんで決めました。とても喜んで、みなで写真をとっていました。

 また、各人にスピーチを課したところ、それぞれきちんと準備をして、自己紹介、家族紹介、日本で研究すること、などを発表しました。発音にまだ難がある人もいたのですが、「全員、とてもよいスピーチでした。しっかり日本語を学びましたね」というコメントをつけて、終了しました。

 人間相手の教師仕事は、どのような授業展開になるかは、その時によって異なります。どれだけ入念な準備をしても授業がうまくいくという保障はない。その日の学生の顔ぶれやお天気によって仕様が異なるのです。当地、激しい雨になるとトタン葺きの軒を打つ雨音で、教師の声は聞こえなくなってしまう。教室のマイクは常備されているはずが、ときに行方不明になっている。
 おなじQ&A練習でも、受講生の返答によって、その後の授業展開が変わる。授業案なんぞ、おおまかなラフスケッチにすぎず、授業案を超えたところに授業があります。

 それでも、その日の授業が楽しい展開になれば、教師も満足でき、こちらの意図が伝わらずに、やきもきする授業になれば、がっくりもする。
 
 それでも、終わりよければすべてよし。最後の浴衣&スピーチ授業が楽しくできたことで、当地での仕事すべてがよかったと思えるようになりました。

<つづく> :
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ミンガラ春庭「帰国報告」

2015-10-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151001
ミンガラ春庭ミャンマーだより>2015ヤンゴン日記9月(11)帰国報告

 ただいま。8月9月、2ヶ月間のヤンゴン滞在を終えて、9月29日早朝、無事帰国しました。

 家に荷物をおくと、その足で出講先の私立大学へ。9月29日は、後期の最初の授業です。
 他の私立大学後期の授業は、9月半ばから後期授業がはじまっています。ヤンゴン滞在中のため最初の授業を行うことができず、後期授業をお断りした私立と、無理にお願いして後期授業を前期にむりやり押し込んでもらったところがありました。
 しかし、ひとつの大学だけ、勤務を変えることができなかったのです。ために、成田についたその日から大学へ。アクロバットのような仕事ぶりです。

 次にヤンゴンに滞在する12月と1月の授業は、9回分が休講になってしまい、これは1月に補講集中講義日でやりくりすることに。1月下旬にヤンゴン成田をアクロバット往復することになりますが、はたしてどうなるのか。

 ともあれ、無事第1回目のヤンゴン勤務が終了し、ほっとしています。10月11月の2ヶ月間は、8月9月でわかったことを踏まえて、足りない教材や教育機器などの準備をしなければなりません。(無給ですが)
 12月は、ミャンマーの大学暦の新学期にあたります。これまでは、日本語教育スタートさせることが第一番の仕事でしたが、これから先は、カリキュラムの充実ほかさまざまな問題が山積みしています。

 私一人では処理できないことばかりなので、10月11月は、これからの方針決めやら会議会議になるかもしれませんが、10月11月中の日本での授業は週1コマのみになりますので、なんとかがんばります。

 ヤンゴン滞在中、下痢数回、足の湿疹、路上で売っていたトウモロコシに食あたり。ウンウンうなってひとりで寝ている間は、「このまま、誰にも気づかれずに死んじゃうのかも」なんて深刻になったりしましたが、熱帯では腹下し程度の病気は、病気のうちにもいれてもらえない日常茶飯事。

 それより、当地ではTB結核にかかっている人が多いので、結核をうつされないよう気をつけろ、という注意を受けました。日本のような予防接種の制度が定着していないためです。
 弱い咳をしている人がけっこういます。私も9月はじめから1ヶ月も咳が続いたので、心配しましたが、結核患者の咳は、夕方以後熱がでるということなので、熱は出ていないHALの咳は、ただの咳らしい。75歳のボスも、1月末に赴任したとき1ヶ月くらい咳がとまらなかったと、言っていました。ともあれ、まずしなければならないのは、健康診断。

 結論からいうと、このような土地では、まず若くて健康な人が赴任すべき。
 だれも行きたがる人がいないから、私に回ってきた赴任話なのだけれど、やっぱり年寄りにはきつい仕事です。

 大学が命じてきた13時間拘束勤務を撤回しない場合、私は12月からの勤務を降りるから、後任を探してほしい、という開き直りメールを送りました。とりあえず、週に90分授業を9-5時の間に週6コマ、ということになりました。今後どうなるのか、まだわかりません。
 10月中も、ヤンゴン生活のあれこれを報告します。

<つづく>
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