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ぽかぽか春庭「納骨」

2016-02-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160207
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜さまよい日記1月(5)納骨

 1月30日、ユキ子おばあちゃんの納骨を行いました。
 本当の49日は1月22日だったのですが、お葬式にも出ることが出来なかった私が、せめて納骨は一時帰国中、私の日本滞在中にしてもらおうと、30日にしてもらいました。
 夫は、もともと完全無宗教人間です。49日がいつだかなんて気にもしておらず、私の帰国中に納骨という要望はOKでした。

 1月30日の納骨。後楽園のお寺で無事執り行われました。我が家の4人と、夫の姉の次女が参列。

 舅がなくなったあと、姑が「交通の便がよいこと、法事をするときに、どこからでもアクセスがよいこと」を条件に選んだ納骨堂式のお寺です。ボタンをおすととびらが開き、「○○家之墓」と書いてあるプレートが出現して、皆で手を合わせて、またボタンをおすとお墓は戻っていきます。さいしょ見たときはびっくりして不謹慎にも笑ってしましました。お墓プレートには、「見たらほんとうにうちのお墓だとすぐにわかるように」といっておばあちゃんが舅の写真を貼り付けてあります。よい目印です。

 おばあちゃんの写真も貼っておこう、と家族と言っていたのですが、舅のときはOKだった写真添付は、今はできなくなっている、ということでした。

 納骨のあとの食事、ひさしぶりの日本の外食だから、「お斎ということにはおかまいなく、母の好きな物を食べよう」と、娘息子も言ってくれたのですが、納骨式直前まで、お坊様の休憩室で横にならせていただいた身。食べる気もせず、家に帰って寝ておかないと、31日のヤンゴン行きに乗れなくなってしまう、という事態。日本のあまりの寒さに、日中30度の国からの帰国で、すっかり風邪をひいてしまったのです。
 2日間の私立大学集中講義はなんとかやり終えましたが、若い有髪の坊様の、いかにも「アルバイトで出張している坊さんです」みたいな方の納骨式用読経を聞いているのもつらかった。

 1月27日水曜日の朝、日本到着。この日はかかりつけのクリニックへ。薬をもらい、木曜日金曜日は私立大学補講集中授業。土曜日納骨。日曜日の朝、家を出て、11:45離陸のANAでヤンゴンへ。ヤンゴン着は日本時間7時半。ヤンゴン時間5時でした。ああ、疲れた。疲れたけれど、おばあちゃん、やすらかに。見送ることができてほっとしました。

お墓プレートに貼ろうと思った最晩年のひ孫と遊んでいるときの写真。2015年、90歳の笑顔です。


<おわり>
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ぽかぽか春庭「さらに続く悲しみ」

2016-02-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160206
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜日記1月(4)さらに続く悲しみ

 おばあちゃんが亡くなったとき、夫タカ氏がまっさきに知らせたのは、亡き姉の連れ合いだったヒロ氏でした。
 おばあちゃんが亡くなったという知らせ、本来なら一番身近な親族であるユキ子さんの姉、タケ子伯母に知らせるべきところでした。しかしタカ氏がまっさきに知らせたのは、ユキ子さんの娘婿であるヒロ氏。翻訳家のヒロ氏は、海外での仕事に出かける矢先だった、というのを取りやめて、駆けつけてくれました。

 義姉の存命中、タカ氏にとって、ヒロ氏は、「家族にとってもっとも大切な姉を自分たちからかっさらって行った人物」で、それほど親しい間柄にも思えませんでした。しかし、2000年に、義姉が亡くなったあと、ふたりは亡き妻亡き姉の思い出を語り合ううち、無二の親友になったのです。
 以後、タカ氏はことあるごとに家族の問題もヒロ氏に相談し、ヒマがあれば雑談をする仲になりました。

 そのヒロ氏が、突然くも膜下出血で亡くなってしまったのです。ユキ子おばあちゃんの死からわずか3週間後のこと。同じ12月の出来事でした。
 タカ氏、娘息子の衝撃はどれほど大きかったことでしょう。おばあちゃんの死もショックでしたが、虚血性心不全で眠るような安らかな死だったと、医師から説明を受けたあとは、最後の日まで孫と幸せな生活をおくることができた90年の大往生だったと納得することもできたのですが、ヒロ氏は還暦を迎えたばかり60歳の死です。

 翻訳書を何冊も出版しているとはいえ、翻訳で食べていけるのは、一部の著名な翻訳家だけ。出版関係のさまざまな頼まれ仕事もこなしながら、翻訳を続けてきたヒロ氏でした。ヒロ氏&義姉一家、結婚以来、ずっと貧乏な一家で、我が家と同様でした。
 「家族を喰わせてやることを放棄して、カネにはならなくても、自分の選んだ仕事を追求する」という点でタカ氏とヒロ氏は意気投合した仲だったのです。

 姑ユキ子さんにはその点が不満でした。いつも家族を貧乏なままに捨ておく婿殿ヒロ氏が不満で不満で、ヨメである私にその不満をぶつけていました。「ヒロさんがあんなに貧乏でなかったら、娘も若死にをしなかったのに」と。

 あまりな言いようについつい「でも、お義母さん、タカ氏も同じですから、ヒロさんばかり悪く言うのはかわいそうですよ。家庭を顧みないことにかけては、タカさんのほうがひどいです」
 ユキ子さんはいつも「お宅は、お嫁さんのあなたがしっかり者だったから、孫達もちゃんと育ったのよ。ヒロさんは、子供3人の養育を放棄していて、私が意見すると、子供は勝手に育ちますから口出し無用って、取り合ってくれなかった」
 ユキ子さんにとっては、稼ぎのない婿殿が頼りなく、孫達の教育へも口出ししたくてたまらない。婿殿は、そんなおばあちゃんが少々けむったい、そういう仲でした。

 そんなヒロ氏でしたが、自分の母親を四国から東京に呼び寄せ、初志変えることなく翻訳家として貧乏生活を続けました。義姉と出会ったのも、翻訳学校で、ということを語っていました。ヒロ氏にしてみれば、翻訳家を続けることが、妻との思い出を守ることだったのかもしれません。

 たった一人の親友であるヒロ氏を失ったタカ氏の衝撃も大きいものだったでしょう。けれど、母親が50歳の誕生日の少し前に亡くなり、今度は父親が60歳で亡くなってしまった、義姉の娘たちもほんとうに気の毒です。
 長女は母親を早くに亡くしたことから看護師さんをめざし、大学で看護師と保健師さんの資格を得ました。今は男の子、女の子の母親となり、保育施設の看護師さんとして働いています。次女はシングルマザーで男の子を育てています。

 娘には、従姉ふたりの支えになってあげて、とメールしました。ヒロ氏のお母さんは84歳で我が子に先立たれてしまいました。親にとって、子に先立たれるほど悲しいことはありません。
 娘が病院にかけつけたところ、ヒロ氏のお母さんは、「そばにいてほしい」と娘に頼んだのだそうです。どれほど心細かったことでしょうか。ヒロ氏の実姉は九州にいて、東京に着くのは翌日になるとのことでした。

 こんな悲しい年末を過ごすことになったのに、私は契約の仕事ですから、最初に申し出ておいた一時帰国のほかに休みを取ることはできません。ボスは12月24日に日本へ帰国してしまっていますから、事務所には私一人なのです。日本語教室を空にすることもできず、私は仕事を続けました。

 ヒロ氏の翻訳の仕事関係の人々も葬儀に来てくれて、「つらすぎて葬儀に出たくない」と、いつものわがままを言っていたタカ氏も、ヒロ氏のやりかけ仕事の跡始末の相談などをすることが忙しくなり、娘にひっぱられて葬儀に参列できてよかった、ということになったそうです。幼い孫が、ひつぎに向かって「じいじ、いっぱい遊んでくれてありがとう」と言ったひとことに、参列者みなが胸をうたれ、家族は号泣だったと言うことですが、孫のことばにおくられた旅立ちとなりました。

 娘の心に寄り添ってあげることもできず、おばあちゃん死去の悲しみから回復できないまま身近な人を再び失ってしまった息子の衝撃を癒やすこともできない、なんとも情けない母親でした。年末に「いてもたってもいられないのに、どうすることもできない事態」というのは、こういう事情でした。ほんとうにつらい出来事でした。

 1994、2007、2009年に中国に赴任したときは、大変ではあってもつつがなく勤務をまっとうできました。それが当然の出来事だったのではなく、家族がそろって健康でいてくれたからこそ可能であった、ということに今さらながら気づきます。
 今回のヤンゴン赴任、一番必要なときに家族のそばにいてやれなかった後悔は、一生引きずることになるでしょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「姑ユキ子の生涯」

2016-02-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160204
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜日記1月(3)姑ユキ子の生涯

 姑ユキ子は、1925年2月7日生まれ。
 1925年生まれの姑は、昭和元年は1歳、昭和63年は63歳で、年がわかりやすい。平成になってからは、孫息子1988年生まれの年を63に足す。息子は平成元年が1歳、平成27年が27歳なので。

 ユキ子さんが9歳、末の弟が4歳のとき、ユキ子さんの父親が病死しました。乏しい田畑の収入だけでは生活できない状況から、母親は床屋の技術を身につけ、「村の床屋」として働いて4人の子供を育てました。父親の死のあと、末の弟も病死しました。

 山深い地元の小学校を卒業すると、田舎から町の女学校へ通いました。田舎の子供が女学校へ行くのは、お金持ちと決まっていたのに、金持ちでもない家から進学できたのは、ユキ子さんの母親が「十分な田畑を持たない親がしてやれるのは、教育だけ」という信念を持っていたからです。

 ユキ子さんの兄と姉も、師範学校に進学しました。当時、学費免除で勉強ができたのは、教員になるための師範学校か軍人になるための士官学校だけでした。
 長兄は師範学校卒業して中学校教師となり、姉も小学校教師として働き出したので、ユキ子さんも進学することができたのです。

 貧乏だったので、通学には苦労しました。雪深い冬。他のクラスメートは冬期期間中は町の下宿屋から通学したのに、ユキ子さんの家は下宿屋に払うお金がなく、冬も自宅から通学した、と、この話を何度でも聞かされました。鉄道の駅まで1時間歩き、鉄道で30分、学校まで30分歩き、2時間かかった。駅までの1時間、かんじきで雪道を歩いたこと。女学校では体操が苦手で困ったこと。

 苦労はしたけれど、晩年、同窓会は姑の楽しみのひとつになっていましたし、「貧乏なのに進学させてくれた母親への感謝の気持ち」が強く、私が「こどもを抱えながら二つ目の大学に通うことにし、大学院にも進学する」ということになったときも、賛成してくれました。

 しかし、女学校を卒業する頃には戦争が激化し、家で花嫁修業などというのんびりしたことをやっていると、動員されて工場などで武器作りなどをやることになる、と兄姉に言われて、村の郵便局で働くことにしました。

 郵便局で働き、終業間際になると、近所の子供達がユキ子さんの姉の子供、姑の甥っ子を連れてやってくる。姑は甥っ子を背負い、小学校教員の姉が帰宅するまで子守をしてすごしました。士官学校出の軍人と結婚した姉たけ子さん。たけ子さんの夫は結婚してまもなく戦死し、女手一つで息子を育てていました。姑にとって、甥っ子は、我が子同様にかわいがって育てた子どもでした。

 ユキ子さんは、知り合いの紹介で銀行員サトルさんと結婚し、山形で結婚生活を始めました。サトルさんが仕事で東京へ出ることになり、武蔵小山にひっこしてきました。慣れない東京の暮らしの中、ご近所の方に助けられ、世話になった話も何度も聞きました。1

 1950年代の東京。まだ東京タワーもできていない東京の生活は、田舎者の姑にはたいへんだったことでしょう。しかし、ご近所同士の親戚づきあいみたいなおつきあいに助けられました。
 タケ子さんの息子、姑の甥っ子が大学進学のために上京し、姑は二人の子といっしょに甥っ子の世話をしました。タケ子さんは定年退職まで地元の教師として働きました。

 娘と息子を育てながらの銀行員の妻としての暮らし。
 ユキ子さんの夫サトルさんはカタブツで、酒も煙草も賭け事も女遊びもしない。しかし、気むずかしい夫の世話はたいへんだった、と、娘には話したことがあったそうです。私は、ユキ子さんの口からサトルさんへの愚痴は聞いたことがなかったけれど。

 ユキ子さんの痛恨事は、実の娘が「売れない翻訳家」と結婚し、四国という遠くに行ってしまったこと。貧乏暮らしの苦労の末に、3人の子を残して50歳で亡くなってしまったこと。ガンの闘病5年目のことでした。
 ユキ子さんは、娘の病気治療と生活費のために、当時貯めていた貯金を使い、娘の死の1年後、サトルさんが2001年に入院したときも、「免疫治療」という保険のきかない癌治療のために貯金を使い果たしました。2002年にサトルさんを見送りました。

 舅と義姉のふたりの病院費用で1千万円以上つかった、と言うのを聞いて、驚きましたが、2007年に自宅を「新築そっくりさん」という方法で改築したときも、「現金払い」で改築費を工面したときいて、またまた驚きました。年金生活なのに、どうして?我が家の貧乏生活からは想像できません。秘密の利殖。ユキ子さんは、少額ながら株の売買をしていたのです。けっして「大穴狙い」などはせず着実に株が下がったときに買い、上がったときに売る。娘と息子は、おばあちゃんから「お金はこうして運用する」という話を聞いたとき、「バーチャン、すっげえ」と思ったそうです。同時に「自分たちは決して株売買などには手をだすべきでない」と、思ったとも。

 ユキ子さんは、孫娘といっしょに買い物するのが何よりの楽しみでした。亡くなった当日も、昼間は娘と買い物に出て、「次にデイケアセンターにいくとき、今度買った冬ズボンはいて行こう」と、楽しみにしていたそうです。孫ふたりと楽しい週末をすごし、翌週を楽しみにしながら、静かに逝った姑。眠るようなお顔の最後だったそうです。

 最後まで生きる意欲を失わず、「おばあちゃん、100歳まで生きてね。100歳になったら、なにしようか」と尋ねると、「100歳になったらお金持ちになりたい」と言っていました。心臓が弱って後は、得意の株売買は「投資信託任せ」にしていたようですが、「お金持ちになりたい」というのは、ユキ子さんらしくていいな、と思いました。
 
 姑は88歳の米寿までは元気に一人暮らしを続けていましたが、89歳を過ぎると心臓が悪くなり、90歳を前に入院。90歳誕生日を病院で迎えたあと、心臓ペースメーカーの手術を受けました。退院後は、平日はデイケアセンターに通い、夜は夫タカ氏が泊まる、週末は娘と息子がお相手をする、という生活を続けました。
 昭和平成の庶民史を生ききったユキ子さん。

 おじいちゃんのお葬式の時は、「本家の墓に入れなさい」という親族にさからって、東京の納骨堂式のお墓に入れました。今はいっしょにいます。
 今頃は、おじいちゃんとよもやま話しているでしょうか、、、、、完全無宗教人間だったユキ子さんは、「死んだら灰になるだけよ。葬式も戒名もいらない」と言っていましたが。
 私は、舅姑ふたり仲良くおしゃべりしている姿を思い浮かべることにしています。

 ユキ子さん、90年の生涯、お疲れ様。
 至らぬヨメでしたが、デイケアセンターで「ヨメ自慢」してくれてありがとう。

 2011年2月におばあちゃん誕生日ランチを横浜中華街でしました。86歳の誕生日祝い。


 中華街は春節祝いで賑わっていました。


 中華街から山下公園を通り、赤レンガ倉庫、ランドマークまで歩き通しました。姑はさすがに疲れたようでしたが、「疲れたならランドマークの展望台はやめて、もうかえろうか」と聞くと、「展望台に行ってみたい」といい、横浜夜景を眺めました。あとで、娘と「私たちにはちょうどいい横浜散歩だったけれど、おばあちゃんにはハードな歩行数だったね」と、反省しました。でも、楽しい思い出が残せてよかった。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「おばあちゃんの葬儀」

2016-02-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160203
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜さまよい日記1月(2)おばあちゃんの葬儀

 夫も姑も完全無宗教人間で、むしろ宗教色を嫌う人たちです。夫は、無宗教で葬儀を行うと決意。しかし、お葬式を無宗教式にするということは、ほんとうはいろいろ大変なのです。

 近親者のみが集まる家族葬にしたのですが、それにしても、読経も焼香もせずに、出棺までの1時間、どうやってすごすというのか。ずっと泣いているばかりでもダメだろうし、葬儀社が言うように「皆様でご歓談を」と言っても、なにをご歓談?坊さんの読経というのは、こういうとき間を持たせるためにあるのだと、つくづく思います。
 「父は、お坊さんを呼ばないっていうだけで、あとは何も考えてくれない」と、娘がこまってしまったので、私が娘にアドバイス。

 おばあちゃんの家の階段脇の棚に、アルバムがぎっしり詰まっているから、その中から、おばあちゃんの若い頃からの写真を、10年ごとぐらいに選ぶ。葬儀社のプロジェクターが借りられるのなら、パソコンに取り込んで壁におばあちゃんの写真を写す。昔の写真を見ながらタカ氏が「これは、長女をたずねて行ったときの写真です。姉はイギリスにオペアとして英語修行中でした」などの解説を入れる。夫の姉のつれあいやこどもたちも、自分たちの知らなかった亡き人とおばあちゃんの写真を見て、なつかしんでくれるだろうと思ったのです。
 晩年の写真では、いっしょに写っている人に思い出話をしてもらう。最後の写真は、ひ孫といっしょに遊んでいる一枚にする。

 葬儀社ではプロジェクターの準備などしてくれないというので、パソコンでプリントアウトし、ダイソーの写真立てに入れて、葬儀会場に並べて、一枚一枚いつどこで撮った写真か、父が解説することにした、と娘からメールが来ました。
 葬儀まで、娘と息子は、アルバムからちょうどいい写真を選び、ケータイで接写。それを息子がパソコンでプリントアウトし、ふたりで写真立てを買いに行って、準備をしました。

 葬儀当日、夫、娘、息子のほかは、ユキ子さんの甥っ子とその妻、東京在住で親しくしていたユキ子さんの従弟。ユキ子さんの娘婿(亡き義姉のつれあい)、外孫娘ふたりとひ孫たち、長い間音信不通だった外孫息子も、パートナーと駆けつけてくれました。家族と行き違いがあり、長いこと父親にも姉二人にも会っていなかったというので、おばあちゃんが兄弟の縁を取り戻してくれたようでした。ほんとうに内輪の家族親族だけの参列。

 娘が用意した画用紙に、幼いひ孫3人に絵を描いてもらい、おばあちゃんの棺に納めました。皆で折り紙を折って、これもお棺の中に。
 写真を見せたところ、みなそれぞれが思い出を語ってくれて、とてもよい葬儀になったそうです。「1時間のご歓談を」と葬儀社の人が言ったけれど、葬儀社の人も「こんななごやかなすばらしいご家族様に、お話を続けていただきたいのはやまやまですが」と、少々時間を延長してくれて、ようやくの出棺となったのだそうです。

 娘は、「いろいろ準備はたいへんだったけれど、よいお葬儀になったので、おばあちゃんも喜んでくれたと思う。私はみなの思い出話を聞くたびに泣けて泣けて、こまったけれど」と、メールに書いていました。

 私は遠くの空から冥福を祈ることしかできなかったけれど、娘と息子が父を助けて、立派に葬儀も取り仕切ってくれたこと、ただ感謝していました。

2010年にいっしょに箱根一泊したときの写真です。


モトのように元気になって、また温泉にいこうね、と、リハビリがんばっていた姑でした。

 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「おばあちゃん」

2016-02-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160202
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜さまよい日記1月(1)おばあちゃん

 2月7日は、姑ユキ子の誕生日です。2016年の誕生日で、91歳になるところでした。
 でした、と過去形であるのは、91歳の誕生日を迎えることはできなかったからです。

 姑ユキ子は、2015年12月5日夜に虚血性心不全で永眠いたしました。

 12月、来週から新学期開始というとき、夜中まで準備に追われていて、おなかがすいた私は買い置きのアボガドを切り、固いタネを取り出して夜食にしようとしました。手がすべり自分の手のひらをナイフで突いてしまいました。血が噴き出し、アボガドの黄色い実が赤くなるスプラッター。あわてて右手で左手の手のひらをきつく押さえ、水道の水を流しながら30分じっとしていました。最初に出た血の量が多かったので、どれほどの深手かと心配し、すぐに病院へ行くべきか迷いましたが、血が止まって見ると、傷口の大きさはそれほどでもない。

 これならすぐに病院へ行かなくてもいいかと待つことにし、朝まで傷口を押さえたまま待っているのも退屈だから、メールを開けてみました。
 娘からのメール。おばあちゃんが亡くなったと。

 ああ、私の手から血が噴き出したのも、この出来事の虫の知らせだったのかと思いました。私は、任期契約期間中は帰国もできません。事前に1月末の私立大学補講のための一時帰国は申請して許可を得ていましたが、教師がひとりしかいない当地の大学日本語教室で、仕事をやすむわけにはいかない状態でした。

 忌引きを申し出れば許可は出たのかもしれません。しかし、新学期早々授業が休講になってしまうことの責任を考えると、仕事優先にしなければなりません。そういうことも承知で、3月までの任務を引き受けたのです。
 よく、舞台俳優は親が死んだとしても、舞台では喜劇であっても演じ続けなければならない、といいます。一般の会社などでは、忌引きは当然の権利であっても、自分ひとりで仕事をする、というのは、こういう事態も含めて仕事をまっとうしなければならないということなのだと思い知りました。

 12月5日土曜日。いつものように、娘と息子がおばあちゃんと週末をすごしていました。
 おばあちゃんは、夕方まで娘と買い物に出かけました。冬物のズボンを買ったり、日曜日にくる植木屋さんにお茶出しをするのだと、植木屋さんの好みのお菓子を買ったりして、たのしそうにおしゃべりを続けました。

 夜、息子が「おばあちゃん、おばあちゃん」と叫ぶので、ウトウトしていた娘が気づくと、おばあちゃんはすでにぐったりしていて、救急車を呼び、救急隊員が心肺蘇生措置をとったけれど、病院に着いたときは既に心肺停止になっていたそうです。診断名は虚血性心不全。

 メールをくれたときの、娘の落ち込み方は、たいへんでした。おばあちゃんが一人でいたときになくなったなら「いっしょにいればよかった」と落ち込むのでしょうが、いっしょにいたらいたで、「おばあちゃんの異変に気づいたときには間に合わなかった、もっと気づくのが早ければ、蘇生できたのではないか、自分たちがついていながら、おばあちゃんの命を助けられなかった」と、強い嘆きをメールで伝えてきたのです。

 私は、おばあちゃんが孫ふたりとしあわせな時間をすごしたあとに亡くなったのは、ほんとうに幸福な90年の人生であり、ふたりが見落としたから亡くなったのではない、と、片手を押さえながら、指一本で返信しました。

 医師の診断では、虚血性心不全と言うことで、眠るような最後であったことがわかり、娘もおばあちゃんの死が「お迎えがきたので、自然に、おじいちゃんのいるところへ行った」という状況であったことを納得しました。90歳で心臓ペースメーカー装着の手術には成功したのですが、やはり心臓への負担はあったのだろうと思います。

 家族は、ペースメーカーをつけておばあちゃんが再び元気になり、「リハビリがんばって、またみんなで温泉へいこうね」と言うおばあちゃんを応援していたのです。家族でよく106歳でなくなったおチヨ伯母さんを越えるかも、と、言っていました。それくらい生きる意欲の強い人でしたから。

 親戚縁者への連絡、葬儀手配など、娘と息子は父親を助けながらというより、父親が子供達に助けられながら行い、母親不在の家族の一大事を終えました。 
 夫は、「個人として生きる」という信念を曲げない人で、親戚なども関わってくる儀礼儀式が大嫌いなのです。
 姑がお世話になった近所への挨拶回りなども、娘に「僕は後ろに立って頭下げているから、挨拶はおまえにまかせる」と、娘に「丸投げ」したそうで、ほんとうにこのようなときには何もしない人。

 でも、娘は自分の強い悲しみを押し殺して「お父さんも母親を亡くして落ち込んでいるんだから」と、一人で葬儀準備に奮闘しました。

<つづく>
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