上宮河内地区は、常陸太田市役所の北西約14kmのところ
県道29号線を北へ、西金砂湯煙の里の手前
左手の山裾に菊連寺が有ります
参道山門前に駐車場が有ります
菊蓮寺参道入り口です
山門入り口です
菊蓮寺です
説明版です
菊連寺由緒
山号を舎利山三光院という。金砂山を開いた天台宗の
行讃上人は或る夜、金砂権現の霊夢を受け、蓮華上に舎
利、菊花の三つが光り輝くこの地に大同2年(807)
当寺を建立した。
天台宗として650余年を経て、寛正6年(1465
)瓜連常福寺二世了誉証冏上人(二十六夜尊)の弟子覚
誉冏察上人が中興し、浄土宗として今日に至る。
明暦3年(1657)野火に罹ったが、恵心作と伝え
る本尊仏は安泰で、現在献文化財6件を管理する。
入定尊由来
菊蓮社覚誉冏察上人の尊称である。俗性は、上岩瀬城
主白石佐渡守重光の嫡子。4歳で常福寺聖冏上人に入門
修行する。
寬正6年4月8日48歳で当寺に入り念仏を弘めた。
上人出生の時、母は難産のため死去。
晩年亡き母のお告げを受け「母君苦悩の恩を報ぜんが
ため、一切の女人を安産せしめん」との誓願を立て、2
1日の断食、念仏三昧を修し、明応7年(1498)3
月3日81歳で西高峰に生き入定された。
世人は入定尊と嘆賞し、安産守護仏として尊信が深い
。
我が願ひ みちてよろこび つとふかな
たれものぞみの かなふ山に
実誉覚存 謹詠
菊連寺護持会
文化財説明版です
菊蓮寺の文化財
菊蓮寺の本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音・勢至両菩薩
であるが、廃寺となった西金砂山定源寺のものと伝えら
れている木造千手観音立像(附千手観音焼損像)、木造
不動明王像、木造多聞天(毘沙門天9立像、木造女神像
が安置されており、いずれも茨城県の文化財として指定
されている。
ヒノキ材寄木造りの千手観音立像は、高さが350c
mで、県内第2位の大きさを誇る。この像は定源寺の本
尊であった千手観音立像が平安時代末期の佐竹氏と源氏
が戦った金砂山の戦いで焼損しまったため、鎌倉時代に
新たに作られたものと考えられており、胎内に納入され
ていた供養札には、寛元2年(1244)の年号が記さ
れていいる。また、金砂山の戦いで焼損した千手観音立
像も千手観音焼損像として炭化した姿のまま安置されて
おり、寄木造りの前部が焼失してしまった残りの背面の
部分であると伝えられ、高さは現在の千手観音立像より
も大きく386cmある。不動明王立像、多聞天(毘沙
門天)立像、女神像は、ともにヒノキ材一本造りで、平
安時代中期から後期の作と考えられている。
常陸太田市教育委員会
山門です
六地蔵様です
鐘楼です
本堂へ石段を上がります
本堂です
目的のケヤキは本堂の右手、庫裏の裏側に在るようです
庫裏の前から見る事が出来ます
常陸太田市 みどりの文化財 登録樹
第0005号です
庫裏の裏側(西側)から見ました
庫裏の裏側にはもう一本保存樹にしていされているケヤキが在ります
常陸太田市 みどりの文化財 登録樹
第0006号です
南西側から
庫裏の裏側に並ぶ二本を見ました
では、次へ行きましょう
県道29号線を北へ、西金砂湯煙の里の手前
左手の山裾に菊連寺が有ります
参道山門前に駐車場が有ります
菊蓮寺参道入り口です
山門入り口です
菊蓮寺です
説明版です
菊連寺由緒
山号を舎利山三光院という。金砂山を開いた天台宗の
行讃上人は或る夜、金砂権現の霊夢を受け、蓮華上に舎
利、菊花の三つが光り輝くこの地に大同2年(807)
当寺を建立した。
天台宗として650余年を経て、寛正6年(1465
)瓜連常福寺二世了誉証冏上人(二十六夜尊)の弟子覚
誉冏察上人が中興し、浄土宗として今日に至る。
明暦3年(1657)野火に罹ったが、恵心作と伝え
る本尊仏は安泰で、現在献文化財6件を管理する。
入定尊由来
菊蓮社覚誉冏察上人の尊称である。俗性は、上岩瀬城
主白石佐渡守重光の嫡子。4歳で常福寺聖冏上人に入門
修行する。
寬正6年4月8日48歳で当寺に入り念仏を弘めた。
上人出生の時、母は難産のため死去。
晩年亡き母のお告げを受け「母君苦悩の恩を報ぜんが
ため、一切の女人を安産せしめん」との誓願を立て、2
1日の断食、念仏三昧を修し、明応7年(1498)3
月3日81歳で西高峰に生き入定された。
世人は入定尊と嘆賞し、安産守護仏として尊信が深い
。
我が願ひ みちてよろこび つとふかな
たれものぞみの かなふ山に
実誉覚存 謹詠
菊連寺護持会
文化財説明版です
菊蓮寺の文化財
菊蓮寺の本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音・勢至両菩薩
であるが、廃寺となった西金砂山定源寺のものと伝えら
れている木造千手観音立像(附千手観音焼損像)、木造
不動明王像、木造多聞天(毘沙門天9立像、木造女神像
が安置されており、いずれも茨城県の文化財として指定
されている。
ヒノキ材寄木造りの千手観音立像は、高さが350c
mで、県内第2位の大きさを誇る。この像は定源寺の本
尊であった千手観音立像が平安時代末期の佐竹氏と源氏
が戦った金砂山の戦いで焼損しまったため、鎌倉時代に
新たに作られたものと考えられており、胎内に納入され
ていた供養札には、寛元2年(1244)の年号が記さ
れていいる。また、金砂山の戦いで焼損した千手観音立
像も千手観音焼損像として炭化した姿のまま安置されて
おり、寄木造りの前部が焼失してしまった残りの背面の
部分であると伝えられ、高さは現在の千手観音立像より
も大きく386cmある。不動明王立像、多聞天(毘沙
門天)立像、女神像は、ともにヒノキ材一本造りで、平
安時代中期から後期の作と考えられている。
常陸太田市教育委員会
山門です
六地蔵様です
鐘楼です
本堂へ石段を上がります
本堂です
目的のケヤキは本堂の右手、庫裏の裏側に在るようです
庫裏の前から見る事が出来ます
常陸太田市 みどりの文化財 登録樹
第0005号です
庫裏の裏側(西側)から見ました
庫裏の裏側にはもう一本保存樹にしていされているケヤキが在ります
常陸太田市 みどりの文化財 登録樹
第0006号です
南西側から
庫裏の裏側に並ぶ二本を見ました
では、次へ行きましょう