土浦城跡は、土浦市役所の北西約1kmmのところ
国道125号線と国道354号線の交差点の南東側に有ります
常陽銀行の有料駐車場を利用しました
国道125号線と国道354号線の亀城公園北交差点を東へ入ると亀城公園です
亀城公園入口正面は霞橋を渡ると本丸への入り口です、正面の櫓は東櫓です
史跡碑です、土浦城址及び櫓門とあります
北側の堀です
南側の堀です
霞門です、本丸には入らずに戻ります
説明版です
亀城公園案内図
土浦城が築かれた時期は定かではありませんが、
現在知られている土浦城は江戸時代に整備されたも
のです。江戸時代前期には松平氏、西尾氏、朽木氏
等、中期以降には土屋氏が城主となりました、土浦
城を拠点とする土浦幡は、土屋氏のときに藩領が9
万5000石となり、常陸の国では水戸藩に次ぐ領
地の広さをほこりました。
土浦城は「亀城」とも呼ばれています、明治時代
以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、
自治会館等として利用されてきました。
昭和に入り本丸と二の丸の一部を公園として整備
し、亀城公園の名で現在も親しまれています。
昭和27(1952)年には櫓門とともに茨城県
史跡第1号となりました。
櫓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝え
られ、本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方
で唯一現存するものです。階上に太鼓を置き、時刻
を知らせていたことから「太鼓櫓」とも呼ばれてい
ました。
南側に回ってみましょう
南側の堀越しに東櫓です
二ノ丸から見ました、東櫓と長塀が続きます
南側の入り口は旧前川口門です
説明版です
市指定文化財 建造物
土浦城旧前川口門
指定 昭和46年(1971)7月13日
この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた
高麗門である。高麗門は城郭の門として建てられた形
式の一つで、この門も、武家屋敷であった多計郭と町
屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている
。江戸時代末期の建築である。
明治18年(1885)に土浦戸長役場(のち町役
場)の門として、さらに大正9年(1920)には田
宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後
、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる
「二之門」のあったこの位置に、昭和56年(198
1)移築されたものである。
平成14年(2002)3月
土浦市教育委員会
門の東側、外丸側の土塁跡です
門の西側、外丸の土塁跡です
内側二の丸、門の東側です
西側です
二ノ丸から堀越しに太鼓櫓前を見ました
真中の築山に二の丸跡の石柱があります
ここにも説明版があります、文面の内容は東側のものとほぼ同じですが、図面が違いますね
櫓門(太鼓櫓)です
櫓門前に土浦城址碑が有ります
櫓門を入ると本丸です、東櫓です
近付いて見ました
土浦市立博物館付属展示館になっています
西櫓です
近付いて見ました
説明版です
土浦城 西櫓
由来 本建造物は、17世紀初頭元和6・7年頃城主
西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立され
たとされ、西櫓はその一方の櫓である。
土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃
藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、
象徴として存在していた。
土浦城内の建物は、明治以降、本丸館を始め多
くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、
昭和・戦後に至り、本丸には、太鼓櫓、霞門、西
櫓を残すのみとなった。
そして、この西櫓も老朽化と昭和24年のキテ
ィ台風により、小破し、昭和25年復元を前提と
して解体された。
その後復元を見ず今日に至り土塁上には礎石の
みが残され、僅かに往時をしのばせるのに過ぎな
かったものを、市民の浄財をもとに復元したもの
である。
平成4年7月 土浦市教育委員会
西櫓脇からの本丸全景です
西櫓北側の堀です
南側の堀です
堀の外側から西櫓を見ました
二ノ丸へ戻りましょう
南西側出口の橋です
南西側の橋の上から北側の堀です
南西側の土浦小学校の前を通って北側に回ります
浦和市立博物館の脇に、土浦城櫓門の礎石や土浦領境界石などが有ります
では、次は亀城のシイです
国道125号線と国道354号線の交差点の南東側に有ります
常陽銀行の有料駐車場を利用しました
国道125号線と国道354号線の亀城公園北交差点を東へ入ると亀城公園です
亀城公園入口正面は霞橋を渡ると本丸への入り口です、正面の櫓は東櫓です
史跡碑です、土浦城址及び櫓門とあります
北側の堀です
南側の堀です
霞門です、本丸には入らずに戻ります
説明版です
亀城公園案内図
土浦城が築かれた時期は定かではありませんが、
現在知られている土浦城は江戸時代に整備されたも
のです。江戸時代前期には松平氏、西尾氏、朽木氏
等、中期以降には土屋氏が城主となりました、土浦
城を拠点とする土浦幡は、土屋氏のときに藩領が9
万5000石となり、常陸の国では水戸藩に次ぐ領
地の広さをほこりました。
土浦城は「亀城」とも呼ばれています、明治時代
以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、
自治会館等として利用されてきました。
昭和に入り本丸と二の丸の一部を公園として整備
し、亀城公園の名で現在も親しまれています。
昭和27(1952)年には櫓門とともに茨城県
史跡第1号となりました。
櫓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝え
られ、本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方
で唯一現存するものです。階上に太鼓を置き、時刻
を知らせていたことから「太鼓櫓」とも呼ばれてい
ました。
南側に回ってみましょう
南側の堀越しに東櫓です
二ノ丸から見ました、東櫓と長塀が続きます
南側の入り口は旧前川口門です
説明版です
市指定文化財 建造物
土浦城旧前川口門
指定 昭和46年(1971)7月13日
この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた
高麗門である。高麗門は城郭の門として建てられた形
式の一つで、この門も、武家屋敷であった多計郭と町
屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている
。江戸時代末期の建築である。
明治18年(1885)に土浦戸長役場(のち町役
場)の門として、さらに大正9年(1920)には田
宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後
、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる
「二之門」のあったこの位置に、昭和56年(198
1)移築されたものである。
平成14年(2002)3月
土浦市教育委員会
門の東側、外丸側の土塁跡です
門の西側、外丸の土塁跡です
内側二の丸、門の東側です
西側です
二ノ丸から堀越しに太鼓櫓前を見ました
真中の築山に二の丸跡の石柱があります
ここにも説明版があります、文面の内容は東側のものとほぼ同じですが、図面が違いますね
櫓門(太鼓櫓)です
櫓門前に土浦城址碑が有ります
櫓門を入ると本丸です、東櫓です
近付いて見ました
土浦市立博物館付属展示館になっています
西櫓です
近付いて見ました
説明版です
土浦城 西櫓
由来 本建造物は、17世紀初頭元和6・7年頃城主
西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立され
たとされ、西櫓はその一方の櫓である。
土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃
藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、
象徴として存在していた。
土浦城内の建物は、明治以降、本丸館を始め多
くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、
昭和・戦後に至り、本丸には、太鼓櫓、霞門、西
櫓を残すのみとなった。
そして、この西櫓も老朽化と昭和24年のキテ
ィ台風により、小破し、昭和25年復元を前提と
して解体された。
その後復元を見ず今日に至り土塁上には礎石の
みが残され、僅かに往時をしのばせるのに過ぎな
かったものを、市民の浄財をもとに復元したもの
である。
平成4年7月 土浦市教育委員会
西櫓脇からの本丸全景です
西櫓北側の堀です
南側の堀です
堀の外側から西櫓を見ました
二ノ丸へ戻りましょう
南西側出口の橋です
南西側の橋の上から北側の堀です
南西側の土浦小学校の前を通って北側に回ります
浦和市立博物館の脇に、土浦城櫓門の礎石や土浦領境界石などが有ります
では、次は亀城のシイです