ここからは、2022年6月20日取材分です
今日は、小佐渡山地を超えて佐渡ヶ島の南西部へ行きます
今回の佐渡取材では、新穂ダムキャンプサイト駐車場で車中泊で4泊しました
二泊目の朝も早くから起きて、準備作業をゆっくりしながらダム湖畔を散歩しました
ダム湖畔は一周約3kmのウォーキングコースになっています、地元の方々が利用していました。
では、
新穂井内地区は、佐渡市役所の東約7kmのところ
県道181号線から県道237号線そして県道65号線を東へ
県道65号線が北に向きを変える手前に案内板が出ています
右(南)へ入り、突き当りを左(東)へ道なりに進むと、神宮寺前に出ました
境内入り口前の道路脇に車を止めさせて頂きました
(新穂ダムキャンプサイトからは、道路を下って三叉路を左へ、
少し登って下った一時停止貫けた十字路を右へ進んだ所、わずか1.5kmです)
境内入り口です
重要文化財 梵鐘の標柱が有ります
真言宗 醍醐派の神宮寺は佐渡百選です
参道を進むと山門です
正面に大きな屋根の本堂です
山門入った右手(東)に鐘楼です
目的の銅鐘です
左から
正面から
右から
説明版です
国指定文化財(重要文化財 工芸品)
銅鐘 (昭和25年8月29日指定)
中世銘のある和鐘で、高さ82.7cm、重さ187.5kg、肩の上部から下部にかけての線がなだらかでよく整っています。かつては落ち着いた音色を響かせていましたが、現在は撞かれて
銘文には、永仁3年(1295)に沙弥能主という人物(加茂郷地頭渋谷氏の説あり)が、陸奥守朝臣(佐渡守護大仏北条宣時)の祈祷のため、銅匠藤原守重に鋳造させ、羽黒山正光寺(佐渡市羽吉)に奉納した鐘とありますが、明治元年(1868)の神仏分離令によって正光寺が廃寺となったため、末武某がこの鐘を買い取り、菩提寺の神宮寺に寄進したと伝えられています。
平成24年10月
佐渡市教育委員会
新鐘楼建立の沿革です
旧鐘楼は、明治29年10月建立され、昭和の今日まで補修の上、永き歳月百年の風雪に耐え忍び、容姿が物語る如く、老朽甚だしく、今後補修し百年保持難しく、関係者再三審議の結果、新鐘楼建立の決まる。
関係者の努力、教育委員会御支援を得て、県、国文化庁より認可を得るまで三年余の歳月で遂に実を結び、昭和49年3月認可と成る。特に文化庁より東京芸大講師(荒木保存設計事務所)荒木伸介技官派遣され、再三来島、現代建築の粋とも言われる執工技方による日本で第二番新鐘楼となり、着工に際して福田組に依頼、御支援によって総経費420万円で、昭和49年10月完工の運びと成る。特に村当局河原治一村長殿、教育委員会関係者の御支援謹み檀徒一同感謝の意を表示します。
*寄付された人達の名前が古めかしいのは、屋号なのでしょうかしょうか
栄玉殿でしょうか
庫裏の前には背の高い松の木です
まだまだ朝早いのでゆっくり次へ行きましょう
今日は、小佐渡山地を超えて佐渡ヶ島の南西部へ行きます
今回の佐渡取材では、新穂ダムキャンプサイト駐車場で車中泊で4泊しました
二泊目の朝も早くから起きて、準備作業をゆっくりしながらダム湖畔を散歩しました
ダム湖畔は一周約3kmのウォーキングコースになっています、地元の方々が利用していました。
では、
新穂井内地区は、佐渡市役所の東約7kmのところ
県道181号線から県道237号線そして県道65号線を東へ
県道65号線が北に向きを変える手前に案内板が出ています
右(南)へ入り、突き当りを左(東)へ道なりに進むと、神宮寺前に出ました
境内入り口前の道路脇に車を止めさせて頂きました
(新穂ダムキャンプサイトからは、道路を下って三叉路を左へ、
少し登って下った一時停止貫けた十字路を右へ進んだ所、わずか1.5kmです)
境内入り口です
重要文化財 梵鐘の標柱が有ります
真言宗 醍醐派の神宮寺は佐渡百選です
参道を進むと山門です
正面に大きな屋根の本堂です
山門入った右手(東)に鐘楼です
目的の銅鐘です
左から
正面から
右から
説明版です
国指定文化財(重要文化財 工芸品)
銅鐘 (昭和25年8月29日指定)
中世銘のある和鐘で、高さ82.7cm、重さ187.5kg、肩の上部から下部にかけての線がなだらかでよく整っています。かつては落ち着いた音色を響かせていましたが、現在は撞かれて
銘文には、永仁3年(1295)に沙弥能主という人物(加茂郷地頭渋谷氏の説あり)が、陸奥守朝臣(佐渡守護大仏北条宣時)の祈祷のため、銅匠藤原守重に鋳造させ、羽黒山正光寺(佐渡市羽吉)に奉納した鐘とありますが、明治元年(1868)の神仏分離令によって正光寺が廃寺となったため、末武某がこの鐘を買い取り、菩提寺の神宮寺に寄進したと伝えられています。
平成24年10月
佐渡市教育委員会
新鐘楼建立の沿革です
旧鐘楼は、明治29年10月建立され、昭和の今日まで補修の上、永き歳月百年の風雪に耐え忍び、容姿が物語る如く、老朽甚だしく、今後補修し百年保持難しく、関係者再三審議の結果、新鐘楼建立の決まる。
関係者の努力、教育委員会御支援を得て、県、国文化庁より認可を得るまで三年余の歳月で遂に実を結び、昭和49年3月認可と成る。特に文化庁より東京芸大講師(荒木保存設計事務所)荒木伸介技官派遣され、再三来島、現代建築の粋とも言われる執工技方による日本で第二番新鐘楼となり、着工に際して福田組に依頼、御支援によって総経費420万円で、昭和49年10月完工の運びと成る。特に村当局河原治一村長殿、教育委員会関係者の御支援謹み檀徒一同感謝の意を表示します。
*寄付された人達の名前が古めかしいのは、屋号なのでしょうかしょうか
栄玉殿でしょうか
庫裏の前には背の高い松の木です
まだまだ朝早いのでゆっくり次へ行きましょう