ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

新潟県佐渡市、徳和「大椋神社の大榧」(市指定)です!!

2022-07-15 18:33:44 | 巨樹・大木
 2022年6月現在、佐渡へ本州側から行くのにはいくつか方法があります

 一番使われるのが、佐渡汽船の新潟から両津航路ですね

 高速船(ジェットフォイル)と私が利用したカーフェリーが利用可能ですよね

 もう一つは、直江津から小木へのルートですがこちらは高速船だけです

 以前あった寺泊から赤泊のフェリーは廃止になってしまいました

 また、佐渡空港を利用する定期便もなくなってしまったので

 良いのか悪いのか判りませんが、離島離島感が高くなった気がします

では、

 徳和地区は赤泊の北側の広い地域です

 佐渡市役所の南南東約15kmのところ

 県道65号線沿いの「戦道騎馬武者の像」から更に南へ

 坂道を下ります、下りきった、赤泊港側の徳和信号を左へ

 海沿いをはしる、県道45佐渡一周線を東へ進みます

 約1.5km次の集落に大椋神社が西側の丘の上に鎮座します

 すぐ前の海岸線には赤泊漁港(赤泊港とは別)があります


 県道45号佐渡一周線脇の赤泊漁港から、大椋神社のある森を見ました

 向かい側のここを入って行きます

 もうすぐ参道入口です

 文化財標柱があります

 参道を進みましょう



 手水舎です

 境内真ん中に目的の大榧です

 南側から

説明版です
  市指定文化財(天然記念物)
   大椋神社(おおくらじんじゃ)の大榧  (平成16年3月1日指定)
 御神木として親しまれてきた榧の大木で、樹高約30m、根元幹周4.9m、目通り幹周4.5mに及び、樹齢600年以上と推定されています。
 榧はイチイ科に属する常緑針葉樹で、堅牢・緻密な材質から建築材や碁盤材として重宝され、その実もまた食用油や薬など日常生活で広く用いられてきました。
 徳和地域はかつて榧の生産としてよく知られ、江戸時代には樹齢数百年といわれる榧御林があったと伝えられています。明治以降の伐採や杉の植林によって御林が失われた現在、当地の榧は純粋なレリック(遺存種)として貴重です。
    平成25年3月
    佐渡市教育委員会

 西側から

 拝殿前(北側)から見ました

 鳥居です


 立派な狛犬です

 拝殿です

 少し高い所に本殿です

 拝殿前参道から

 北西側から

 南西側から

 南東側から見ました

 では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新潟県佐渡市、徳和「戦道騎馬武者の像」です!!

2022-07-15 07:29:37 | ドライブ
 昔々、戦国のころ、佐渡国は独立した国(佐渡国)で、守護の大佛氏の守護代として佐渡に入った本間氏が雑太城(さわたじょう)を本拠地として、雑太本間氏となった。
 以後本間家は島内各所に一族を置き勢力を固める。羽茂・河原田・沢根・久知・潟上・新穂の本間氏と呼ばれる郷地頭である。
 その後本間惣領家の雑太本間氏の力が弱まったことから、北の河原田と南の羽茂が台頭、内紛が激しくなっていた。
 そんな本間格家は、越後を治めていた上杉景勝に従おうとせずにいた。越後の平定が終わった上杉軍が佐渡に攻めて来ます。
 出雲崎より300艘余りの舟を仕立てて佐渡へ押し寄せた。軍奉行を務めた直江山城守兼続は戦いを避け降伏するよう各地の本間一族に通達した。その結果沢根城主本間左馬之助の協力が得られ、景勝自ら千余艘の舟を率いた佐渡へ、沢根に上陸して河原田城を攻めた。激戦が繰り広げられたが、城は落ち城主本間佐渡守高統は自刃した。
 次いで、抵抗を続ける羽茂城へ向かったて攻めた、羽茂城主本間高茂は、弟の赤泊城主高頼ら家臣とともに城を脱出し、船で逃亡を図ったが、越後で捕縛され、佐渡へ送られ国府川で処刑され、四百年に及ぶ佐渡での羽茂本間家は滅んだ。

では、
 徳和地区は、佐渡市役所の南約28kmのところ

 下羽茂から県道65号線を赤泊方面へ

 坂道を上りきると徳和地区です、 


駐車場に佐渡の地図です、左下の方山の中です


道路右手に大きな騎馬武者像があります


左の騎馬武者は、羽茂勢の本間三河守高頼です

右の騎馬武者は、越後勢の黒鉄安芸守尚信です



説明版です
  戦道騎馬武者の像
 今から四百年余り前の戦国時代末期、天正17年(1589)6月、越後守護春日山城主上杉景勝の軍が佐渡へ攻めてくるという大事件があった。
 それに先立つ数年前まで、上杉謙信は川中島で甲斐の武田信玄と戦をくり返していた。しかし急逝すると、その養子景勝と景虎の間で跡目相続の争い、つまり「御館の乱」が起きた。
 両軍の誘いに加勢せず、事のなりゆきを傍観していた佐渡は、結局勝ち残った景勝に成敗されることとなる。
 当時、河原田と羽茂は、佐渡の二大勢力だった。前者は領内に鶴子銀山を有し、後者は西三河砂金山を支配していたので裕福だった。
 沢根から上陸した上杉軍は、まず河原田城を落とし、羽茂に向かった。羽茂城主本間高貞の義弟で出城でもあった三川の腰細城主本間三河守高頼は、羽茂に援軍を送るべく出立した。しかし、これをいち早く予知した上杉勢は、黒鉄安芸守尚信の率いる一軍を川茂街道に回して、行く手を阻止した。そのためこの街道が戦場となり、後に戦道(たたかいどう)と呼ばれるようになった。
 多勢に無勢、百戦錬磨の越後勢を相手にして勝てる見込みはなかった。武士の義を尊ぶ三河守は妻子に離縁状を渡し、討ちてし止まんの決意で、槍を手挟んで鞍に跨った。
 その時、敵軍の中より進み出た一騎、刀を抜いた安芸守は、馬上より名乗りを上げた。これに応えて三河守が名乗ると、両軍は鐙を蹴って刃を合わせた。かくて合戦の火蓋は切って落とされた。時に6月15日巳の刻。空は日本晴れだったという。
 向かって右側、刀をかざしている方が黒鉄安芸守尚信。左側、槍を手挟んだ方が本間三河守高頼。
    平成8年3月  佐渡市


石田英雄顕彰碑です、佐渡郡町村会長を務め、一島一市の実現に尽力した人だそうです

では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする