ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

秋田県由利本荘市、館「石沢館のいちょう」(市指定)です!!

2022-08-04 18:25:24 | 巨樹・大木
 館石沢館地区は、由利本荘市役所の南東約8kmのところ

 国道107号線を南東へ、子吉川を新二十六木橋で越え

 日本海東北道本荘インターチェンジ入口を過ぎて

 雪車町集落を過ぎた信号機(絆の茂里トンネルの手前)を斜め右へ県道293号線です

 旧石沢小学校前を過ぎると間も無く左手にイチョウが見えます

 手前の案内板のある道路脇に車を止めさせて頂きました

 石沢警察官駐在所の向い側が

 参道です、右側は一般住居の垣根です

 赤い鳥居です、境内西側にも垣根があります

 鳥居です

 天満宮社殿です

 境内左手に目的のイチョウです

 東側から
 
 説明版です
  本荘市指定天然記念物
   石沢館のいちょう
  本荘市指定文化財第14号
  樹齢 約400年
  樹高  18m
  幹回り 5.8m
 この地は、戦国時代の有力武将で、由利十二頭の一つ、石沢氏の館跡である。
 伝承によると、石沢氏が学問の神として信仰した建立、祀ったとき、その祠の傍らに植えられたものといわれている。
 地上約3mのところから幹が二本に分れていたが、昭和34年の伊勢湾台風によって、片方の幹が失われた。
 しかしその他の傷は少なく、樹勢は良好で、市に現存するイチョウとしては最高齢のものの一つであり、その由緒を示すかのように雄大な姿で親しまれている。
 平成6年4月、市で三番目の天然記念物として文化財に指定された。
    本荘市教育委員会 


 社殿前(北東側)から

 北側から

 伊勢湾台風の傷跡のようです


 垣根の西側に廻りましたが解かりづらかったですね~

 
 では、次へ行きましょう
 
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秋田県由利本荘市、川西高野「「抱き合いの松」という名の杉」(保存樹)です!!

2022-08-04 06:49:55 | 巨樹・大木
 川西高野地区は、由利本荘市役所の南東約kmのところ

 国道108号線を由利高原鉄道鳥海山ろく線と子吉川に沿うように南へ進みます

 川西地区に入いって「本荘ファロー西滝沢工業所」の倉庫の先を右(南)へ、次の田んぼのT字路も右(西)へ

 次の交差点に「由利仲八郎政春の墓」の案内板が在りますので左へ、次の案内板で斜め左へ山裾を進むと

 正面に目的の「抱き合いの松」が見えて来ます、道路脇に車を止めさせて頂きました

 保存樹標柱です

 北東側から
 
 東側から、忠魂碑があります

 建立譜です
   明治37・8年の日露戦争、昭和11年より昭和20年の日華事変から太平洋戦争に従軍せる軍人軍属の戦病死、病傷のまま復員遂に快癒する能わず死せる   昭和20年3月10日東京大空襲により、当時軍需工場に服務中其の被爆に遭遇せる戦災者等百余柱の合祀者芳名を此の碑に刻み永く後世に伝え青史を飾らんと欲す。
 時恰も日露戦争より90周年、忠魂碑建立75周年、又太平洋戦争終結して50周年の記念すべき年に相会う、茲に遺族一同の発願に役員の熱意と努力に依り、忠魂碑合祀者芳名之碑の建立を見るに至れり。願わくは忠魂永く此の聖域に神鎮ずまりまして吾郷土由利町の繁栄に御加護賜らんことを祈念するものなり。
           百拝合掌
   平成17年7月7日
   西滝沢地区遺族会建立
   撰 村上彦右エ門

南西側から

 南側から手前に細い松を抱いているのか・・・目通り幹囲5.1mの巨木です


 すぐ先に由利仲八郎政春の墓が有ります

 説明版です
  由利仲八郎政春の墓
 13世紀末より14世紀初頭にかけて、ここ由利の地を治めていた由利仲八郎政春の墓である。
 政春は、正応4年(1291)祖父、維久の冤罪が晴れると同時に、由利5万八千石の旗頭として西目浜館に住んだ。
 しかし、応長元年(1311)、仁賀保栗山館に住む鳥海弥三郎の家臣との争論を発端として、浜館は放火され消失してしまった。
 その後、南福田の鳴沢台に館を築いたが防衛上適さず、4年後の正和4年(1315)にここ根城に居を移した。
 それから9年後、再び鳥海氏に攻められた。こも館が水に乏しい事を知った鳥海氏は、小出~南由利原~東由利原の山路を通り、根城の西方に陣をしき、西風にのせて火矢を射かけた。
 由利氏は大いに防火に努めたが、急襲されたこともありついに落城した。
 病床の身であった政春は、家老の村上帯刀に由利家の守護を預け、二子(丁刃丸と吉雄丸)の育成と由利家の再興を託し、自害して戦場の露と消えた。正中元年(1324)3月24日、政春65歳の時であった。
 この墓碑は、土中に埋もれていたものを掘り出し、萱ぶき堂の中に八幡祠として祭られてあったが、昭和14年(1939)当時の西滝沢村により整備され、現在に至っている。
 この地一帯は、平成5年6月に町指定の史跡に指定されている。
    平成10年3月
    由利町教育委員会

 史跡 小島夕雨句碑です

 ツバキです


 五か条の御誓文所以の地の標柱です

   文面
 御宣誓文宣布(慶応4年・明治元年1868年3月14日)百四十周年(2008)
 由利公正没(明治42年・1909年4月28日・80歳)百年
 由利公正 孫・正通来郷(昭和14年・1939年5月3日)七十年
 1,会議を興し万機公論にに決すべし、1、上下心を一にして、盛んに経綸行ふべし、1,官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしぬん事を要す。

 由利政通子爵手植えの松は枯れてしまったようです


 堤の記念碑です

 説明版です
   「平野脇堰」
 数百年の昔から新屋敷、森子の姉妹長堤が百数十ヘクタール以上の灌漑用水として維持されていました。しかい、幾多の水害にみまわれ関係者が辛い思いをしてきました。
 昭和20年の冬には稀にみる雪と凍結、二月には緩いだが豪雨が止まず洪水となり、この姉妹長堤が崩壊しました。
 関係者は復旧にあたり、新たに堰堤をつくりましたが、度々の水害により流失し悲運を繰り返しました。
 昭和23年に恒久施設にするほかになく、現由利本荘市滝沢堰土地改良区との話し合いを経て滝沢堰より分水することとし、8月より工事に着手。翌24年5月に平之脇堰が竣工しました。
    田園整備事業により設置
    平成14年3月

 流れる水路に水を送っているようです

 では、次へ行きましょう

コメント
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