本堂城回館間地区は、美郷町役場の北北西約2kmのところ
県道11号角館六郷線を北へ、二つ目の信号を左(北西)へ進みます
集落の中に星山清水を左にみて西へ進み、次の道尻集落への道路を右(北)へ入ります
本堂城西門址です、城跡内は一面の草原です
説明版が在ります
県指定史跡 本堂城跡
本堂城は、戦国・織豊期に現在の大仙市の一部と美郷町北部一帯を治めた本堂氏の居館です。
本堂氏hあ、陸奥国和賀郡(岩手県)を支配していた和賀氏の一族と考えられ、観応年間(1350~1352)にこの地方に進出し、和賀家から独立して本堂の姓を名乗るようになったといわれています。
本堂氏は、天文4年(1535)に山城の元本堂城(美郷町浪花)から、平城の本堂城に移り、慶長7年(1602)常陸国新治郡志筑(茨城県かすみがうら市)に国替となるまで本拠としました。
本堂城は内館を囲む内堀と土塁、外館を囲む外堀などから構成され、内館の北東部分には高さ約4mの土塁の一部が残っています。
これまでの発掘調査により、内館の規模は、内堀の部分も含めると、東西約170m、南北約190m。
中心部からは主殿と考えられる建物跡がみつかっています。また、東から南側の水田下から、外堀に一部が確認され、当時の城域の一端が明らかになっています。
中世平城跡としては、東北地方でも数少ない保存状態の良い城館跡として評価されています。
美郷町教育委員会
南側です、段差は堀跡の様です
北側です
北東側の土塁の一部に目的のケヤキが見えます
城跡内は草丈の高い草に覆われて小雨も降っているので、南側から東へ廻ってみました
南側には正門址の標柱です
農道を入ってきました、東門址です、ここから意を決してケヤキを見に行きました
南南東側から、草の露で靴からズボンの裾はビショビショです
南側から
近づいてみましょう
南側から
祠です
西側には木々の間に石碑があるようですが、行けませんでした
南側から見上げました、目通り幹囲9.3mの巨木です
根元には「鍾馗様」(秋田県緑化委員会の緑化情報誌「もりのかぜ」Vol9に載っています)
県南部周辺地域では、同じような藁人形を「鹿島様」というところが多いようです
鹿島様とは(日本伝承大鑑HPよりの抜粋です)
道祖神の一種で、秋田県中南部の一帯を中心に見ることが出来る。非常に特殊な“人形道祖神”ということになる。道祖神とみなされるのは、集落の境に置かれ、疫病などの災厄が集落に入ってこないように設けられているためである。
大きさは3~4mで、大人の背丈の倍ぐらい。恐ろしげな木の面を付けており、藁で出来た胴体部分は鎧をまとったように見え、さらに大小2本の刀を帯びている。まさに武神のようである。道祖神の特徴である“男根”が付いている。
この特異な道祖神の謎を深めるのは、この神の名である「鹿島」という名称の由来である。武神のような姿から、この名は鹿島神宮の祭神である武甕槌神であるという説がかなり有力である。この推察からさらに、鹿島様の名前は江戸初期に常陸国から移封されてきた秋田藩・佐竹氏に関係があるという説がある(鹿島神宮は常陸国一之宮)。あるいは、同じ武甕槌神を祭神とする古四王神社との関連性も考えられる。
だがいずれも推測の域を出ず、どういう経緯で鹿島様が秋田の特定の地域で信仰の対象となったのかは、謎のままである。そして藁を使って集落の者が総出で毎年造り直して受け継がれてきた鹿島様は、人口減少のあおりを受けて徐々にその姿を消していっている。
靴とズボンを履き替えて、移動します
北東側から見ました
では、次へ行きましょう
県道11号角館六郷線を北へ、二つ目の信号を左(北西)へ進みます
集落の中に星山清水を左にみて西へ進み、次の道尻集落への道路を右(北)へ入ります
本堂城西門址です、城跡内は一面の草原です
説明版が在ります
県指定史跡 本堂城跡
本堂城は、戦国・織豊期に現在の大仙市の一部と美郷町北部一帯を治めた本堂氏の居館です。
本堂氏hあ、陸奥国和賀郡(岩手県)を支配していた和賀氏の一族と考えられ、観応年間(1350~1352)にこの地方に進出し、和賀家から独立して本堂の姓を名乗るようになったといわれています。
本堂氏は、天文4年(1535)に山城の元本堂城(美郷町浪花)から、平城の本堂城に移り、慶長7年(1602)常陸国新治郡志筑(茨城県かすみがうら市)に国替となるまで本拠としました。
本堂城は内館を囲む内堀と土塁、外館を囲む外堀などから構成され、内館の北東部分には高さ約4mの土塁の一部が残っています。
これまでの発掘調査により、内館の規模は、内堀の部分も含めると、東西約170m、南北約190m。
中心部からは主殿と考えられる建物跡がみつかっています。また、東から南側の水田下から、外堀に一部が確認され、当時の城域の一端が明らかになっています。
中世平城跡としては、東北地方でも数少ない保存状態の良い城館跡として評価されています。
美郷町教育委員会
南側です、段差は堀跡の様です
北側です
北東側の土塁の一部に目的のケヤキが見えます
城跡内は草丈の高い草に覆われて小雨も降っているので、南側から東へ廻ってみました
南側には正門址の標柱です
農道を入ってきました、東門址です、ここから意を決してケヤキを見に行きました
南南東側から、草の露で靴からズボンの裾はビショビショです
南側から
近づいてみましょう
南側から
祠です
西側には木々の間に石碑があるようですが、行けませんでした
南側から見上げました、目通り幹囲9.3mの巨木です
根元には「鍾馗様」(秋田県緑化委員会の緑化情報誌「もりのかぜ」Vol9に載っています)
県南部周辺地域では、同じような藁人形を「鹿島様」というところが多いようです
鹿島様とは(日本伝承大鑑HPよりの抜粋です)
道祖神の一種で、秋田県中南部の一帯を中心に見ることが出来る。非常に特殊な“人形道祖神”ということになる。道祖神とみなされるのは、集落の境に置かれ、疫病などの災厄が集落に入ってこないように設けられているためである。
大きさは3~4mで、大人の背丈の倍ぐらい。恐ろしげな木の面を付けており、藁で出来た胴体部分は鎧をまとったように見え、さらに大小2本の刀を帯びている。まさに武神のようである。道祖神の特徴である“男根”が付いている。
この特異な道祖神の謎を深めるのは、この神の名である「鹿島」という名称の由来である。武神のような姿から、この名は鹿島神宮の祭神である武甕槌神であるという説がかなり有力である。この推察からさらに、鹿島様の名前は江戸初期に常陸国から移封されてきた秋田藩・佐竹氏に関係があるという説がある(鹿島神宮は常陸国一之宮)。あるいは、同じ武甕槌神を祭神とする古四王神社との関連性も考えられる。
だがいずれも推測の域を出ず、どういう経緯で鹿島様が秋田の特定の地域で信仰の対象となったのかは、謎のままである。そして藁を使って集落の者が総出で毎年造り直して受け継がれてきた鹿島様は、人口減少のあおりを受けて徐々にその姿を消していっている。
靴とズボンを履き替えて、移動します
北東側から見ました
では、次へ行きましょう