十文字町梨木堂ノ後地区は、横手市役所の南南西約10kmのところ(十文字地域局の北東約1km)
国道13号横手湯沢道路を南へ、十文字インターチェンジを下ります
十文字IC入口信号を直進して突き当りを左へ、すぐ右手に愛宕神社が西向きに鎮座します
南側の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道入口のモミの大木です
村社 愛宕神社です
参道の鳥居です
狛犬です
参道左手に目的のケヤキです
南側から、根張りの大きなケヤキです
南東側から、目通り幹囲5.0mの巨木です
西側から
北東側から
拝殿です
本殿です
説明版です
村社 愛宕神社
鎮座地 横手市十文字町梨木字堂ノ後28番地(旧 羽州街道沿い)
祭神 加具土命 火を司る神
創立 創立の来歴は不詳であるが古文書によると、当該鎮座地は戦国時代小野寺氏始政の頃、虚空蔵の社として堂宇が建立され、当村集落草創期からは愛宕の社として参詣の対象となり、愛宕大権現・愛宕大神が祭祀され現在に至っている。
安永年間の記録には梨子木愛宕山とあり、また釈迦如来、普賢、文殊、観世音、勢至の諸菩薩など、佛教に関わる名称が散見され、神佛習合の変遷の跡がみられる。
古い本殿の祭壇は須弥壇式となっていたが、御堂再建時に末社稲荷神社に移転・建立されたと云われ、現在もその形をとどめている。
本社は古来より火除けの神として崇拝されているが、虫歯除けにも霊験灼として、近郷近在からの来詣者が多かった。また、例祭日には番楽奉納があった。
市指定無形民俗文化財「水かぶり」の神事は宝暦年間から継承されていると伝えられる冬の奇祭である。
水かぶりの説明です
横手市指定文化財
梨木水かぶり
宝暦元年(1751)、村人が悪疫退散の祈願をこめ、寒中水垢離をとって、丑の刻に愛宕神社に参拝したのが始まりとされる。
愛宕神社にこもっていた若者たちが夜明けを待って、神官・恵比寿俵に続き、下帯一つの裸体に足袋・わらじを履き、集落を練り歩く。途中、家々が道端に出しておいた手桶の水を頭からかぶる。
神社に戻った後は履いていたわらじを家内安全を祈って境内の槻の木に投げ、わらじを枝に引っ掛ける。
令和4年3月 横手市教育委員会
境内西側には石塔が並びます
境内社です
庚申塔です
拝殿前から見ました
境内入口のモミの木を見ました
では、次へ行きましょう
国道13号横手湯沢道路を南へ、十文字インターチェンジを下ります
十文字IC入口信号を直進して突き当りを左へ、すぐ右手に愛宕神社が西向きに鎮座します
南側の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道入口のモミの大木です
村社 愛宕神社です
参道の鳥居です
狛犬です
参道左手に目的のケヤキです
南側から、根張りの大きなケヤキです
南東側から、目通り幹囲5.0mの巨木です
西側から
北東側から
拝殿です
本殿です
説明版です
村社 愛宕神社
鎮座地 横手市十文字町梨木字堂ノ後28番地(旧 羽州街道沿い)
祭神 加具土命 火を司る神
創立 創立の来歴は不詳であるが古文書によると、当該鎮座地は戦国時代小野寺氏始政の頃、虚空蔵の社として堂宇が建立され、当村集落草創期からは愛宕の社として参詣の対象となり、愛宕大権現・愛宕大神が祭祀され現在に至っている。
安永年間の記録には梨子木愛宕山とあり、また釈迦如来、普賢、文殊、観世音、勢至の諸菩薩など、佛教に関わる名称が散見され、神佛習合の変遷の跡がみられる。
古い本殿の祭壇は須弥壇式となっていたが、御堂再建時に末社稲荷神社に移転・建立されたと云われ、現在もその形をとどめている。
本社は古来より火除けの神として崇拝されているが、虫歯除けにも霊験灼として、近郷近在からの来詣者が多かった。また、例祭日には番楽奉納があった。
市指定無形民俗文化財「水かぶり」の神事は宝暦年間から継承されていると伝えられる冬の奇祭である。
水かぶりの説明です
横手市指定文化財
梨木水かぶり
宝暦元年(1751)、村人が悪疫退散の祈願をこめ、寒中水垢離をとって、丑の刻に愛宕神社に参拝したのが始まりとされる。
愛宕神社にこもっていた若者たちが夜明けを待って、神官・恵比寿俵に続き、下帯一つの裸体に足袋・わらじを履き、集落を練り歩く。途中、家々が道端に出しておいた手桶の水を頭からかぶる。
神社に戻った後は履いていたわらじを家内安全を祈って境内の槻の木に投げ、わらじを枝に引っ掛ける。
令和4年3月 横手市教育委員会
境内西側には石塔が並びます
境内社です
庚申塔です
拝殿前から見ました
境内入口のモミの木を見ました
では、次へ行きましょう