国道13号横手湯沢道路を南へ、十文字インターチェンジを下ります
十文字IC入口信号を右(南西)へ国道13号線です、佐賀会沖田信号を左(南東)へ国道342号線です
JR奥羽本線を陸橋を越えて道成りに進むと土肥館信号の北側に増田地域局(かつての町役場)です
北側に横手市立増田小学校が有ります、校舎はかつての土肥館の跡に建っているようです
校舎裏側(北側)に土塁の一部が残ります、土塁の上に目的の「二本杉」が在ります
駐車場を利用させていただいた増田地域局前の観光版です、二本杉の位置を確認して歩いていきましょう
(小学校の校庭を左回りに進みましたが、地域局の西側から回った方が近かったようです)
北側の道路、北東側から
説明版です
秋田県有形文化財(考古資料)
貞治碑 昭和37年2月5日指定
大正13年(1924)、増田小学校新設の際、南の土塁より発掘したもので、貞治2年(1363)6月9日、景高という人が正寿禅尼の三十五日忌に当り、後世菩提を祈るために建てたものといわれる。
石質は青御影石の自然石で、高さ175cm、幅56cm、暑さ31cm。
碑の上部に「胎蔵界大日」の種子梵字を大きく刻んでいる。
天然記念物
二本杉 昭和55年2月5日指定
増田小学校舎北西側の城柵の一部と考えられる土塁上にある。
貞治2年(1363)、小笠原義冬が築城の際、城の堅固と武運長久を祈り愛姫と生牛を人柱の犠牲にしたといわれている。
その霊をとむらうために二本の杉の木を植えたのが今日の「二本杉」と伝えられている。樹齢630年以上。横には県指定貞治碑がある。
平成17年3月 増田町
北東側から、二本杉の名前となった一本はすでに枯れてしまっているようです
北側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
北北西側から、土肥城址の標柱が建っていますが字が薄れてしまっています
北西側から、祠の中に貞治碑はあるようです
では、次へ行きましょう
十文字IC入口信号を右(南西)へ国道13号線です、佐賀会沖田信号を左(南東)へ国道342号線です
JR奥羽本線を陸橋を越えて道成りに進むと土肥館信号の北側に増田地域局(かつての町役場)です
北側に横手市立増田小学校が有ります、校舎はかつての土肥館の跡に建っているようです
校舎裏側(北側)に土塁の一部が残ります、土塁の上に目的の「二本杉」が在ります
駐車場を利用させていただいた増田地域局前の観光版です、二本杉の位置を確認して歩いていきましょう
(小学校の校庭を左回りに進みましたが、地域局の西側から回った方が近かったようです)
北側の道路、北東側から
説明版です
秋田県有形文化財(考古資料)
貞治碑 昭和37年2月5日指定
大正13年(1924)、増田小学校新設の際、南の土塁より発掘したもので、貞治2年(1363)6月9日、景高という人が正寿禅尼の三十五日忌に当り、後世菩提を祈るために建てたものといわれる。
石質は青御影石の自然石で、高さ175cm、幅56cm、暑さ31cm。
碑の上部に「胎蔵界大日」の種子梵字を大きく刻んでいる。
天然記念物
二本杉 昭和55年2月5日指定
増田小学校舎北西側の城柵の一部と考えられる土塁上にある。
貞治2年(1363)、小笠原義冬が築城の際、城の堅固と武運長久を祈り愛姫と生牛を人柱の犠牲にしたといわれている。
その霊をとむらうために二本の杉の木を植えたのが今日の「二本杉」と伝えられている。樹齢630年以上。横には県指定貞治碑がある。
平成17年3月 増田町
北東側から、二本杉の名前となった一本はすでに枯れてしまっているようです
北側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
北北西側から、土肥城址の標柱が建っていますが字が薄れてしまっています
北西側から、祠の中に貞治碑はあるようです
では、次へ行きましょう