大曲西根新堀地区は、大仙市役所の南西約2kmのところ
県道36号大曲大森羽後線を西へ、雄物川を大曲花火大橋で渡ります
一つ目の信号を左(南)へ、道成りに進むと新堀地区に入り左手に八幡宮の樹叢が見えて来ます
西側から南側へ回り込む様に進むと道路が細くなった先に参道入口の赤い鳥居が見えます
手前の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道入口鳥居です
社號標には、八幡神社となっています
鳥居東側に目的のタモノキですが幹は2mほどで伐られています
南東側から、幹を伐られててしまっていますが、枝が出て生きています
西側から(Googleのストリートマップでは伐られる前2012年10月の姿が見られます)
北側はすっかり洞になってしまっています、これが伐られる原因んになったのでしょうか
説明版です
幕串の「たもの木」
伝承によれば、この神社は源義家が阿部貞任との戦に陣を張った跡で、「たもの木」八本を伐って「幕串」にしたが、それが根づいて生い茂った。
うち七本は枯れ朽ち、今は一本の巨木が昔の面影を留めている。
もう1枚説明版です
新堀八幡宮
菅江真澄
澄江真澄
江戸時代の宝暦4年(1754)、三河国(愛知県東南部)に生まれました。
30歳ころ故郷の三河を離れて信濃(長野県)に旅立ち、越後(新潟県)から秋田、青森、北海道などをめぐりました。
48歳の時再び秋田に入り、県内のほとんどの市町村に足跡をしりしています。
200冊以上の著作のうち89冊が国の重要文化財に指定されています。
月の出羽路
菅江真澄は、文化10年(1813)ころから秋田六郡の地誌編纂に取り組みました。
「雪の出羽路 平鹿郡」を完成したのち「月の出羽路 仙北郡」の調査にとりかかりましたが、第25巻の草稿をまとめたところで、文政12年(1829)、76歳で亡くなりました。
「月の出羽路 仙北郡」には、現在の大仙市大曲地域が彩色の図絵入りで記録され、郷土の歴史を知る貴重な文化遺産となっています。
「新堀八幡宮」(「月の出羽 仙北郡」七)
〇大曲西根の郷六所八幡宮の神地にちぢれたも木てふ古木二本と生いたてり。そは枝村の新堀てふ地にませり。
そのみやどころはいにしへ源義家将軍の陣所の旧地にて、八本の多毛木を幕杙を作りてうち給ふが、大木となりて甲乙二本ぞ残りける。六本は朽かれ、あるいは風折れにて今はしかり。
甲此木の高さ廿八九尋卅尋に至るべし。乙此木廿余尋に及ぶべし。多毛に縮多毛(チヂレダモ)、青多毛、の品あり。青多毛は奏皮(トネリコ)のたぐひ也。多毛は多布(タブ)を訛りいふにや。倭訓栞に、材ににたふといふは櫲樟(クス・ヨショウ)の品也といへり。また同書に、たも樹というは月桂也といへり。或たをにごりてよび。又たまともいふ云々と見えたり。此処にいへるものは大にことにして、しそじのさましてことなる木也・
菅江真澄が描いた新堀八幡宮の「たもの木」(秋田県立博物館蔵写本)
「平成22年3月 大曲農都協議会 贈」
庚申塔などが並びます
狛犬です
境内社です
水盤です
拝殿です
本殿です
説明版です
八幡神社
創建 不詳
祭神 息長帯媛命 稲倉魂神 大山祇神 興田別天皇命 玉依媛命
由緒 延宝年中(西暦1674年頃)書付其他
申傳に者鎮守府将軍源義家朝臣 奥羽御鎮撫之節御崇敬弓矢壷筋奉納之由 今は焼亡致し木にて拵へ納置けり
(以上 明治39年神社明細帳より)
例祭 8月15日
秋祭り 11月23日
獅子巡行 8月1日~4日間
菅江真澄 「月の出羽路」より
◎多母の木いついて
この八幡神社は源義家将軍の陣営があった跡で、多母木8本伐って幕串にしたものであるが。それが根付き根を張り生い茂げったものである。
6本は枯れて2本は残っている。人丈けのところを計ってみれば3尋3尺(みひろみかさ)の大木である。今一本はいささか劣る。
(現在は一本より残っていない)
神社の創建について
「このやしろは源義家朝臣のの草創であり、鶴岡八幡神を遷し給うふといへり」と書いてある。
左輿・右輿について
むかし神幸の時は左輿の家の主人は輿の左に、右輿の家の主人は右に輿の先導をしたもので、左輿の家は道地邑の佐々木太右エ門で、8月14日宵祭に四つ編の菻(がつぎ)の荒菰一枚に桃の実一枝献るならわしがある。(今は菰に一臼の餅を供えている)
(2019年5月までは、元気な姿がネットで確認できました、小さな枝が大きく成長して大木になってほしいものです)
では、今日はここまでにして、大仙市太田町中里新屋敷の中里温泉で汗を流して、コインランドリーで洗濯を済ませ、道の駅美郷で、車中泊としました
県道36号大曲大森羽後線を西へ、雄物川を大曲花火大橋で渡ります
一つ目の信号を左(南)へ、道成りに進むと新堀地区に入り左手に八幡宮の樹叢が見えて来ます
西側から南側へ回り込む様に進むと道路が細くなった先に参道入口の赤い鳥居が見えます
手前の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道入口鳥居です
社號標には、八幡神社となっています
鳥居東側に目的のタモノキですが幹は2mほどで伐られています
南東側から、幹を伐られててしまっていますが、枝が出て生きています
西側から(Googleのストリートマップでは伐られる前2012年10月の姿が見られます)
北側はすっかり洞になってしまっています、これが伐られる原因んになったのでしょうか
説明版です
幕串の「たもの木」
伝承によれば、この神社は源義家が阿部貞任との戦に陣を張った跡で、「たもの木」八本を伐って「幕串」にしたが、それが根づいて生い茂った。
うち七本は枯れ朽ち、今は一本の巨木が昔の面影を留めている。
もう1枚説明版です
新堀八幡宮
菅江真澄
澄江真澄
江戸時代の宝暦4年(1754)、三河国(愛知県東南部)に生まれました。
30歳ころ故郷の三河を離れて信濃(長野県)に旅立ち、越後(新潟県)から秋田、青森、北海道などをめぐりました。
48歳の時再び秋田に入り、県内のほとんどの市町村に足跡をしりしています。
200冊以上の著作のうち89冊が国の重要文化財に指定されています。
月の出羽路
菅江真澄は、文化10年(1813)ころから秋田六郡の地誌編纂に取り組みました。
「雪の出羽路 平鹿郡」を完成したのち「月の出羽路 仙北郡」の調査にとりかかりましたが、第25巻の草稿をまとめたところで、文政12年(1829)、76歳で亡くなりました。
「月の出羽路 仙北郡」には、現在の大仙市大曲地域が彩色の図絵入りで記録され、郷土の歴史を知る貴重な文化遺産となっています。
「新堀八幡宮」(「月の出羽 仙北郡」七)
〇大曲西根の郷六所八幡宮の神地にちぢれたも木てふ古木二本と生いたてり。そは枝村の新堀てふ地にませり。
そのみやどころはいにしへ源義家将軍の陣所の旧地にて、八本の多毛木を幕杙を作りてうち給ふが、大木となりて甲乙二本ぞ残りける。六本は朽かれ、あるいは風折れにて今はしかり。
甲此木の高さ廿八九尋卅尋に至るべし。乙此木廿余尋に及ぶべし。多毛に縮多毛(チヂレダモ)、青多毛、の品あり。青多毛は奏皮(トネリコ)のたぐひ也。多毛は多布(タブ)を訛りいふにや。倭訓栞に、材ににたふといふは櫲樟(クス・ヨショウ)の品也といへり。また同書に、たも樹というは月桂也といへり。或たをにごりてよび。又たまともいふ云々と見えたり。此処にいへるものは大にことにして、しそじのさましてことなる木也・
菅江真澄が描いた新堀八幡宮の「たもの木」(秋田県立博物館蔵写本)
「平成22年3月 大曲農都協議会 贈」
庚申塔などが並びます
狛犬です
境内社です
水盤です
拝殿です
本殿です
説明版です
八幡神社
創建 不詳
祭神 息長帯媛命 稲倉魂神 大山祇神 興田別天皇命 玉依媛命
由緒 延宝年中(西暦1674年頃)書付其他
申傳に者鎮守府将軍源義家朝臣 奥羽御鎮撫之節御崇敬弓矢壷筋奉納之由 今は焼亡致し木にて拵へ納置けり
(以上 明治39年神社明細帳より)
例祭 8月15日
秋祭り 11月23日
獅子巡行 8月1日~4日間
菅江真澄 「月の出羽路」より
◎多母の木いついて
この八幡神社は源義家将軍の陣営があった跡で、多母木8本伐って幕串にしたものであるが。それが根付き根を張り生い茂げったものである。
6本は枯れて2本は残っている。人丈けのところを計ってみれば3尋3尺(みひろみかさ)の大木である。今一本はいささか劣る。
(現在は一本より残っていない)
神社の創建について
「このやしろは源義家朝臣のの草創であり、鶴岡八幡神を遷し給うふといへり」と書いてある。
左輿・右輿について
むかし神幸の時は左輿の家の主人は輿の左に、右輿の家の主人は右に輿の先導をしたもので、左輿の家は道地邑の佐々木太右エ門で、8月14日宵祭に四つ編の菻(がつぎ)の荒菰一枚に桃の実一枝献るならわしがある。(今は菰に一臼の餅を供えている)
(2019年5月までは、元気な姿がネットで確認できました、小さな枝が大きく成長して大木になってほしいものです)
では、今日はここまでにして、大仙市太田町中里新屋敷の中里温泉で汗を流して、コインランドリーで洗濯を済ませ、道の駅美郷で、車中泊としました