五輪峠は、奥州市役所の北東約32km、遠野市役所の西南西18kmのところです
奥州市側の県道27号線の「米里大谷地バス停」(標高約345m)から県道174号小友米里線を東へ進みます
道成りに約5.2km坂道を上がってきました

遠野市の標識です

反対側(東側)からは奥州市の標識です

北側には「花巻市営東和五輪牧野」です

文化12年銘の石碑です

北側に大きな五輪塔がありますが、五輪峠の名前の元となった五輪塔は小さなものだったようです

五輪峠(標高約556m)の竣工記念碑です

五輪牧野記念碑です、記されているのは・・・

そばの案内文です
五輪牧野記念碑
五輪峠と名づけしは 地輪水輪また火風
(巖のむらと雪の松) 峠五つの故ならず
ひかりうづまく黒の雲 ほそぼそめぐる風のみち
苔蒸す塔のかなたにて 大野青々みぞれしぬ
宮沢賢治

説明版です
宮沢賢治詩碑「五輪峠」案内
五輪峠は、遠野市小友、奥州市人首、花巻市田瀬を結ぶ県道の接点で、峠の標高は556m。かつては、遠野街道、人首街道の要所であった。
隣接する種山高原は、南方5kmの地点にあり、盛岡高等農林学校3年時、江刺郡地質調査で初めて踏査して以来、多くの作品に登場する賢治ゆかりの高原である。
詩碑「五輪峠」「文語詩五十扁」は、東和町五輪牧野解法10周年記念として、五輪牧野記念碑建立委員会によって、郷土の書家である菅原一峯氏の揮毫を刻し、五輪塔と並んで昭和55年8月に建立し、11月5日に除幕された。
なお、平成17年3月と平成18年8月に、文部科学省によって「イーハトーブの風景地」として、五輪峠を含め7カ所が国の名称に指定されている。
花巻市

賢治と五輪峠の説明版です
五輪峠には、様々な歴史が潜んでいます。慶長年間には遠野郷の阿曽沼氏と南部氏の戦いが行われ。多くの血が流されたといいます。
また、藩政時代には「人反し」(他藩に逃亡した罪人が交換されること)の場所として利用されたり、この峠にまつわる逸話は、暗く悲劇性の濃い話ばかりです。
賢治の詩「五輪峠」から想像される風景や道筋は、現在もところどころ残っており追体験できますが、彼はその日、花釜線の鱒沢駅方面から鮎貝~切伏~五輪峠の行程を、おそらく知人と共にか、またはその彼の案内で、五輪峠から上大内沢を経て、人首町方面へ歩いて行ったことが考えられます。(五輪峠の北東側から南西側へ歩いた)
詩中に「向こうは岩と松との高み / その左にはがらんと暗いみぞれのそらがひらいている」とありますが、これは峠の頂上付近の情景で、現在も同じように大きな空間が広がっています。
今も、茂みの少ない春先になると、そのはるか向こうに水沢や北上平野が眺望できます。
昭和32年の道路開通工事で、すっかり頂上付近の様子は変わりましたが、現在のどっしりとした五輪塔の位置は、本来は反対の人首側にあり、子供でも動かせるような大きさだったと言います。
おそらく、それが賢治の目に映った「そんぼりと立つ」五輪塔ではなかったかと思います。
その由来については約350年前、人首の五輪街道筋の上大内沢にいた千葉日向という侍が、父の菩提を弔うために建立したものと伝えられています。
賢治街道を歩く会

賢治の歩いた峠道の説明版です
五輪峠は、宮沢賢治の歩いた江刺郡の旧街道(黒石・気仙・盛)の中で、最も当時の景観を残している道筋です。
特に、この五輪峠から北新田までの峠道は、その後の道路開発からも逃れ、ほとんど昔のままの状態が残っています。
今では地元住民にも忘れ去られてしまおうとしていますが、明治元年には本州で一番最初にロシア正教を人首番所で説いたという沢辺琢磨(坂本龍馬の従兄弟)や、同39年には高名な俳人の河東碧梧桐、またその後の大正6年9月の江刺郡の地質調査時です。
同行した友人の高橋、賢治が「五輪峠では、蛇紋岩脈にハンマーを打ち入れ転び散る岩片を拾い乍ら、ホ―、ホー20万年もの間陽の目を見ずに居たので、みな驚いていると叫んでいた。」と述べていますが、現在も峠道の処所で、それと同じように露出した蛇紋岩体に出会うことができます。
賢治が二度目に五輪峠を訪れたのは、大正13年3月です。その時は、現在の釜石線の鱒沢駅で下車し、鮎貝~切伏~五輪峠を経て、人首町へ向かったことが推定されます。
特に、五輪峠から人首町への行程は、第二詩集の「春と修羅」に収められた「五輪峠」「丘陵地を過ぎる」「人首町」等の連作から想像できます。
現在もその道筋を辿ると、それらの詩に、描かれた情景がつぶさに浮かんできて、、数少ない追体験のできる貴重な空間ともなっているのです。
賢治街道を歩く会

遠野市側(東)へ下って行きます
2024・10・19・12・40