ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

岩手県釜石市、平田須佐「佐須峠のスギ(佐須峠の御境杉)二本」(市指定)です!!

2024-11-10 18:02:46 | 巨樹・大木
 平田須佐地区は、釜石市役所の南東約6kmのところですが、北側に釜石湾と南側に唐丹湾を望む半島の中央部です

 半島北側の尾崎白浜と南側の須佐地区は、現在はトンネルで繋がれてしまっているので、県道249号線を通る車をは少なくなっています

 釜石市役所東側の国道45号線を南へ進みます、約1.1kmで左(東南東)へまだまだ国道45号線です

 道成りに3.3kmで「⇐尾崎白浜・県道249号線」の標識に従って「平田駅入口」信号を左(東)へ

 ここからは山の中に入って道成りに約3.3km「⇑本郷・県道249号線」の標識に従って斜め右(南)へ、車が通らなくなります

 道成りに落ち葉の敷き詰められた路面を約3.2kmで道路左側に

 「釜石市指定天然記念物 峠のスギ ここから100m」の案内板です

 案内板の前に車を止めさせて頂きました

 ここを入って行きます

 左にカーブして行くと

 白い標柱が見えて来ます

 左手に目的のスギです

 南側から

 根元に天然記念物標柱です

 東側にももう一本のスギです

 東側にも天然記念物標柱です

 説明版です
   峠のスギ
 スギは、日本固有の植物であり、本州から九州までの山地に自生する常緑高木です。
 これら二本のスギは、佐須峠に対をなす巨木として、平成16年1月27日に釜石市の天然記念物に指定されました。
 佐須浜・尾崎白浜は、江戸時代の南部藩と伊達藩の藩境に近く、地元では藩境を表す「御境スギ」として言い伝いられています。
 また樹齢についても、400年以上と語り継がれています。
 藩境であったことや樹齢についての資料は残っていませんが、貴重な樹木として大切に守られています。
      平成16年3月     釜石市教育委員会
 *平成29年(2017)5月8日正午頃、この付近(平田地区)の山林で起きた山火事で延焼した影響は無かったようです

 西側のスギは、二本が合体した合体木です

 東側から、目通り幹囲8.8mの巨木です

 北東側から

 北側から見上げました

 東側のスギは単木です

 西側から

 北西側から、目通り幹囲約5m(目測)の巨木です

 北側から見ました

 峠から南側の佐須漁港側です

 峠を林道が横切っています

 北側の尾崎白浜漁港側です 

 では、次へ行きましょう



 2024・10・17・07・40
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岩手県大船渡市、三陸町越喜来小泊「平田舘跡の株椿」(市指定)です!!

2024-11-10 13:02:03 | 文化財・樹木
 三陸町越喜来小泊地区は、大船渡市役所の東約8km、大船渡市役所三陸支所の南約2kmのところ

 大船渡市役所三陸支所西側の県道9号大船渡綾里三陸線を南へ

 約矢蓺1.3kmで防潮堤と三陸鉄道リアス線の高架の間を左(南)へ

 約500mで左(東)へ入ると間も無く左手に

 目的の「株椿」です

 南側から

 「大船渡市指定天然記念物 株椿」の標柱です

 南東側から、樹高約8m、株元より9本の幹に分かれ、株全体としては周囲約4m、枝張りは東西約10m、南北約9mで推定樹齢250年のヤブツバキです 

 ツバキの根元を見ました

 東側から、所有者の墓地がありますのでこれ以上近付けませんでした

*この場所は、戦国時代には葛西氏の家臣只野民部の居館平田舘(三陸大王杉・八幡神社のある本丸城の支城)の跡といわれています。
 三方を海岸にの断崖に囲われた東西約50m、南北約100mの主郭をもった天然の要害となっています。

 では、次へ行きましょう




 2024・10・17・06・55
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岩手県大船渡市、三陸町越喜来杉下「八幡神社境内の三陸大王杉」(市指定)です!!

2024-11-10 06:33:14 | 巨樹・大木
 三陸町越喜来杉下地区は、大船渡市役所の東北東約5km、大船渡市役所三陸支所の南南東約500mのところ

 大船渡市役所三陸支所西側の県道9号大船渡綾里三陸線を南へ

 約250mで「⇐崎浜県道209号線」の標識に従って左(東)へ

 緩く右にカーブしていくと道路右したにポプラの木が見えて来ます

 左手に三陸大王杉のある八幡神社参道入口です

 参道西側に駐車スペースがあります

 三陸大王杉のモニュメントです

 昭和8年の三陸大津波の記念碑です、文面には・・・
  1、大地震の後には津浪が来る
  1、地震があったら高い所へ集まれ
  1、津浪に追われたら何処でも此処位の高い処へ上れ
  1、遠くへ逃げては津浪に追付かる近くの高い所を用意して置け
  1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな  

 裏面には、供養者名28柱の下側の文面です・・・
 昭和8年3月3日午前3時半、大津浪が襲来して甚大な被害を与え、遂には二十八柱の御魂を海底に沈めた。
 村当局は明治29年の津浪と度重なる罹災に鑑み、津浪に関する教訓を後世に伝えるべく碑の建立を計画したが、事情によりその実現をみないまま今日に至った。
 現今、防災に関する施策の著しいものがあるとはいえ、不測の大災について常に備えのあるべきことを念願すると共に、受難者二十八柱の御名を刻して五十回忌の法要を営み、地区民一同茲に供養碑を建立する次第である。
      昭和57年3月3日   施主 供養碑建立実行委員会
                  協賛 越喜来漁業協同組合
                     浦浜・泊部分林組合・地区民一同
                        及川忠之丞 書、施工 及川耕民
 *地震から50年後に建てられるまでに、昭和35年(1960)5月24日にはチリ地震による津波が日本に襲来しています。
 6.1mの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、日本の各地に被害をもたらしました。
 岩手県大船渡市では53名、宮城県本吉郡志津川町(現南三陸町)では41名、北海道厚岸郡浜中町霧多布地区で11名が青森県八戸市でも2名が死亡しています。

 参道石段を上がります

 石段中段にイチョウの若木です

 東日本大震災復興・平泉世界文化遺産登録記念 黄金の郷づくり(イチョウ)の標柱です

 石段の上に鳥居が見えました

 鳥居下から参道石段を見上げると社殿が見えます、石段を上がろうとしたら石段脇に「⇐大王杉・社殿脇からは全体が見えません」の案内板が出ています

参道石段から左に入ると見上げる位置に目的の「三陸大王杉」です

 南西側から見上げました

 参道石段に戻って石段を上ると社殿です

 社殿前のケヤキの大木です

 三陸大王杉は、社殿の西側です、確かに全体を見る事は出来ませんね~

 社殿東側には杉の大木です

 日本樹木保護協会代表樹木医 山野忠彦氏が「千年杉」と命名しています

 千年杉を北西側から見上げました

 千年杉の根元に「みちのく潮風トレイル」の案内板です

 境内東側の林の中にも杉の大木です

 社殿裏側に上ってみました

 北東側から、目通り幹囲11.6mの巨木です

 社殿裏側に「三陸大王杉の外科治療」標柱です

 幹の多くの部分がモルタルで堅められています

 北側の広場に城跡説明版があります
   本丸城(別称・・・本丸舘・八幡舘)
 1、所在地   三陸町越喜来字杉下
 2、現状    越喜来の中心に位置し、古墳形をした地形であり麓から最上部までの標高は約35mで、主郭の広さは当合25m・南北50mの楕円形である。
 土檀が数段ずつ四方に作られてあるが、最初の土檀の東側及び南側は広くとられてあり、主郭の二倍以上の広さがある。
 この広い土檀の南側に、町指定文化財「大王杉」(推定樹齢7000年)がありその直下に八幡神社が建立されている。
   由来沿革
 【築城者  】 不明
 【築城 時期】 建武(西暦1334~1336年)年間以前
 【存続 期間】 明徳3年(西暦1392)以降空城
 【主要居住者】 佐多左近将監
 この城は気仙古記、気仙風土草いずれにも載っていない。
 南北朝の時期興国6年から正平9年(西暦1354)まで足掛け10年の間に南朝から二通、北朝から二通の軍勢督促状があって、その宛名は、多田左近将監または多田三郎左エ門となっている。
 気仙郡の中で多田氏の住居のあった所は越喜来だけであって、これは明らかに越喜来多田氏に宛てたものである。
 したがって、本丸城の城主は多田左近将監であったと思われる。
 さらに、この多田氏には、越喜来に入る当時を示した多田系図があり、その末尾には「気仙北方を持つ、先代の時也」とある。
 おおむね、建保年間頃には越喜来に来城したことを示している
 その初代は、源氏多田満仲から8代多田蔵人行綱の三男で多田三郎定綱であることがうかがわれる。
 この後、百年以上にわたって越喜来・吉浜を開発し、本丸城を軸に南に平田城、西に高森城、北に小出城、北東に吉浜高舘城を配し、名実ともに本丸としての権を握っていた。
 南北朝期、総力を結集して南朝方北畠顕信を助け協力すること十余年、元中年間に至り南朝は敗退した。
 よって、明徳3年(西暦1392)南北朝統一により、世は足利氏へと移り各城は四散した。
      平成7年3月   大船渡市・教育委員会設置

 では、次へ行きましょう




 2024・10・17・06・30
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