江繋(えつなぎ)第9地割地区は、宮古市役所の西南西25km、宮古市役所川井総合事務所の西南西約7kmところです
宮古市役所川井総合事務所前の「川井総合事務所」信号から国道340号線を南西へ進み、「閉伊川」の左岸に沿う様になります
*この信号は、閉伊川右岸(南東へ約300m)のJR山田線「陸中川井」駅への入り口でもあります
約1.4kmで「⇐遠野・大槌・国道340号線」の標識に従って左(南南東)へ、閉伊川の「新井川橋」を渡りトンネルを潜ります
*ここから「小国川」の谷を、4つのトンネルを潜りながら遡るように南下します
道成に約7.1kmで「紫波・県道25号線⇒」の標識には従わずに、反対側の左(東)へ「薬師橋」手前を入ります
間も無く左手に目的の槻の木「ケヤキ」が見えて来ます
東側の「江繋バス停」前の道路脇に
車を止めさせて頂きました

八坂神社鳥居です

東向きに鎮座する八坂神社社殿です

案内板です
八坂神社(小国明神)
鎌倉時代に閉伊地方を治めていた閉伊頼基の家臣7士を祭神とする「閉伊七社」のひとつで、明石監物宗晴を祀る。
宮古市川井総合事務所
*ネットの宮古百科事典ミヤペディアでは・・・
伝説によると、閉伊頼基は佐々木四郎高綱の娘、音羽姫を妻とし、父為朝の家臣を従えていたとされ、重鎮であった家臣等は閉伊頼基の死後、殉死したと伝えられる。
閉伊頼基が死んだのは鎌倉時代初期の承久2年(1220)で頼基の享年は63歳とされる。
父の代から頼基に仕えた7人の老家臣たちは頼基の後を追って殉死したとされるが、当時とすれば相当の年齢に達している感があり、太田嶋源五太忠連は松山の舘で自害したと伝承があるが、大部分が主を失い衰弱して果てたとも考えられる。
従って当主の死と家臣の殉死に関係してその時代に松山舘や華厳院は建立されておらず引用には無理があり、これらを交えた逸話が後の創作であることがわかる。
主を追って殉死したとされる閉伊氏の家臣7名はそれぞれ閉伊の地を守る明神として各所の神社の祭神となって現在に伝わっており、法名と神社は下記の通りです。
1、近能左七郎親良(こんのうさしちろうちかより) 義山劒誉居士(ぎざんけんよいんし) 区界明神 川井村
2、太田嶋源五太忠連(おおたじまげんごただつら) 雪山劒光信士(せつざんけんこうしんし) 松山明神 松山
3、猪狩右馬之丞諸深(いかりうまのじょうもろふか) 冷姓劒風信士(れいぜいけんふうしんし) 川内明神 川井村
4、広沢兵馬之丞忠季(ひろさわへいまのじょうただすえ) 実 劒忠信士(じっそうけんちゅうしんし) 老木明神 老木
5、安蘇権太郎重休(あそごんたろうしげやす) 法雪劒風信士(ほうせつけんふうしんし) 川井明神 川井村
6、明石監物宗晴(あかしけんもつむねはる) 了真劒清信士(りょうしんけんせいしんし) 小国明神 川井村
7、石関兵庫勝時(いしぜきひょうごかつとき) 枯峯劒了信士(こほうけんりょうしんし) 川崎明神 刈屋
以上ミヤペディアの一部「7、伝説による閉伊頼基とその周辺」から一部抜粋変更したものです

神楽殿のようです、中には神輿が納められています



境内の「槻の木」です、北東側の鳥居下から見上げました



北側から



東側から

説明版です
ウッディミュージアムかわい21推進事業・保存樹木第2号
八坂神社・槻の木
この地方を治めていた閉伊氏が1336年に南部氏により滅ぼされ、その家臣らを祀る閉伊7社の一つとして江繋神社が建立されたといわれている。
その後、寛永年間に八幡神社となり、明治になって八坂神社に合併した。
この槻の木は、大正11年に幸田露伴が訪れた際に小説の題材になったことで知られている。
*樹高約30m・胸高直径2m*
(平成7年12月建立 宮古市教育委員会)



南側から、目通り幹囲は6.1mとされている巨木です


西側から見上げました

八坂神社の北側の道路を西へ入ると

西側に「江繁地域振興センター」があります

手前北側に「西塔幸子(さいとう・こうこ)記念館」です
* *このブログ2024年10月27日の「 岩手県矢巾町、白沢第6地割「森のトチの木」で紹介した時に、西塔幸子生誕の地の石碑を見てから気になっていました

残念ながら休館中でしたが、入口内には「西塔幸子」の写真が飾ってありました

西塔幸子最終赴任地の江繁小学校跡でもあります

記念館並びには「灯を消せば 山の匂いのしるくして はろけくも吾は 来つるものかな」の歌碑です
歌人西塔幸子先生が本村江繁小学校に着任したのは、昭和9年の冷害の年であった。
先生は生活の乏しい生徒たちを庇い励まし、教育と給食の準備にと奔走されたが病を得、11年6月急逝された。36歳であった。
ここに先生の代表作を刻し、その遺徳を永く後世に伝えんと建立するものである。
昭和54年11月1日 川井村村民有志一同
*前出の宮古百科事典ミヤペディアでは・・・
西塔幸子(さいとうこうこ)【分類・歌人】明治~昭和:明治33年(1900)~昭和11年(1936)
山峡の歌人:教師生活のほとんどを県北の山間へき地で生活し、苦悩に満ちた人生の旅を歌に残し山峡の歌人と言われた女教師。
死後、歌集『山峡』が昭和12年に発行され人々の共感を呼んだ。
明治33年6月30日、紫波郡不動村(現矢巾町)で生まれ、大正8年岩手師範学校女子部を卒業し教師となった。
大正10年12月に旧磯鶏村尋常小学校(現宮古市上村2丁目)に転任。磯鶏小学校時代は西塔ではなく旧姓大村カウとしての記録が残る。
進歩的で教育熱心な先生として生徒から慕われ、特に音楽的才能に優れオルガン演奏は評判であったほか、大正11年には宮古館での慈善音楽会に出演し独唱を行っている。しかし子どもの死や夫の酒乱、火災、自身の病気で苦悩の36歳の生涯を閉じた。
では、次へ行きましょう

2024・10・18・10・30
宮古市役所川井総合事務所前の「川井総合事務所」信号から国道340号線を南西へ進み、「閉伊川」の左岸に沿う様になります
*この信号は、閉伊川右岸(南東へ約300m)のJR山田線「陸中川井」駅への入り口でもあります
約1.4kmで「⇐遠野・大槌・国道340号線」の標識に従って左(南南東)へ、閉伊川の「新井川橋」を渡りトンネルを潜ります
*ここから「小国川」の谷を、4つのトンネルを潜りながら遡るように南下します
道成に約7.1kmで「紫波・県道25号線⇒」の標識には従わずに、反対側の左(東)へ「薬師橋」手前を入ります
間も無く左手に目的の槻の木「ケヤキ」が見えて来ます
東側の「江繋バス停」前の道路脇に


八坂神社鳥居です


東向きに鎮座する八坂神社社殿です


案内板です
八坂神社(小国明神)
鎌倉時代に閉伊地方を治めていた閉伊頼基の家臣7士を祭神とする「閉伊七社」のひとつで、明石監物宗晴を祀る。
宮古市川井総合事務所
*ネットの宮古百科事典ミヤペディアでは・・・
伝説によると、閉伊頼基は佐々木四郎高綱の娘、音羽姫を妻とし、父為朝の家臣を従えていたとされ、重鎮であった家臣等は閉伊頼基の死後、殉死したと伝えられる。
閉伊頼基が死んだのは鎌倉時代初期の承久2年(1220)で頼基の享年は63歳とされる。
父の代から頼基に仕えた7人の老家臣たちは頼基の後を追って殉死したとされるが、当時とすれば相当の年齢に達している感があり、太田嶋源五太忠連は松山の舘で自害したと伝承があるが、大部分が主を失い衰弱して果てたとも考えられる。
従って当主の死と家臣の殉死に関係してその時代に松山舘や華厳院は建立されておらず引用には無理があり、これらを交えた逸話が後の創作であることがわかる。
主を追って殉死したとされる閉伊氏の家臣7名はそれぞれ閉伊の地を守る明神として各所の神社の祭神となって現在に伝わっており、法名と神社は下記の通りです。
1、近能左七郎親良(こんのうさしちろうちかより) 義山劒誉居士(ぎざんけんよいんし) 区界明神 川井村
2、太田嶋源五太忠連(おおたじまげんごただつら) 雪山劒光信士(せつざんけんこうしんし) 松山明神 松山
3、猪狩右馬之丞諸深(いかりうまのじょうもろふか) 冷姓劒風信士(れいぜいけんふうしんし) 川内明神 川井村
4、広沢兵馬之丞忠季(ひろさわへいまのじょうただすえ) 実 劒忠信士(じっそうけんちゅうしんし) 老木明神 老木
5、安蘇権太郎重休(あそごんたろうしげやす) 法雪劒風信士(ほうせつけんふうしんし) 川井明神 川井村
6、明石監物宗晴(あかしけんもつむねはる) 了真劒清信士(りょうしんけんせいしんし) 小国明神 川井村
7、石関兵庫勝時(いしぜきひょうごかつとき) 枯峯劒了信士(こほうけんりょうしんし) 川崎明神 刈屋
以上ミヤペディアの一部「7、伝説による閉伊頼基とその周辺」から一部抜粋変更したものです

神楽殿のようです、中には神輿が納められています




境内の「槻の木」です、北東側の鳥居下から見上げました




北側から




東側から


説明版です
ウッディミュージアムかわい21推進事業・保存樹木第2号
八坂神社・槻の木
この地方を治めていた閉伊氏が1336年に南部氏により滅ぼされ、その家臣らを祀る閉伊7社の一つとして江繋神社が建立されたといわれている。
その後、寛永年間に八幡神社となり、明治になって八坂神社に合併した。
この槻の木は、大正11年に幸田露伴が訪れた際に小説の題材になったことで知られている。
*樹高約30m・胸高直径2m*
(平成7年12月建立 宮古市教育委員会)



南側から、目通り幹囲は6.1mとされている巨木です




西側から見上げました


八坂神社の北側の道路を西へ入ると


西側に「江繁地域振興センター」があります


手前北側に「西塔幸子(さいとう・こうこ)記念館」です

* *このブログ2024年10月27日の「 岩手県矢巾町、白沢第6地割「森のトチの木」で紹介した時に、西塔幸子生誕の地の石碑を見てから気になっていました

残念ながら休館中でしたが、入口内には「西塔幸子」の写真が飾ってありました


西塔幸子最終赴任地の江繁小学校跡でもあります


記念館並びには「灯を消せば 山の匂いのしるくして はろけくも吾は 来つるものかな」の歌碑です
歌人西塔幸子先生が本村江繁小学校に着任したのは、昭和9年の冷害の年であった。
先生は生活の乏しい生徒たちを庇い励まし、教育と給食の準備にと奔走されたが病を得、11年6月急逝された。36歳であった。
ここに先生の代表作を刻し、その遺徳を永く後世に伝えんと建立するものである。
昭和54年11月1日 川井村村民有志一同
*前出の宮古百科事典ミヤペディアでは・・・
西塔幸子(さいとうこうこ)【分類・歌人】明治~昭和:明治33年(1900)~昭和11年(1936)
山峡の歌人:教師生活のほとんどを県北の山間へき地で生活し、苦悩に満ちた人生の旅を歌に残し山峡の歌人と言われた女教師。
死後、歌集『山峡』が昭和12年に発行され人々の共感を呼んだ。
明治33年6月30日、紫波郡不動村(現矢巾町)で生まれ、大正8年岩手師範学校女子部を卒業し教師となった。
大正10年12月に旧磯鶏村尋常小学校(現宮古市上村2丁目)に転任。磯鶏小学校時代は西塔ではなく旧姓大村カウとしての記録が残る。
進歩的で教育熱心な先生として生徒から慕われ、特に音楽的才能に優れオルガン演奏は評判であったほか、大正11年には宮古館での慈善音楽会に出演し独唱を行っている。しかし子どもの死や夫の酒乱、火災、自身の病気で苦悩の36歳の生涯を閉じた。
では、次へ行きましょう


2024・10・18・10・30