春分の日を過ぎて間も無く🌸桜(ソメイヨシノ)の開花宣言が東京でも出そうなので、今日から午前と午後の一日2回の投稿を再開したいと思いますので、ご覧くださいね
野火止3丁目は、東久留米市役所の北西約2.5kmのところ
「東久留米市役所前」信号から西南西へ、約700mの信号を右(北北西)へ、さいわい通りです
道成りに進んで西南西に向きを変えた約900mの「野火止1丁目」信号を右(北北東)へ、都道15号小金井街道です
約200mで黒目川の上落馬橋を渡ります、約100mで左へ、東久留米特別支援学校の雑木林と都営住宅の間の道を西へ進みます
約200mで都営住宅西側を北へ入って、クロガネモチの木を見て、すぐ北側の野火止用水沿いのグレープフルーツを見ました
野火止用水沿いの野火止通り(水道道路)を西南西へ進みます
雑木林のみちの案内板です
道路が黒目川への下り坂に差し掛かると歩道の左手(東側)に
下里本邑遺跡公園入口です
下里本邑遺跡公園です
説明版です
下里本邑遺跡公園
遺跡がある場所は、むかし下里の「本邑」と呼ばれていたことから、それが遺跡の名前になりました。
黒目川と出水川が合流するこの場所は、日あたりの良い高台と、豊かな水の流れ、さらに川の脇に広がる河川敷があることから、原始・古代の人々が住む理想的な条件を満たしていました。
下里本邑の地に最初に人が住み始めたのは、氷河時代の終わりころにあたる旧石器時代(今から約3万年前)で、ナウマンゾウやオオツノジカなど大型動物の群れを追って生活する狩人の時代でした。
今から約1万年前ころになると次第に暖かくなって氷河時代が終わります。
縄文時代になると、台地と川岸を利用したムラがつくられるようになりました。ところが、縄文時代中期を過ぎると生活の跡がとだえます。
そして弥生時代を迎えます。下里本邑遺跡は、東久留米市域で弥生時代のムラがつくられた唯一の場所です。台地の上から、竪穴住居跡とともに方形周溝墓が発見されています。方形周溝墓は、当時の指導者の墓です。推定ですが、黒目川の川岸近くに水田があった可能性も考えられます。
その後、この場所からまたもや人間の生活の跡がとだえます。
奈良時代の終わりころ(今から1200年程前)になると再びムラがつくられるようになり、それは平安時代まで続きました。
下里本邑遺跡は、いくつもの時代にわたって生活の場となった「複合遺跡」と呼ばれる貴重な遺跡です。そのため、このような大切な文化財を後世の人々に伝えようということになり、遺跡の主要部分約8000㎡が保存され、遺跡公園として整備されました。さらに公園内の低地部分には、下里本邑遺跡の特徴を説明して土器や石器類を展示した「下里本邑遺跡公園」もつくられました。
みんなでこの下里本邑遺跡を大切に守って行きましょう。
東久留米市教育委員会
*下里本邑遺跡公園は、南側の黒目川左岸沿いにあります。
公園の広場にはテーブルやベンチが据え付けられています
平安時代の住居跡の説明です
平安時代の住居跡
この場所には、発掘調査によって発見された平安時代(約1000年前)の住居跡が埋没保存されています。
東西3.6m、南北2.8mの長方形の住居跡です。カマドや柱の跡はなく、ごく簡素な作りの住居だったと思われます。
現在公園となっているこの台地には、同じころの住居跡が他にも残されていると推定されます。
東久留米市教育委員会
すぐ東側(公園中央付近)に目的のクスノキです
北側から太い幹を見上ました
南西側から
南東側から、久留米市の名木百選のプレートは有りませんでした
東側から見ました
では、次へ行きましょう
野火止3丁目は、東久留米市役所の北西約2.5kmのところ
「東久留米市役所前」信号から西南西へ、約700mの信号を右(北北西)へ、さいわい通りです
道成りに進んで西南西に向きを変えた約900mの「野火止1丁目」信号を右(北北東)へ、都道15号小金井街道です
約200mで黒目川の上落馬橋を渡ります、約100mで左へ、東久留米特別支援学校の雑木林と都営住宅の間の道を西へ進みます
約200mで都営住宅西側を北へ入って、クロガネモチの木を見て、すぐ北側の野火止用水沿いのグレープフルーツを見ました
野火止用水沿いの野火止通り(水道道路)を西南西へ進みます
雑木林のみちの案内板です
道路が黒目川への下り坂に差し掛かると歩道の左手(東側)に
下里本邑遺跡公園入口です
下里本邑遺跡公園です
説明版です
下里本邑遺跡公園
遺跡がある場所は、むかし下里の「本邑」と呼ばれていたことから、それが遺跡の名前になりました。
黒目川と出水川が合流するこの場所は、日あたりの良い高台と、豊かな水の流れ、さらに川の脇に広がる河川敷があることから、原始・古代の人々が住む理想的な条件を満たしていました。
下里本邑の地に最初に人が住み始めたのは、氷河時代の終わりころにあたる旧石器時代(今から約3万年前)で、ナウマンゾウやオオツノジカなど大型動物の群れを追って生活する狩人の時代でした。
今から約1万年前ころになると次第に暖かくなって氷河時代が終わります。
縄文時代になると、台地と川岸を利用したムラがつくられるようになりました。ところが、縄文時代中期を過ぎると生活の跡がとだえます。
そして弥生時代を迎えます。下里本邑遺跡は、東久留米市域で弥生時代のムラがつくられた唯一の場所です。台地の上から、竪穴住居跡とともに方形周溝墓が発見されています。方形周溝墓は、当時の指導者の墓です。推定ですが、黒目川の川岸近くに水田があった可能性も考えられます。
その後、この場所からまたもや人間の生活の跡がとだえます。
奈良時代の終わりころ(今から1200年程前)になると再びムラがつくられるようになり、それは平安時代まで続きました。
下里本邑遺跡は、いくつもの時代にわたって生活の場となった「複合遺跡」と呼ばれる貴重な遺跡です。そのため、このような大切な文化財を後世の人々に伝えようということになり、遺跡の主要部分約8000㎡が保存され、遺跡公園として整備されました。さらに公園内の低地部分には、下里本邑遺跡の特徴を説明して土器や石器類を展示した「下里本邑遺跡公園」もつくられました。
みんなでこの下里本邑遺跡を大切に守って行きましょう。
東久留米市教育委員会
*下里本邑遺跡公園は、南側の黒目川左岸沿いにあります。
公園の広場にはテーブルやベンチが据え付けられています
平安時代の住居跡の説明です
平安時代の住居跡
この場所には、発掘調査によって発見された平安時代(約1000年前)の住居跡が埋没保存されています。
東西3.6m、南北2.8mの長方形の住居跡です。カマドや柱の跡はなく、ごく簡素な作りの住居だったと思われます。
現在公園となっているこの台地には、同じころの住居跡が他にも残されていると推定されます。
東久留米市教育委員会
すぐ東側(公園中央付近)に目的のクスノキです
北側から太い幹を見上ました
南西側から
南東側から、久留米市の名木百選のプレートは有りませんでした
東側から見ました
では、次へ行きましょう
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