柳窪3丁目は、東久留米市役所の青年性約4kmのところ
東久留米市役所北側の「東久留米市役所前」信号を、西南西へ、都道234号「まろにえ富士見通り」を進みます
約1.6kmで右からの道路に合流するように、左(南南西)へ、都道15号「小金井街道」です
約1.4kmの「花小金井4丁目」信号を右(西北西)へ、都道5号「新青梅街道」です
約2.1kmで左手に小平霊園が見えて来ます、約400mで信号を右(北)に入って車を止めさせて頂きました
ここから前回からの続きです
長福橋を渡り返して進むと柳窪天神社前に出ました、参道は北東側に伸びています
手水舎です
社殿です
神楽殿です
梅林の碑ですが読めなくなっています
説明版です
東久留米市指定文化財
柳窪4丁目15番 天神社
柳窪梅林の碑 史跡第2号
「柳窪里梅林之記」が刻まれていることから柳窪梅林の碑と呼ばれています。
この碑文は、江戸時代の安政4年(1857)に六所宮神主(府中の大国魂神社宮司)であった猿渡盛章が書いたもので、古い祠の傍らにあった「天神松」という老木が枯れるのを惜しんで、村人と梅林の植樹をしたことが記されいます。
そのなかには、「来梅ノ荘の里」や「来梅川」(くるめがわ)という名が記されており、現在の地名を考えるうえで貴重な資料となっています。
裏面には「ちとせとて まつはかぎりのあるものを はるだにあらば はなはみてまし」という菅原道真が詠んだと伝えられる歌が梅沢敬典という書家の手によって書かれています。
東久留米市教育委員会
こちらの説明版はボコボコになっています
江戸・東京の農業 柳久保小麦
麦は米とともに重要な主食作物であると同時に、味噌などの原料でもあり、かつて冬の東京の畑は一面が麦畑でした。
小麦の品種「柳久保」は、嘉永4年(1851)、現在の東久留米市柳窪の奥住又右衛門が、旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたと言われます。
優良な小麦だったので評判になり「又右衛門種」、あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県の農家でも栽培されました。
この麦からは良質の粉ができ、うどん用として大変人気がありました。
また、麦の草丈が長いので、麦藁は農家の「わら屋根」にも利用された重要な品種でした。
こうして、この麦は長い間栽培が続けられましたが、昭和17年でその姿は消えてしまいました。
現在、柳久保のタネは農林水産省生物資源研究所に保存されています。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業
東京みらい農業協同組合
*武蔵野の台地上は田圃の稲作には適さない関東ローム層となっていますので、麦や所沢・川越周辺などで救荒作物とされた「サツマイモ」の産地となっていますね
参道を北へ進んでみました
柳窪天神社社號標です
天神橋の所で久留米市道236号線を戻りました
小平聖地公園の南側で駐車場奥に「東久留米名木百選No.40サイカチ」です
北西側からズームアップしました
幹には名木百選のプレートも確認できました
では、次へ行きましょう
東久留米市役所北側の「東久留米市役所前」信号を、西南西へ、都道234号「まろにえ富士見通り」を進みます
約1.6kmで右からの道路に合流するように、左(南南西)へ、都道15号「小金井街道」です
約1.4kmの「花小金井4丁目」信号を右(西北西)へ、都道5号「新青梅街道」です
約2.1kmで左手に小平霊園が見えて来ます、約400mで信号を右(北)に入って車を止めさせて頂きました
ここから前回からの続きです
長福橋を渡り返して進むと柳窪天神社前に出ました、参道は北東側に伸びています
手水舎です
社殿です
神楽殿です
梅林の碑ですが読めなくなっています
説明版です
東久留米市指定文化財
柳窪4丁目15番 天神社
柳窪梅林の碑 史跡第2号
「柳窪里梅林之記」が刻まれていることから柳窪梅林の碑と呼ばれています。
この碑文は、江戸時代の安政4年(1857)に六所宮神主(府中の大国魂神社宮司)であった猿渡盛章が書いたもので、古い祠の傍らにあった「天神松」という老木が枯れるのを惜しんで、村人と梅林の植樹をしたことが記されいます。
そのなかには、「来梅ノ荘の里」や「来梅川」(くるめがわ)という名が記されており、現在の地名を考えるうえで貴重な資料となっています。
裏面には「ちとせとて まつはかぎりのあるものを はるだにあらば はなはみてまし」という菅原道真が詠んだと伝えられる歌が梅沢敬典という書家の手によって書かれています。
東久留米市教育委員会
こちらの説明版はボコボコになっています
江戸・東京の農業 柳久保小麦
麦は米とともに重要な主食作物であると同時に、味噌などの原料でもあり、かつて冬の東京の畑は一面が麦畑でした。
小麦の品種「柳久保」は、嘉永4年(1851)、現在の東久留米市柳窪の奥住又右衛門が、旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたと言われます。
優良な小麦だったので評判になり「又右衛門種」、あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県の農家でも栽培されました。
この麦からは良質の粉ができ、うどん用として大変人気がありました。
また、麦の草丈が長いので、麦藁は農家の「わら屋根」にも利用された重要な品種でした。
こうして、この麦は長い間栽培が続けられましたが、昭和17年でその姿は消えてしまいました。
現在、柳久保のタネは農林水産省生物資源研究所に保存されています。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業
東京みらい農業協同組合
*武蔵野の台地上は田圃の稲作には適さない関東ローム層となっていますので、麦や所沢・川越周辺などで救荒作物とされた「サツマイモ」の産地となっていますね
参道を北へ進んでみました
柳窪天神社社號標です
天神橋の所で久留米市道236号線を戻りました
小平聖地公園の南側で駐車場奥に「東久留米名木百選No.40サイカチ」です
北西側からズームアップしました
幹には名木百選のプレートも確認できました
では、次へ行きましょう
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