前回の「りっくんランド/陸上自衛隊 広報センター」の続きです
外展示場の北側には西側から
「94式 水際地雷敷設装置」です
全長 11.8m、 全幅 2.8m(陸上姿勢)・4.0m(水上姿勢)、 全高3.5m
全備重量 16トン(空車)、 乗員3人
最高速度 50km/h(陸上車輪走行)、 11km/h〈6ノット〉(水中プロペラ推進)
制作 日立造船
「87式 自走高射機関砲」です
乗員3人、全高7.99m、全幅3.18m、全高4.4m(起立)、全備重量約38トン
速度 約53km/h、 武装 35mm(エリコンKDA)高射機関砲・・・2
制作 三菱重工(車体)・日本製鋼所(砲塔)
*エリコンKDAとは、第二次世界大戦終結直後、スイスのエリコン社(現在はドイツのラインメタル社に吸収合併)は、新しい砲弾規格である20mm×128弾を開発し、続いて1950年代初頭に、これを大口径化して開発されたのが、35mm×228弾である。
35mm×228弾は、1950年代後半より、エリコンKDA/KDB35mm機関砲とともに運用を開始しました。
同砲を採用したGDFシリーズの牽引式高射機関砲は、日本の陸上自衛隊が35mm2連装高射機関砲Lー90として採用したのを初めとして、世界的に広く採用されました。
「89式 装甲戦闘車」です
「愛称:ライトタイガー」
乗員 10人、全備重量 約26.5トン、全長 6.8m、全幅 3.2m、全高 2.5m
最高速度 約70km/h、航続距離 約400km
装備 35mm機関砲・・・1、74式車載7.62mm機関銃・・・1
79式対舟艇対洗車誘導弾発射装置・・・2
制作 日本製鋼所(35mm機関砲)、三菱重工(砲塔・車体)、川崎重工(誘導弾発射装置)
「74式 戦車」です
乗員 4人、全備重量 約38トン、全長 9.41m、全幅 3.18m
全高 2.2m(砲塔上面まで標準姿勢)、最低地上高 0.40m地上高変換可能
登坂能力 約30°、旋回性能 超信地、最高速度 53km/h、行動距離 約300km
武装 105mm戦車砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、74式車載7.62mm機関銃・・・1
制作 三菱重工(砲塔・車体)、日本製鋼所(105mm砲)
「90式 戦車」です
乗員 3人、重量 50トン、全長 9.8m、全幅 3.4m(スカート付)、全高 2.3m
登坂能力 約30°、最高速度 70km/h
武装 120mm滑腔砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、7.62mm機関銃・・・1
制作 三菱重工(砲塔・車体)、日本製鋼所(120mm砲)
現在陸上自衛隊主力の「10式 戦車」(ひとまるしきせんしゃ)ですが、2010年の調達開始から14年が経過しています
乗員 3人、重量 43.3トン、全長 9.4m、全幅 3.1m、全高 2.3m
最高速度 70km/h
武装 120mm滑腔砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、7.62mm機関銃・・・1
制作 三菱重工・日本製鋼所
外の展示場から更に南西側へ
駐車場端にポツンと一台だけ「水陸両用車(AAV7)」です
「愛称:アムトラック」
乗員 3人+21人・・・乗員3名戦闘員21名と言うことでしょうか
全長 8.2m、全幅 3.3m、全高 3.3m、全備重量 21.8トン・・・重量が軽いのは水の上に浮かなければなりませんからね~
最高速度(陸上)72km/h・最高速度(海上)13km/h(8ノット少々ってところですね)
武装 12.7mm重機関銃・・・1、 40mm自動てき弾銃・・・1
制作 BAEシステムズ社・・・1999年に設立されたイギリスの国防・情報セキュリティ・航空宇宙関連企業で、2020年現在も防衛関連企業として世界7位の事業規模を誇る企業です。
更に南西側の「振武臺館」へ行ってみましょう
掲示板の案内です
振武臺
戦前、ここ朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在しておりました。
陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)にありましたが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転してまいりました。
陸軍士官のなるには予科で約2年、その後の本科で約1年8ヶ月の教育訓練を受けなければなりませんでした。
修学後、部隊での見習士官を経て少尉に任官するという制度となっておりました。
また航空要員は予科終了後、入間(埼玉)いありました陸軍航空士官学校へと進みました。
朝霞では終戦の昭和20年8月まで、57期生から61期生まで19147名の学生が学びました。
振武臺記念館では当時の貴重な資料や所縁の品などを展示、古墳時代以来の朝霞の歴史と合わせて皆様に紹介しております。
「振武臺」という名前の由来は昭和18年12月9日、昭和天皇が当校に行幸された際、学生達に対し「将来益々武を振るえ」という思いからお名付けになられた学校の別称です。
また本記念館の建物は、陸軍士官学校(本科)にありました「皇族舎」(皇族男子学生の特別宿舎)を昭和53年、隊員の手によって座間から移築した歴史的建造物です。
西側へ回り込むと「振武臺」入口です
説明版です
陸軍豫科士官學校正門門柱
この門柱は、陸軍豫科士官學校が昭和16年(1941年)10月から終戦まで、ここ朝霞の地で使用していたものであり、昭和53年(1978年)8月に、現在地から南へ約1kmにあった当時の正門を移設して保存しているものです。
振武臺記念館です
説明版です
振武臺記念館
この振武臺記念館は、昭和53年(1978年)3月に神奈川県座間市にありました陸軍士官學校の皇族舎を隊員の手によって解体移設した建物で、市ヶ谷から朝霞に移転した陸軍豫科士官學校に関する資料等を中心に展示されています。
振武臺の由来は、昭和18年(1943年)12月、昭和天皇陛下が行幸された折に「将来益々 武を振るえ」と言った意味からお名付になられたそうです。
注:皇族舎とは
皇族(男子)が、陸軍士官學校や海軍兵學校で将校教育を受ける際に用意された特別の宿舎であり、本皇族舎は東久邇宮殿下〈ひがしくにのみやでんか〉(54期生)や賀陽宮殿下〈かやのみやでんか〉(55期生)が使用したと記録に残っています。
「九九式十糎山砲」です
(99式10せんちさんぽう)
大日本帝国陸軍が1939年(昭和14年)に制式化した口径105mmの山砲です。
日中戦争当時、中国軍からろ獲した105mm砲(仏製)を再設計し、分解運搬ができるように改良したものです。
通常馬2頭で運搬しますが、悪路等では分解して10頭の馬を使用していました。
最大で約7km(所沢インター付近まで)、有効射程は約4kmの射撃が可能です。
昭和16年大阪陸軍造兵廠製
*振武臺記念館の中の展示も見たいところでしたが、午前中の終了時間11時30分が迫っているので、戻ることにしました。
では、次へ行きましょう
外展示場の北側には西側から
「94式 水際地雷敷設装置」です
全長 11.8m、 全幅 2.8m(陸上姿勢)・4.0m(水上姿勢)、 全高3.5m
全備重量 16トン(空車)、 乗員3人
最高速度 50km/h(陸上車輪走行)、 11km/h〈6ノット〉(水中プロペラ推進)
制作 日立造船
「87式 自走高射機関砲」です
乗員3人、全高7.99m、全幅3.18m、全高4.4m(起立)、全備重量約38トン
速度 約53km/h、 武装 35mm(エリコンKDA)高射機関砲・・・2
制作 三菱重工(車体)・日本製鋼所(砲塔)
*エリコンKDAとは、第二次世界大戦終結直後、スイスのエリコン社(現在はドイツのラインメタル社に吸収合併)は、新しい砲弾規格である20mm×128弾を開発し、続いて1950年代初頭に、これを大口径化して開発されたのが、35mm×228弾である。
35mm×228弾は、1950年代後半より、エリコンKDA/KDB35mm機関砲とともに運用を開始しました。
同砲を採用したGDFシリーズの牽引式高射機関砲は、日本の陸上自衛隊が35mm2連装高射機関砲Lー90として採用したのを初めとして、世界的に広く採用されました。
「89式 装甲戦闘車」です
「愛称:ライトタイガー」
乗員 10人、全備重量 約26.5トン、全長 6.8m、全幅 3.2m、全高 2.5m
最高速度 約70km/h、航続距離 約400km
装備 35mm機関砲・・・1、74式車載7.62mm機関銃・・・1
79式対舟艇対洗車誘導弾発射装置・・・2
制作 日本製鋼所(35mm機関砲)、三菱重工(砲塔・車体)、川崎重工(誘導弾発射装置)
「74式 戦車」です
乗員 4人、全備重量 約38トン、全長 9.41m、全幅 3.18m
全高 2.2m(砲塔上面まで標準姿勢)、最低地上高 0.40m地上高変換可能
登坂能力 約30°、旋回性能 超信地、最高速度 53km/h、行動距離 約300km
武装 105mm戦車砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、74式車載7.62mm機関銃・・・1
制作 三菱重工(砲塔・車体)、日本製鋼所(105mm砲)
「90式 戦車」です
乗員 3人、重量 50トン、全長 9.8m、全幅 3.4m(スカート付)、全高 2.3m
登坂能力 約30°、最高速度 70km/h
武装 120mm滑腔砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、7.62mm機関銃・・・1
制作 三菱重工(砲塔・車体)、日本製鋼所(120mm砲)
現在陸上自衛隊主力の「10式 戦車」(ひとまるしきせんしゃ)ですが、2010年の調達開始から14年が経過しています
乗員 3人、重量 43.3トン、全長 9.4m、全幅 3.1m、全高 2.3m
最高速度 70km/h
武装 120mm滑腔砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、7.62mm機関銃・・・1
制作 三菱重工・日本製鋼所
外の展示場から更に南西側へ
駐車場端にポツンと一台だけ「水陸両用車(AAV7)」です
「愛称:アムトラック」
乗員 3人+21人・・・乗員3名戦闘員21名と言うことでしょうか
全長 8.2m、全幅 3.3m、全高 3.3m、全備重量 21.8トン・・・重量が軽いのは水の上に浮かなければなりませんからね~
最高速度(陸上)72km/h・最高速度(海上)13km/h(8ノット少々ってところですね)
武装 12.7mm重機関銃・・・1、 40mm自動てき弾銃・・・1
制作 BAEシステムズ社・・・1999年に設立されたイギリスの国防・情報セキュリティ・航空宇宙関連企業で、2020年現在も防衛関連企業として世界7位の事業規模を誇る企業です。
更に南西側の「振武臺館」へ行ってみましょう
掲示板の案内です
振武臺
戦前、ここ朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在しておりました。
陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)にありましたが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転してまいりました。
陸軍士官のなるには予科で約2年、その後の本科で約1年8ヶ月の教育訓練を受けなければなりませんでした。
修学後、部隊での見習士官を経て少尉に任官するという制度となっておりました。
また航空要員は予科終了後、入間(埼玉)いありました陸軍航空士官学校へと進みました。
朝霞では終戦の昭和20年8月まで、57期生から61期生まで19147名の学生が学びました。
振武臺記念館では当時の貴重な資料や所縁の品などを展示、古墳時代以来の朝霞の歴史と合わせて皆様に紹介しております。
「振武臺」という名前の由来は昭和18年12月9日、昭和天皇が当校に行幸された際、学生達に対し「将来益々武を振るえ」という思いからお名付けになられた学校の別称です。
また本記念館の建物は、陸軍士官学校(本科)にありました「皇族舎」(皇族男子学生の特別宿舎)を昭和53年、隊員の手によって座間から移築した歴史的建造物です。
西側へ回り込むと「振武臺」入口です
説明版です
陸軍豫科士官學校正門門柱
この門柱は、陸軍豫科士官學校が昭和16年(1941年)10月から終戦まで、ここ朝霞の地で使用していたものであり、昭和53年(1978年)8月に、現在地から南へ約1kmにあった当時の正門を移設して保存しているものです。
振武臺記念館です
説明版です
振武臺記念館
この振武臺記念館は、昭和53年(1978年)3月に神奈川県座間市にありました陸軍士官學校の皇族舎を隊員の手によって解体移設した建物で、市ヶ谷から朝霞に移転した陸軍豫科士官學校に関する資料等を中心に展示されています。
振武臺の由来は、昭和18年(1943年)12月、昭和天皇陛下が行幸された折に「将来益々 武を振るえ」と言った意味からお名付になられたそうです。
注:皇族舎とは
皇族(男子)が、陸軍士官學校や海軍兵學校で将校教育を受ける際に用意された特別の宿舎であり、本皇族舎は東久邇宮殿下〈ひがしくにのみやでんか〉(54期生)や賀陽宮殿下〈かやのみやでんか〉(55期生)が使用したと記録に残っています。
「九九式十糎山砲」です
(99式10せんちさんぽう)
大日本帝国陸軍が1939年(昭和14年)に制式化した口径105mmの山砲です。
日中戦争当時、中国軍からろ獲した105mm砲(仏製)を再設計し、分解運搬ができるように改良したものです。
通常馬2頭で運搬しますが、悪路等では分解して10頭の馬を使用していました。
最大で約7km(所沢インター付近まで)、有効射程は約4kmの射撃が可能です。
昭和16年大阪陸軍造兵廠製
*振武臺記念館の中の展示も見たいところでしたが、午前中の終了時間11時30分が迫っているので、戻ることにしました。
では、次へ行きましょう
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