ここからは、2024年11月25日に群馬県に行った帰りの取材分です
西大室地区は、前橋市役所の東約12km、前橋市役所大胡支所の南東約6kmのところ
前橋市役所大胡支所は、以前にも紹介している大胡城址の南側です
大胡支所前を南へ出て、直ぐの県道34号線を左(東南東)へ、次の「大胡信号」を右(南南西)へ、県道40号線です
約250mの「宮寺橋西詰」信号を左(南東)へ、県道72号線です、間も無く上毛電鉄の踏切を越えます
約2.8kmの「下大屋町信号」を左(東)へ、県道76号線です
約2.8kmで「南口駐車場」の標識を左(北)へ入り、約300mで広い駐車場の西端列に車を止めることが出来ました
古墳群の案内図です
南駐車場南側の草むらを通って、住宅沿いの南側の道路を西へ進むと
前二子古墳の後円部が見えました
更に西へ進むと道路脇に「史蹟 前二子古墳」標柱です
説明版です
黄泉の国へのタイムトラベル
国指定史跡 前二子古墳
明治11年に石室が発見されました。狭くて長い石室は、まるで黄泉の国への入り口です。
石室からは土器、装身具、鏡、金メッキされた馬の飾り金具などの副葬品が出土しました。
詳しい調査記録から、副葬品の配置状態や日本全国から6000人にものぼる見学者があったことを知ることができます。
さらに明治13年英国外交官アーネスト・サトウが調査に訪れました。
調査によって周堀のほかに外提と外周溝があり、上段墳丘に葺石があることがわかりました。
従来から門や扉があり複雑な構造とされた横穴式石室は、床面に加工された凝灰岩が敷かれ「べんがら」によって赤く塗られていることが分かりました。
また、円筒埴輪は大室古墳群の中で最も大きなものです。杖形埴輪(石見型埴輪)は遠く離れた奈良県のものと良く似ています。
出土遺物には従来「四神付飾土器」と呼ばれた装飾器台(須恵器小像付筒形器台)があります。朝鮮半島の南部のものと共通した小像が付けられています。
北西側から見ました
西側から
説明版です
史跡 前二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
「前二子 長い石室 古きあかし」
大室古墳群で最初に造られた前方後円墳です。この古墳からは円筒埴輪の他に人物・馬・家・大刀・靫・蓋などの埴輪が出土しています。
特徴的な細長い石室から、武具・馬具・装身具・鏡・土器などたくさんの副葬品が発見されました。
関東地方で最も古い時期の横穴式石室を持つ6世紀初めの古墳です。
西南西側から前方部です
南西側から
南側の中提から後円部です
説明版です
史跡 前二子古墳 (6世紀初め)
墳丘の長さ93.7m、後円部の高さ13.6m、周堀と外周溝を含めると148mにもなる。大室古墳群で最初に造られた大前方後円墳です。
・墳丘の上段部の葺石部分をササで表現しています。・墳頂部、下段の平坦面、周提上に埴輪列がめぐります。
〇細くて長い石室
石室は小ぶりの石で積まれ、玄室と羨道が長いのが特徴です。床面には、加工された凝灰岩の平石が敷かれ、石室はベンガラで赤く塗られています。玄室は扉石を立て閉じられていました。
これらのことから、関東地方に横穴式石室が取り入れられた最初の頃のものであることがわかります。
石室全長 13.89m。
〇形象埴輪
人物・盾持人(たてもちびと)・馬・家・大刀・靫(ゆき)・蓋(きぬがさ)などがあります。中でも蓋・威杖形埴輪が注目されます。
〇上毛野氏(かみつけぬ(の)し)の先祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の墓と言い伝えられた古墳の一つで、古くから大切に保存されてきました。
明治11年(1878)3月、村人により石室が開かれた際、多くの貴重な副葬品が発見され、記録が残されました。
主な出土品
○武具ーーー鉄鉾・大刀・鉄鏃
○馬具ーーー轡・杏葉・鏡板・帯金具
○農耕具ーー刀子・斧・鋤・鑿・針
○装身具ーー耳環・銀製空玉・管玉・臼玉・ガラス小玉
○鏡 ○その他ーーー鉤状金具・釘
〇出土品は当時の人々の興味をひき、県外からもたくさんの人々が訪れました。
明治13年(1880)には、イギリスの外交官、アーネスト・サトウもこれを見て、「上野地方の古墳群」(日本アジア紀要8巻3号)で外国にも紹介されました。
南側に玄室です
覗いてみましたが奥までは見えません
墳丘に登って見ました、前方部です
後円部です
後円部から前方部を見ました、左奥には八ヶ岳北部の山々、右のマツの間に浅間山が見えました
後円部から次に廻る中二子古墳を見ましたが、木々に覆われているので、前方後円墳の形が分かりませね
北側の中段を西側から
南側の中段を西側から見ました
南東側に戻って来ました
次は、中二子古墳を見て回りましょう
西大室地区は、前橋市役所の東約12km、前橋市役所大胡支所の南東約6kmのところ
前橋市役所大胡支所は、以前にも紹介している大胡城址の南側です
大胡支所前を南へ出て、直ぐの県道34号線を左(東南東)へ、次の「大胡信号」を右(南南西)へ、県道40号線です
約250mの「宮寺橋西詰」信号を左(南東)へ、県道72号線です、間も無く上毛電鉄の踏切を越えます
約2.8kmの「下大屋町信号」を左(東)へ、県道76号線です
約2.8kmで「南口駐車場」の標識を左(北)へ入り、約300mで広い駐車場の西端列に車を止めることが出来ました
古墳群の案内図です
南駐車場南側の草むらを通って、住宅沿いの南側の道路を西へ進むと
前二子古墳の後円部が見えました
更に西へ進むと道路脇に「史蹟 前二子古墳」標柱です
説明版です
黄泉の国へのタイムトラベル
国指定史跡 前二子古墳
明治11年に石室が発見されました。狭くて長い石室は、まるで黄泉の国への入り口です。
石室からは土器、装身具、鏡、金メッキされた馬の飾り金具などの副葬品が出土しました。
詳しい調査記録から、副葬品の配置状態や日本全国から6000人にものぼる見学者があったことを知ることができます。
さらに明治13年英国外交官アーネスト・サトウが調査に訪れました。
調査によって周堀のほかに外提と外周溝があり、上段墳丘に葺石があることがわかりました。
従来から門や扉があり複雑な構造とされた横穴式石室は、床面に加工された凝灰岩が敷かれ「べんがら」によって赤く塗られていることが分かりました。
また、円筒埴輪は大室古墳群の中で最も大きなものです。杖形埴輪(石見型埴輪)は遠く離れた奈良県のものと良く似ています。
出土遺物には従来「四神付飾土器」と呼ばれた装飾器台(須恵器小像付筒形器台)があります。朝鮮半島の南部のものと共通した小像が付けられています。
北西側から見ました
西側から
説明版です
史跡 前二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
「前二子 長い石室 古きあかし」
大室古墳群で最初に造られた前方後円墳です。この古墳からは円筒埴輪の他に人物・馬・家・大刀・靫・蓋などの埴輪が出土しています。
特徴的な細長い石室から、武具・馬具・装身具・鏡・土器などたくさんの副葬品が発見されました。
関東地方で最も古い時期の横穴式石室を持つ6世紀初めの古墳です。
西南西側から前方部です
南西側から
南側の中提から後円部です
説明版です
史跡 前二子古墳 (6世紀初め)
墳丘の長さ93.7m、後円部の高さ13.6m、周堀と外周溝を含めると148mにもなる。大室古墳群で最初に造られた大前方後円墳です。
・墳丘の上段部の葺石部分をササで表現しています。・墳頂部、下段の平坦面、周提上に埴輪列がめぐります。
〇細くて長い石室
石室は小ぶりの石で積まれ、玄室と羨道が長いのが特徴です。床面には、加工された凝灰岩の平石が敷かれ、石室はベンガラで赤く塗られています。玄室は扉石を立て閉じられていました。
これらのことから、関東地方に横穴式石室が取り入れられた最初の頃のものであることがわかります。
石室全長 13.89m。
〇形象埴輪
人物・盾持人(たてもちびと)・馬・家・大刀・靫(ゆき)・蓋(きぬがさ)などがあります。中でも蓋・威杖形埴輪が注目されます。
〇上毛野氏(かみつけぬ(の)し)の先祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の墓と言い伝えられた古墳の一つで、古くから大切に保存されてきました。
明治11年(1878)3月、村人により石室が開かれた際、多くの貴重な副葬品が発見され、記録が残されました。
主な出土品
○武具ーーー鉄鉾・大刀・鉄鏃
○馬具ーーー轡・杏葉・鏡板・帯金具
○農耕具ーー刀子・斧・鋤・鑿・針
○装身具ーー耳環・銀製空玉・管玉・臼玉・ガラス小玉
○鏡 ○その他ーーー鉤状金具・釘
〇出土品は当時の人々の興味をひき、県外からもたくさんの人々が訪れました。
明治13年(1880)には、イギリスの外交官、アーネスト・サトウもこれを見て、「上野地方の古墳群」(日本アジア紀要8巻3号)で外国にも紹介されました。
南側に玄室です
覗いてみましたが奥までは見えません
墳丘に登って見ました、前方部です
後円部です
後円部から前方部を見ました、左奥には八ヶ岳北部の山々、右のマツの間に浅間山が見えました
後円部から次に廻る中二子古墳を見ましたが、木々に覆われているので、前方後円墳の形が分かりませね
北側の中段を西側から
南側の中段を西側から見ました
南東側に戻って来ました
次は、中二子古墳を見て回りましょう
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