「大室古墳群・前二子古墳」に続いては「中二子古墳」です
大室古墳群で一番大きな前方後円墳が中二子古墳です
大室古墳群南駐車場から西へ進むと中二子古墳の後円部です、手前に外堀、中提を隔てて奥に二段築造の古墳です
古墳群の案内図です
「史蹟 中二子古墳」の標柱です
説明版です
~大富豪の栄華~ 国指定史跡 中二子古墳
中二子古墳は、大室古墳群の中で最も大きく立派な古墳です。内堀や中堤、外堀が全周し、墳丘は葺石で覆われ、内堀に工事や儀式のときに通った「わたり」が存在します。
かつて中堤は新堤沼を造るため、南側を大きく削り取られてしまったため、その部分を復元して中堤が一周している様子を再現しました。復元された中堤の上には、古墳を外敵から警護するために立てられた盾持人埴輪と円筒埴輪が、密接して並べられた様子も復元されています。
この古墳からは、たくさんの埴輪が出土しましたが、その中から、円筒埴輪に人の顔が小さく表現された珍しい埴輪がみつかりました。日本全国でも数例しかないものです。
また、形象埴輪のほとんどと円筒埴輪の一部に、海面骨針の化石と結晶片岩の砂粒が入ることから、藤岡市周辺で製作された埴輪が運ばれてきたと考えられています。
中二子古墳では、石室が見つかっていません。どのような石室に、どのような副葬品が納められているかという謎が残されています。そこで、この古墳は墳丘に立ち入らず、外から見学するようにしてあります。いつの日かその謎が解明される時がくるかもしれません。
左手(南側)には、前二子古墳です
史跡標柱の所を右(北西)へ進むと、中提への降り口です
中提から前方部です
後円部です
中提の上が遊歩道に成っています、西側から東側を見ました
古墳の北西側の内堀と中提そして外堀です
内堀のブリッジと後円部です
前方部です
北西側の説明版です
史跡 中二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
「中二子 威容きわだつ 埴輪列」
大室古墳群の中で最大の前方後円墳です。周りには二重の堀をめぐらしています。
墳丘や中提上には、密接して並べられた埴輪列が確認されています。
埋葬施設としては、後円部に横穴式石室が営まれていたと推定されています。
この古墳が造られたのは6世紀前半とみられます。
北西側の内堀です
中提を南へ進むとまた前方部へ渡るブリジットです
南西側から前方部です、木の大枝が倒れていました
中提に円筒埴輪が並べられています
外堀を渡って南西側から中提に並べられた円筒埴輪です
前方部です、外堀の外側(南側)の遊歩道を東へ進みます
南東側から前方部を見ましたが、木々のためよく分かりませんね~
後円部(南側から)も墳丘の様子はよく分かりません
東側から外堀です
説明版です
史跡 中二子古墳
墳丘の長さは111mで、二重の堀を含めると170mにもなります。
この大きさや内容から赤城南麓地域を支配していた大豪族の勢力が最も栄えた頃の首長の墓と考えられます。
■埴輪
墳丘の上下の平坦面や中提には、いろいろな形象埴輪やたくさんの円筒埴輪が並べられていました。
■中提の復元
円筒埴輪の間に盾持人と朝顔形埴輪が規則的に配置されていました。これをもとに埴輪列を再現しました。
○葺石ーーー二段に築かれた墳丘や中提内側の斜面は山石や河原石で覆われています。
■中提複眼前の断面
中提は6世紀初頭の榛名山の火山灰層の上に土を盛って築かれています。
このことから古墳は6世紀の前半に造られたことがわかります。
中提の円筒埴輪を見ました
次は、五料沼の西側を北へ進んで「後二子古墳」へ行きましょう
大室古墳群で一番大きな前方後円墳が中二子古墳です
大室古墳群南駐車場から西へ進むと中二子古墳の後円部です、手前に外堀、中提を隔てて奥に二段築造の古墳です
古墳群の案内図です
「史蹟 中二子古墳」の標柱です
説明版です
~大富豪の栄華~ 国指定史跡 中二子古墳
中二子古墳は、大室古墳群の中で最も大きく立派な古墳です。内堀や中堤、外堀が全周し、墳丘は葺石で覆われ、内堀に工事や儀式のときに通った「わたり」が存在します。
かつて中堤は新堤沼を造るため、南側を大きく削り取られてしまったため、その部分を復元して中堤が一周している様子を再現しました。復元された中堤の上には、古墳を外敵から警護するために立てられた盾持人埴輪と円筒埴輪が、密接して並べられた様子も復元されています。
この古墳からは、たくさんの埴輪が出土しましたが、その中から、円筒埴輪に人の顔が小さく表現された珍しい埴輪がみつかりました。日本全国でも数例しかないものです。
また、形象埴輪のほとんどと円筒埴輪の一部に、海面骨針の化石と結晶片岩の砂粒が入ることから、藤岡市周辺で製作された埴輪が運ばれてきたと考えられています。
中二子古墳では、石室が見つかっていません。どのような石室に、どのような副葬品が納められているかという謎が残されています。そこで、この古墳は墳丘に立ち入らず、外から見学するようにしてあります。いつの日かその謎が解明される時がくるかもしれません。
左手(南側)には、前二子古墳です
史跡標柱の所を右(北西)へ進むと、中提への降り口です
中提から前方部です
後円部です
中提の上が遊歩道に成っています、西側から東側を見ました
古墳の北西側の内堀と中提そして外堀です
内堀のブリッジと後円部です
前方部です
北西側の説明版です
史跡 中二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
「中二子 威容きわだつ 埴輪列」
大室古墳群の中で最大の前方後円墳です。周りには二重の堀をめぐらしています。
墳丘や中提上には、密接して並べられた埴輪列が確認されています。
埋葬施設としては、後円部に横穴式石室が営まれていたと推定されています。
この古墳が造られたのは6世紀前半とみられます。
北西側の内堀です
中提を南へ進むとまた前方部へ渡るブリジットです
南西側から前方部です、木の大枝が倒れていました
中提に円筒埴輪が並べられています
外堀を渡って南西側から中提に並べられた円筒埴輪です
前方部です、外堀の外側(南側)の遊歩道を東へ進みます
南東側から前方部を見ましたが、木々のためよく分かりませんね~
後円部(南側から)も墳丘の様子はよく分かりません
東側から外堀です
説明版です
史跡 中二子古墳
墳丘の長さは111mで、二重の堀を含めると170mにもなります。
この大きさや内容から赤城南麓地域を支配していた大豪族の勢力が最も栄えた頃の首長の墓と考えられます。
■埴輪
墳丘の上下の平坦面や中提には、いろいろな形象埴輪やたくさんの円筒埴輪が並べられていました。
■中提の復元
円筒埴輪の間に盾持人と朝顔形埴輪が規則的に配置されていました。これをもとに埴輪列を再現しました。
○葺石ーーー二段に築かれた墳丘や中提内側の斜面は山石や河原石で覆われています。
■中提複眼前の断面
中提は6世紀初頭の榛名山の火山灰層の上に土を盛って築かれています。
このことから古墳は6世紀の前半に造られたことがわかります。
中提の円筒埴輪を見ました
次は、五料沼の西側を北へ進んで「後二子古墳」へ行きましょう
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