ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

岩手県花巻市、東和町町井「町井の夫婦杉とケヤキ」(市指定)です!!

2024-10-14 06:30:35 | 巨樹・大木
 東和町町井地区は、花巻市役所の東約12km、花巻市役所東和総合支所の南東約2kmのところです

 花巻市役所東和総合支所西側の県道43号線をJR釜石線の線路を潜って南西へ

 約300mで国道283号線(土沢バイパス)の信号を左(東南東)へ、遠野方面へ進みます

 約2.2kmで右(南西)へ、猿ケ石川を東和大橋で渡ります

 約700mで右(西北西)へ、約300mで道路右手に

 目的の「夫婦杉」が見えて来ます

 西側の町井地区活性化施設(公民館)前に車を止めさせて頂きました

 根元には東向き祠です

 南側から

 「花巻市指定天然記念物 町井の夫婦杉」の標柱です

 南西側から、目通り幹囲5.5mの巨木です

 西側から

 北西側から見上げました


 「町井の夫婦杉」の他に「ケヤキ」がすぐ北側にあるようです

 夫婦杉と公民館の間の砂利道を北へ進むと

 スギ並木の間に目的のケヤキです

 標柱です

 西側から

 北西側から見ました

 では、次へ行きましょう




 2024・9・12・15・25
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岩手県花巻市、東和町谷内2区「丹内山神社の文化財」です!!

2024-10-13 12:35:02 | 文化財・寺社
 東和町谷内2区は、花巻市役所の東南東約16km、花巻市役所東和総合支所の南東約7kmの所です

 花巻市役所東和総合支所西側の県道43号線をJR釜石線の線路を潜って南西へ

 約300mで国道283号線(土沢バイパス)の信号を左(東南東)へ、遠野方面へ進みます

 道成りに約4kmで右(南西)へ猿ケ石川を上瀬橋で渡って直ぐ左(南東)へ

 約1.6kmで、道路右手に赤い「丹内山神社」の大鳥居(一ノ鳥居)です

 約1.1kmで「丹内山神社表参道」の石鳥居(ニノ鳥居)が有りますが車で神社まで行けるようなので行ってみましょう

 約400mで丹内山神社前の駐車場に入りました、参拝客の車が数台止まっています


 西向きに参道入口です

 参拝案内です、参拝順路が記されていますが、逆に回ってしまいそうです

 「じい杉の根」があります

 ここからが前回「丹内山神社じい杉の根」の続きです

 境内社は、左から安産神・疱瘡神と、木の陰になって雲南神の祠です

 弓場石です、源義家がこの石の上で弓を射た場所跡とされています

 参道右手に境内社は、八幡社と賀茂神社の二社一棟造りです
 八幡神社、康平5年・1062年に八幡太郎(源)義家が勧請したものと賀茂神社・加茂次郎(源)義綱(義家の弟)が勧請したものです、源頼義(義家・義綱の父)が東征の際に宿陣し、朝敵追討を祈願したと伝えられています

 石段を上がります

 玉垣の中央に「肌石」です、丹内山神社七不思議、その3、肌石には昔から、雪が積もらないと伝えられています

 手水鉢です、丹内山神社七不思議その4、この手水鉢はどんな旱天でも水が乾くことがないと伝えられています、この日も水が溜まっていました

 赤い鳥居は四ノ鳥居です

 石段を上がると神門です

 社殿(本殿)です





 見事な彫刻です

 説明版です
   丹内山神社について
 この神社の創建年代は、約1200年前、上古地方が開拓の祖神、多邇知比古神を祭神として祀っており、承和年間(834~847)に空海の弟子(日弘)が不動尊象を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。
 さらに、明治始めの廃仏毀釈により丹内山神社と称し現在に至っている。
 この本殿は、現存の棟札によると、文化7年(1810)に再建されたもので、盛岡南部利敬公の代、当時の別当は小原和泉實吉であり、棟梁には中内村の吉重郎、脇棟梁に八重郎・宇助が造建にあたったことが知られる。
 この建造物の特徴として、本殿の内陣には、権現づくりの厨子が据えられており、正・側面の外壁一面に中国の古事や古事記・万葉風の彫刻、脇障子は唐獅子と牡丹が彫刻されている。
 県内の社寺建造物の内では彫刻装飾優位の建物で、当時の地方大工の力量を知ることのできる貴重なものであり、平成2年(1990)5月に県指定有形文化財(建造物)となっている。
 また、本殿の左側山頂付近の経塚(県指定史跡)から全国でも数個しかないと云われる影青四耳壷(白磁無紋の壷・北宋の花瓶)、湖州鏡、中国古銭、経筒など(県指定文化財)が出土しており、平安時代末期頃からの地域の優れた文化の跡が偲ばれます。
           東和町教育委員会

 石への登り口に手水が流れています


 御神体の石です

 説明版です
   アラハバキ大神の巨石(胎内石)
 1300年以前から当神社霊域の御神体として古くから大切に祀られている。
 地域に信仰の地として栄えた当社は、坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く領域の中心的祈願所であった。
 安産・受験・就職・家内安全・交通安全・商売繁盛等の他、壁面に触れぬようくぐりぬけると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると伝えられている巨石である。

 丹内山神社七不思議、その1、唐獅子です、障子の唐獅子をなめると居眠りしないと伝えられています

 丹内山神社七不思議、その2、つららです、神社境内の建物につららが下がらないと伝えられています

 では、次へ行きましょう




 2024・9・12・15・00
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岩手県花巻市、東和町谷内2区「丹内山神社じい杉の根」(市指定)です!!

2024-10-13 06:30:17 | 巨木・文化財
 東和町谷内2区は、花巻市役所の東南東約16km、花巻市役所東和総合支所の南東約7kmの所です

 花巻市役所東和総合支所西側の県道43号線をJR釜石線の線路を潜って南西へ

 約300mで国道283号線(土沢バイパス)の信号を左(東南東)へ、遠野方面へ進みます

 道成りに約4kmで右(南西)へ猿ケ石川を上瀬橋で渡って直ぐ左(南東)へ

 約1.6kmで、道路右手に赤い「丹内山神社」の大鳥居(一ノ鳥居)です 

 約1.1kmで「丹内山神社表参道」の石鳥居(ニノ鳥居)が有りますが

 史跡 丹内山神社経塚の標柱です

 鳥居の柱に説明書きです
    丹内山神社と藤原清衡の由来について
 当社権現の御神徳は、日ごと月ごとに霊験あらたかで、嘉保3年(1096)頃、当時の管領藤原清衡の信仰浅からぬものがあり、耕地24町を神領として、また山内に御堂108ヶ所を建立し、108躰の仏像を安置したと伝えられております。
 藤原清衡は、隣の郡である江刺の餅田の館に居りましたので、距離も遠くなかったことから、毎年の例祭には、清衡自身みずから奉幣して、祭りを司っていたと言われています。
 その後、中世の永徳4年(1384)から元亀2年(1571)にかけて、安俵小原氏(安俵城主)平清義・時義・義清等によって、御堂・大聖寺権現堂・観音堂を再興したと棟札等の史料に記されております。
              東和町

 周辺観光案内図には車で神社まで行けるようなので行ってみることにします

 更に約400mで大きな「丹内山神社⇐」の看板の所を左(北東)へ入ります

 約400mで丹内山神社前の駐車場に入りました、参拝客の車が数台止まっています

 駐車場脇の「はなまき市とうわ町観光案内図」です、数回前に行った毘沙門堂も図の左方に記されています

 西向きに参道入口です

 説明版です
   丹内山神社と藤原清衡公の由来
 当神社は地方開拓の祖神として栄え、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷の際に参寵される等、日ごと月ごとに霊験あらたかで、嘉保3年(1096)頃から当時の管領藤原清衡公の信仰が篤に厚く、耕地24町歩を神領として寄進され、また山内には御堂108ケ所を建立し、108躰の仏像を安置した社と伝えられています。 
 藤原清衡は、隣の郡である江刺の餅田の館に居住していたことから、当神社に距離も近く、毎年の例祭には、清衡自ら奉幣して、祭りを司っていたと言われています。
 その後は、安俵城主小原氏、(平清義・時義・義清)更には、南部藩主南部利敬公の崇敬が厚く、藩主の祈願所として栄え、現在に至っています。
            東和町観光協会

 参拝案内です、参拝順路が記されていますが、逆に回ってしまいそうです

 参道に入って直ぐに左手に駒形社です

 目的の「じい杉の根」があります

 南西側から、根株に成っても花巻市指定天然記念物です

 説明版です
   御神木爺杉の根
 この杉の根株は、根回り12.12m、高さ約60m、樹齢2000年の古木と伝えられています。
 大正2年(1913年)、延焼により焼失しましたが、その根株を保存しています。 

 南側から

 赤い両部鳥居は三ノ鳥居です

 参拝順に従って境内を見て参りたいところですが・・・

 参道脇のイチョウです

 七不思議説明版です
   丹内山神社七不思議
     その6、銀杏
 この銀杏の葉は、どんな強風でも境内の外に飛び散らないと伝えられています。

 観音堂祖霊社相殿です

 説明版です
   岩手県指定有形文化財(彫刻)
     木造十一面観音菩薩立像
       指定年月日 平成6年9月16日
       所在地   花巻市東和町谷内
       所有者   丹内山神社
       法量    全高158cm
 丹内山神社の由緒によると、平安時代に、平泉・藤原氏からこの像が寄進されたと伝えられています。
 一木造りで、像容に多くの類似点が見られることから、凌雲寺・十一面観音立像と同一の人物により制作されたと考えられています。
 明治初年の廃仏毀釈によって、東和町安俵の凌雲寺に移されていましたが、後に丹内山神社に戻されて今にいたります。
   花巻市指定有形文化財(彫刻)
     丹内山神社仏像(不動明王立像)
       指定年月日 昭和32年3月31日
       所在地   花巻市東和町谷内
       法量    全高135cm
 一木造り、虫損や風化により詳細な像容は把握できませんが、肉付の少ない体躯や静的な姿勢から、平安時代から鎌倉時代頃の作と考えられます。
 木造十一面観音立像と同様、明治初年の廃仏毀釈で、凌雲寺に移されていましたが、後に丹内山神社に戻されて今に至ります。 

 
 長く成ってしまいましたので、続きにさせて頂きます<m(__)m>



 2024・9・12・14・50
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岩手県花巻市、東和町毒沢6区「毒沢のサワラと桜の寄木」(市指定)です!!

2024-10-12 18:51:04 | 文化財・樹木
 東和町毒沢6区は、花巻市役所の南東約12km、花巻市役所東和総合支所の南約5kmのところです

 花巻市役所東和総合支所西側の県道43号線をJR釜石線の線路を潜って南西へ

 約300mで国道283号線(土沢バイパス)の信号を過ぎると県道39号線です

 約500mで東北横断自動車道東和インターチェンジ入口を過ぎて、自動車道の下を潜って

 道成りに約1.8kmで「⇐田瀬湖・県道284号線」の標識に従って、一時停止を左(東南東)へ

 道成に約2.3kmで「⇖田瀬」の標識に従って斜め左(南東)へ進みます

 約1.2kmで「江刺・北上・国道456号線⇒」の標識に従って一時停止を右(南南西)に出ます

 約700mで国道右手に

「サワラと桜の寄木」の案内場があります

 案内板の側に車を止めさせて頂きました

 サワラと桜の寄木は墓地の奥ですのでここを上がります

 墓地の奥に目的の「サワラと桜の寄木」はこの奥にあるようです

 墓地の中を進みます

 南東側から目的の「サワラと桜の寄木」です

 説明版です
   毒沢のサワラと桜の寄木(昭和45年4月指定)
 サワラ(ひば)の根元1mくらいのところから、カスミザクラが生えていて、まるで親子のような感じです。
 地元では「ひば生い桜」と呼ばれています。
 樹齢は、290年と思われます。
 *樹形・幹周3.9m、樹高20m、枝張10m (平成3年 環境庁調査報告書)

 南側から

 西側から

 北側から桜を見上げました

 では、次へ行きましょう


 2024・9・12・14・30
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岩手県花巻市、東和町中内1区「中内熊野神社の姥杉」(市指定)です!!

2024-10-12 06:32:00 | 巨樹・大木
 東和町中内1区は、花巻市役所の南東約10km、花巻市役所東和総合支所の南南西約6kmのところです

 花巻市役所東和総合支所西側の県道43号線をJR釜石線の線路を潜って南西へ

 約300mで国道283号線(土沢バイパス)の信号を過ぎると県道39号線です

 約500mで東北横断自動車道東和インターチェンジ入口を過ぎて、自動車道の下を潜って

 道成りに約1.8kmで「⇐田瀬湖・県道284号線」の標識に従って、一時停止を左(東南東)へ

 道成に約2.3kmで「北上⇗」の標識に従って斜め右(南西)へ進みます

 約2.1kmで「常泉寺⇒」の案内板を右(北西)、約300mで

 神社の幟の支柱の所に「中内熊野神社の姥杉⇒」の案内板がありますので

 奥に鳥居が見えますので、右(北)へ砂利道に入ります

 鳥居前の広場に車を止めさせて頂きました

 村社熊野神社社號標です

 ここから参道を車でも進めそうでしたが、歩いて行きました

 左手の池(溜池)には

 スイレンが咲いています

 鳥居が見えて来ました

 ニノ鳥居のようです

 間も無く右手に手水鉢です

 脇には沢から引かれた冷たい水が出ています

 神社境内を見ました、境内入口石段脇に大きなスギが立っていますが、目的の婆杉ではありません

 左手の建物二つは神楽殿(舞殿)のようです

 石段を上がります

 南向きに拝殿です

 本殿です

 説明版です
   花巻市指定文化財
     中内熊野神社「本殿」
   (建造物 昭和52年8月30日指定)
 建築年代  文化13年(西暦1816年)
 棟梁 吉重良・脇棟梁 八重良・同 市之助
 建築様式  本殿は、隅木入り春日造り
       向拝は、1間半に1間の流れ造り
 彫刻    向拝虹梁に唐草
       向拝升組に象と唐獅子の木鼻上部に牡丹
       本殿升組に龍木鼻
       脇障子は牡丹に唐獅子
 (熊野神社の創建は大同2年・西暦807年)

 本殿左方の斜面に目的の婆杉です

 東側の本殿脇から見上げました

 南東側から

 説明版です
   姥杉(昭和45年4月指定)
 中内熊野神社の境内に大きな杉の木がそびえていて、古くから姥杉と呼ばれています。
 樹齢550年以上といわれ、高さは30m、太さは7~8mで樹木の長い命を感じさせます。
 *目通り幹囲は7.3m(環境庁日本の巨樹・巨木林)です

 南側から

 南西側から見上げました

 根元には境内社です

 石碑が並んでいます

 大きな庚申塔です  

 では、次へ行きましょう




 2024・9・12・14・00
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岩手県花巻市、東和町北成島5区「熊野神社 の千年杉(爺杉)」です!!

2024-10-11 20:25:00 | 巨樹・大木
 東和町北成島5区は、花巻市役所の東南東約9km、花巻市役所東和総合支所の南西約4kmのところ

 花巻市役所東和総合支所西側の県道43号線をJR釜石線の線路を潜って南西へ

 約300mで国道283号線(土沢バイパス)の信号を過ぎると県道39号線です

 約500mで東北横断自動車道東和インターチェンジ入口を過ぎて、自動車道の下を潜って

 道成りに約3kmで

 熊野神社参道入口です

 手前の大きな「熊野神社毘沙門堂」の看板を北へ入って坂道を約700m(標高差約80m)上ります

 熊野神社・毘沙門堂前の駐車場に入りました

 成島ふるさと山宝道の案内図です

 新奥の細道説明版です
   毘沙門天のみち
 この道は、毘沙門山から、燈籠並木、舘山公園、萬鉄五郎記念美術館を通り東和町役場までの6.5kmのみちです。
 毘沙門山には木像の一本造りとしては日本一の高さを誇る兜跋毘沙門天立像があります。
 そこを下ると、300年程前から受け継がれてきた手すき和紙の工芸館があります。
 舘山公園は、桜といわて紫ツツジの名所で市街が一望できます。

 宮沢賢治ゆかりの地「成島熊野神社」案内板です

 熊野神社・毘沙門堂入口です

 徒歩での参道を見下ろしました、汗をかきそうですね

 熊野神社社號標です

 毘沙門堂の寺号標です

 「⇐順路」の表示に従って進むと

 参道石段を上がって進むと、赤い両部鳥居前に出ます

 手水舎です

 拝殿です


 本殿です

 説明版です
   岩手県指定有形文化財 三熊野神社
 三熊野神社の本殿は、向拝流棟造りで、御祭神は熊野の三神で伊弉冉之命(いざなみのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)、早玉男命(はやたまおのみこと)を祀っています。
 言い伝えによると、延暦年中(782~806)征夷大将軍坂上田村麻呂がエミシ征伐の時、この地で紀伊の熊野三山に戦勝祈願をしたところ難なく平定することができ、熊野三山の神威を祟び熊野の三神を勧請し、三熊野神社を建立したと伝えられています。 
 康平5年(1062)に源頼義が安倍貞任を追撃しここに立ち寄った時、熊野神社に鏑矢を収めて戦勝祈願をしたところ安倍氏を破り奥羽を平定する事ができたと伝えられています。
 中世には、和賀領主より社領70石を寄進され、元和4年(1618)に南部利直公より社領23石をいただいています。
 県内では数少ない古代建築様式をもつ建造物であることから昭和54年に県の有形文化財に指定されています。

 拝殿脇前に指定神社看板の脇に「⇐樹齢千年と云う千年杉・爺杉」の案内板です

 西側の鎮守の森の中に太い幹は見えました

 目的の「千年杉・爺杉」です

 南側から、樹高35m、目通り幹囲5.9mの巨木です

 西側から見上げました


 南側の森の中にも、大きなスギが有ります、目通り幹囲は4.5m(目測)程の大木です

 熊野神社拝殿前に戻ります

 背の高いスギです

 手前にハート型の椅子状の台が置かれています

 説明版には
 「不来方の(お城の)草に寝ころびて 空に吸われ(し) 十五の心」啄木
 *(石川啄木の歌です、明治43年11月発刊の「スバル」に収録の110首の内の1首です)
 古代杉の根本に寝ころび、天空を仰ぎ見ることにより、自らの生命力、勇気と自信が湧いてきます。
 各々に感じたことを尊重して、人生を謳歌することをおすすめします。宮司

 古い大きな切株に注連縄の結界が作られています

 まだまだ細いスギですが御神木です

 手形の板が掛けられています

 説明版です
 この古代杉は、千年以上の年輪を重ね古来より幾多の困難と風雪に耐えてきた”御神木”であります。
 この生命力、あるいは目に見えぬ活動力、エネルギーは人間形成に大きな力を与えてくれるものです。
 自らこの手形に自分の手を添えて念じて、パワーをいただくことをおすすめします。宮司

 大きな屋根の下には、泣き相撲の行われることで有名な土俵が有ります

 平成23年3月11日に発生した東日本大震災の地震によって参道に落ちて来た「さざれ石」です

 境内社には狐の置物がありますので稲荷社の様です

 熊野神社から北東へ進むと御堂です

 手水鉢もさざれ石の様ですね

 毘沙門堂です

 では、次へ行きましょう




 2024・9・12・13・20
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岩手県花巻市、四日町1丁目「広隆寺の大いちょう」(市指定)です!!

2024-10-11 12:32:00 | 巨樹・大木
 四日町1丁目は、花巻市役所の北約1.5kmのところ

 花巻市役所の南西側の「花巻市役所前」信号を西へ、約150mの信号を右(北)へ

 約m800mで「花巻信用金庫一日市支店」前信号を左(西北西)へ

 すぐに(約150m)で右(北北西)へ、約200mで

 左手に東南東向きに広隆寺です

 参道脇が広い駐車場に成っています

 寺号標です

 三門(解脱門)です

 三門を潜ると左手(西側)に鐘楼です

 右手(東側)に目的のイチョウです

 西側から

 「花巻市指定天然記念物 広隆寺の大いちょう」の標柱です

 北側から、目通り幹囲5.2mの巨木です

 東側から、小さな乳柱(気根)を見ることが出来ます

 南側から

 枝先には、沢山のギンナンが実っていました

 本堂です

 説明版です
    広隆寺の文化財(浄土宗 藤興山 廣隆寺)
      木造阿弥陀如来坐像 花巻市指定有形文化財(彫刻)
      広隆寺の大いちょう 花巻市指定天然記念物(植物)
 広隆寺は、鎌倉時代に浄土宗の法然上人の高弟が布教した際に拠点とした官野目下以内の「念仏庵」を前身としています。
 その後、南北朝時代の終わりころ、浄土宗の良誾上人(りょうぎんしょうにん)が当地に布教した際、領主の稗貫氏が、浄土宗に深く帰依し亡くなった息子を弔うために建てた寺院に、息子の名「広隆」をつけたのが起源とされています。
 広隆寺には、花巻市指定文化財2件のほか、いくつもの重要な文化財があります。
    花巻市指定有形文化財(彫刻)
      木造阿弥陀如来坐像
        像高 89cm、檜材、寄木造り、漆塗り金箔押し
 江戸時代初期の中央仏師が平安・鎌倉の古様を取り入れて制作したと見られており、流麗優美な作風の中にも調和のとれた安定感のある仏像となっています。
        昭和56年(1981年)3月12日 花巻市指定
    花巻市指定天然記念物(植物)
      広隆寺の大いちょう
        樹高   約30m  樹齢600年程
        枝張り  東西約22m、南北約21m
        根元周 6.00m、根元径1.91m
        目通周 5.10m、目通径1.62m
 この木は、広隆寺を建てた際に植えられたと伝えられる古木ですが、幹には空洞もなく、イチョウの古木に特徴的な乳房状突起があらわれ、凛然とした樹姿に風格のある大木となっています。
        平成9年(1997年)11月18日 花巻市指定
 広隆寺には、これらの指定文化財以外にも、寺の古い記録をまとめた「寺宝旧記留」、京都の泉涌寺からの「十王図」、花巻三画人の一人である小野寺周徳の作と伝えられる「十六羅漢杉戸絵」などが保存されており、周徳自身の墓所も、ここにあります。
       平成19年3月 花巻市教育委員会

 本堂前からイチョウを見ました

 では、次へ行きましょう



 
 2024・9・12・12・45
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岩手県花巻市、仲町「観音寺跡の千本カツラ」(市指定)です!!

2024-10-11 06:31:12 | 巨樹・大木
 仲町は、花巻市役所の直ぐ東側です、市役所のある場所は「花巻城」の跡です

 花巻城案内図です、城跡の南東端に観音寺跡があります

 古絵図にも観音寺が下側の枡形が連続する間に記されています、観音寺も一の馬出のような攻撃施設だったのかもしれませんね
     枡形
 円城寺坂までの道は「枡形」という防御施設であり、見通しの利かない様に道を入り組ませた場所をいい、敵の軍勢が道を進むときに、勢いを弱めたり、待ち伏せしたりして簡単に進めないようにするするためのもの。
 花巻城のいたるところに、このような「枡形」は造られました。

 花巻市役所の南西側「花巻市役所前」信号を東(市役所南側)に入って、直ぐに南東へ細い道路を下ります

 間も無く一時停止を左(東)へ出て、約30mで左(北)へ、正面と左手に鳥居が有ります

 左手の鳥居の先にカツラが見えました

 鳥居脇に車を止めさせて頂きました

 鳥居脇の標柱に「観音寺観音堂」の文字の下に小さく「名木 千本桂」の文字が見えます

 参道を進みます

 観音堂です

 説明版です
   延寿寺観音堂の由来
 この観音堂の起源は詳しくわかっていないが、花巻開町の租である「北松斎(きたしょうさい)」も厚い信仰を寄せていた観音堂(観音寺)であったと伝えられている。
 この観音堂(観音寺)は、東国三十三観音の25番札所であり、花巻七観音参りの一つとして賑わっていた。
 しかし、明治政府の神仏分離令(注1)によって観音寺は廃寺となり、観音像(注2)など寺の宝は他の寺へ移され、観音堂(本堂)は西宮野目の「御嶽神社」拝殿として移された。
 現在の「延寿寺観音堂」は、明治の中頃に町内の講中(注3)によって新しく建てられ、新たな本尊として十一面観音立像などが大切に納められ、毎年7月17日の宵宮や12月17日のの年越祭が縁日とされています。
 また、境内にはその歴史を物語るように、樹齢数百年と伝えられる「千本桂」があり、花巻市の天然記念物に指定されている。
 そのほかにも、境内には天保14年(1845年)9月と刻み込まれた「庚申塔」(注4)や嘉永7年(1854年)7月7日と印された当国三十三所塔など、当時の観音巡礼を記念した石碑が建てられてあり、江戸中期の石碑として貴重なものです。
 また、盥水(たらいみず・注5)には享保2年(1717年)奉納と刻まれている。

 注 1明治元年に政府により発令された法令で「神社」と「お寺」を別々にするてめのもので、全国でお寺が廃止になったり合併になったりした。
   2北松斎公の持仏「髻観音(もとどりかんのん・戦の時に兜の中に納めた観音)」や「お前立ち(本尊の前に安置した仏像)十一面観音」などが寺の宝として納められていたと言われている。
   3講中とは、神仏の信者が作った団体。
   4「庚申塔」とは、旧暦の「庚申」の日に体内に棲む「虫(三し)」が天に昇りその人の行いを天帝(帝釈天)に伝えると言われ、その日は行いを慎み、「虫」が出ないよう、徹夜で過ごした。この様な集りを記念して建てられた塔を「庚申塔」といいます。
   5「盥水」は神社でよく見かける石をくりぬいて水をためているもの。

 北側の御堂です

 千本桂を東側から見上げました

 花巻市指定天然記念物千本カツラの標柱です

 南東側から、根元にはモミジも見られます

 南側から

 北側に廻って見上げました、第一世代が無くなって第二世代が大きな株に成長しています

 北側から

 では、次へ行きましょう


  

 2024・9・12・12・30
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岩手県花巻市、外台「奥州街道名残りの松(がけの松)」(市指定)です!!

2024-10-10 18:31:42 | 巨樹・大木
 外台地区は、花巻市役所の南南東約2kmのところ

 花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を南へ進みます

 約600mで一時停止の丁字路を左(東)へ、県道12号線です

 次の信号約150mで右(南南東)へ、豊沢川を「豊沢橋」で渡ります

 約1.4km「花巻市立南城小学校」が右手になったすぐ先で道路左手(東側)に「奥州街道名残りの松」が有ります

 先(南側)の道路脇に車を止めて戻って来ました

 目的の「奥州街道名残りの松」です

 南側から

 説明版です
   旧奥州街道
 奥州街道は江戸時代の五街道の一つで、明暦3年(1657)藩主の勅命によって改修された。それ以前は岩崎街道が本街道であった。
 この附近の街道には昭和20年代まで往時を偲ぶ松並木が残っていたが、街道の拡幅・風による倒木等でほとんどその姿を消し、わずかにこの「がけ」の松と、校庭の松を残すのみとなった。
       花南教育振興協議会・花南地区コミュニティ会議

 西側から、ガードレールの直ぐ脇から太い幹が横に伸びています

 北側から、鉄骨で幹を支えています

 車を止めていたところから、下側の農地へ行ってみます

 銀河南大橋への国道4号線手前、奥州街道名残りの松(がけの松)から南へ約250mで左(東)へ、坂道を下って行くと北上川の氾濫原の農地です


 南東側から


 東側から


 北東側からでした

 では、次へ行きましょう


 2024・9・12・12・05

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岩手県花巻市、石神町「鼬幣(いたちべい)稲荷神社の御神木(スギ)」です!!

2024-10-10 13:13:01 | 巨樹・大木
 石神町は、花巻市役所の南西約1.5kmのところ

 花巻市役所の南西側「花巻市役所前」信号を南へ進みます

 約300mのハンコ屋さん(印鑑店)前の信号で右(西)へ

 約1.1kmで道路右手に鼬幣稲荷神社が南向きに鎮座します

 手前を右(北)へ鼬幣稲荷神社の駐車場に入りました

 駐車所入口の「宮沢賢治ゆかりの地」案内板は宮沢賢治のイメージの帽子にマントそして猫が取り入れられています 

 南東側駐車場から目的の「御神木」を見ました

 郷社鼬幣稲荷神社社號標です

 境内案内図です

 手水舎です

 両部鳥居です

 拝殿です

 拝殿前の「御神木」のスギです

 説明版です
   鼬弊稲荷神社
     鼬弊(いたちべい)稲荷神社の由緒
 当社は、天和元年(1681年)徳川5代将軍綱吉公の時代、南部29代藩主重信公が神託により鼬熊野(現在地)を社地として寄進鎮座す。
 南部藩三稲荷の一つ南の守護の神として、藩主代々領民の安泰五穀豊穣諸祈願成就を祈願信仰崇敬された。
 この発祥は「二郡見聞私紀」に、当時花巻郡代野々村宇右エ門が、ある日夢の中に白髪の老人が白狐にのり「われは稲荷なり、汝支配する下根子に垂跡せん」とのお告げがあった。
 夢から覚めた翌日、水ごりをとり現地に訪れてみると、石神五郎助の地にある川端の大石に白紙一帳あり、そこへ鼬がはせ来たり、その白紙をくわえ西方へ走り出したあとをついていくと白紙は御幣となり、現在の神社の場に置き消え失せた。
 この神社が鎮座された時、山が二つに割れ、清水が湧き出したという、現在も本殿の後が割れて、沢になって水が湧いて居ります。
 鼬弊と申所以是也
 仙台領胆沢・南部領和賀町を経て天和元年に当所に鎮座、114代中御門天皇より、享保10年6月9日正一位を授けられる。 
 御祭神
 宇迦御魂命(ウカノミタマノミコト)食物・殊に稲をつかさどる神様。
 豊受姫命 (トヨウケヒメノミコト)食物・穀物の神様
 鼬弊稲荷神社の御神木
   樹齢  推定800年
   樹高  30m
   胸高周  5m40cm
   落雷により幹上方先端切除防腐処理しております。
   樹木医診断日 令和3年7月
 稲荷神社の御神詠
   いなり山ふもとの早苗とりどりに 神にぞいのる秋のみのりを
 例大祭  9月9日
    令和3年8月吉日  鼬弊稲荷神社 宮司 古川智之

 西側拝殿前から御神木を見上げました


<
 大きな覆い屋の屋根の下に本殿です

 北東側から見ました

 本殿西側の熊野神社社殿です

 熊野神社後方の斜面の境内社は熊野山社とお室です

 東側には、境内社の金勢神社と右後方に水天大滝神です

 境内社の八雲神社と三宝荒神です

 社務所裏側の池には綺麗な水があります、説明版にあった山が割れた沢の水かも知れません、池には鯉や金魚がいましたよ

 では、次へ行きましょう


 
 2024・9・12・11・20
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岩手県花巻市、膝立観音山「円万寺観音堂の祖母杉」は枯れてしまったのでしょうか!?

2024-10-10 06:32:00 | 巨樹・大木
 膝立観音山地区は、花巻市役所の西北西約7kmのところ

 花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を西へ、約250mで「花巻駅・県道103号線⇒」の標識に従って右(北北西)へ

 約200mの信号を左(西)へ跨線橋で東北本線を越えます、約400mで信号を右(北北西)へ

 約500mで信号を左(西お)へ、西大通です、約5.2kmで信号を右(北北東)へ、県道37号線です

 約500mで左側に八坂神社の鳥居があります

 鳥居を潜って西へ、標高差約100mの参道(車道)つずら折りの坂道を上って行くと駐車場に入りました

 境内案内図です

 ここから前回の「八坂神社・円万寺観音堂」の続きです

 「祖母杉」は八坂神社拝殿と円万寺観音堂の間の南側築山状の部分に立っています

 南側から傷んだ幹です

 南西側から、杉の葉が見られませんが枯れてしまったのでしょうか

 説明版です
   祖母杉(おおばすぎ)
 この祖母杉は、大同元(806)年に坂上田村麿が奥州蝦夷平定のため稗貫郡まで進んで来たときに「戦い勝利の後、観音様をお迎えしよう」と言ってそのしいるしに植えた2本のうちの一本です。
 翼2(807)年、東夷を平定した坂上田村麿は、再びこの地を訪ね、馬頭観世音をお祀りしました。
 それから約950年後の宝暦年間(1751~61)の頃からと考えられていますが、当国(和賀・稗貫・志和(今の「紫波」)の三郡)三十三所観音巡礼札所が設けられ、ここの観音様は第2番の札所として栄え、今もお参りする老若男女の人達が後を絶ちません。
 さて、藩政末期に花巻地方はもとより、南部藩でも文化面で活躍した名須川義武・松岡一秀・堀内政易の三人が、嘉永2(1849)年に撰文・揮毫・彫刻の役割を分担して作成し、観音堂に奉納した竪板置額の「祖母杉之記」に「・・・祖母杉は健にして高さ凡そ二十丈斗太さ十五尋余根の回り六十間ほど・・・およそ日の本に双ぶる大樹なしと称誉せしと也さるを天保10(1839)亥年睦月元旦の日いかなるゆへともしらずうろの中より火出て半刻をまたず焼折れ一の枝のみのこれり・・・」とありますが、今日も樹皮だけの幹で「一の枝」の重さを支えながら、驚くべき生命力で生き続けているこの祖母杉は、正にこの地の千古の歴史を物語るものであり、その重要性を伝える歴史的徴証であります。
 なお、自然石を巡らしていますが、これは祖母杉の樹勢が盛んなころに、祖母杉の根が地上に累々と重なり合っていましたが、その元の根の回りを復元して表したものです。
      平成9年9月    社団法人 花巻観光協会

 西側から、説明版ではまだ枯れていないとされていますが・・・わかりませんね

 北西側から

 北側から

 南東側から

 南側の若いスギの大木です

 南側から

 一燈庵です

 説明版です
   多田等観ゆかりの円万寺観音堂
 多田等観は、大谷光端の命により大正2年(1913)チベットに渡り、国王ダライ・ラマ第13世の庇護のもとで、ラマ僧として10年間修業し、外国人として初めてラマ教の最高学位であるゲシェ(大僧正)に任ぜられ、帰国に際し、法王から経典・仏像など多数贈られました。
 帰国後は、東京大学他で講師を歴任しましたが、昭和20年(1945)戦禍から経典・仏像を守るため、実弟の光徳寺住職鎌倉義蔵の住む花巻に疎開してきました。
 昭和22年(1947)に、ここ円万寺観音堂境内に「一燈庵」を村人から贈られ光徳寺から移り住み、村人と親しく交友しながら、独居・自炊の生活をしました。
 また、この頃隣村の大田村山口部落に疎開していた高村光太郎とも深い親交がもたれました。
   一燈庵
 入口の額は、等観の書によるものです。
 一燈庵脇に経堂を建立し、チベット請来の経典・仏像を収蔵しましたが、昭和26ね(1951)に渡米のため観音山を離れるに当たり、光徳寺(花巻市南川原町)境内に、「蔵俼館」が建造され、貴重な経典・仏画等が移され、現在では市に寄贈されています。
   千手千眼十一面観音像 
 円万寺観音堂の本尊である千手千眼十一面観音像は、等観がダライ・ラマ第13世から守り本尊として賜り常に身の側に置いて大切にしていたものを地元の崇敬の場である円万寺観音堂に寄贈奉安したものです。
   梵鐘
 円万寺観音堂の鐘が、室町時代の戦乱の中で失われた話を聞いた等観は、梵鐘の鋳造を発願し、昭和25年(1950)4月17日に撞き初めが行われました。
   無量寿の碑
 昭和48年(1973)に等観の7回忌を記念し、その偉業を讃えて地元民が建立しました。
 碑名には等観の遺墨の中から「無量寿」が選ばれました。

 一燈庵の西側には石碑が沢山あります、無量寿の碑です

忍び駒の碑です

 供養碑等です

 報国碑です

 境内南側の鳥居です、鳥居の後方に「祖母杉」の説明版が見えています

 展望台からの眺めです、北東側

 南東側

 徒歩で登って来る参道を覗いてみました

 
 では、次へ行きましょう


 2024・9・12・10・45
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岩手県花巻市、膝立観音山「八坂神社と円万寺観音堂の文化財」です!!

2024-10-09 18:34:00 | 文化財・寺社
 膝立観音山地区は、花巻市役所の西北西約7kmのところ

 花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を西へ、約250mで「花巻駅・県道103号線⇒」の標識に従って右(北北西)へ

 約200mの信号を左(西)へ跨線橋で東北本線を越えます、約400mで信号を右(北北西)へ

 約500mで信号を左(西お)へ、西大通です、約5.2kmで信号を右(北北東)へ、県道37号線です

 約500mで左側に八坂神社の鳥居があります

 鳥居の足(土台)には鳥居の貫上の額束にあった懸額が置かれています

 八坂神社社號標です

 円万寺観音堂寺号標です

 鳥居を潜って西へ

 頂上まで700m(標高差約100m)の参道(車道)つずら折りの坂道を上って行くと駐車場に入りました

 境内案内図です

 もう一枚は「円万寺観音山展望地鳥瞰図」です

 新奥の細道の説明版です
    湯治場のみち
 このコースは、チベット学の権威多田等観の一燈庵がある円万寺観音堂を起点とする、全長11.2kmの自然歩道です。
 大きな鳥居を抜け、整然として田園地帯を行くと、森林浴と川のせせらぎを満喫できる林道が始まります。
 林道終点の別れ道で少し足をのばすと、縁結びなどで知られる金勢神社があります。
 つづら折りの道を下り、豊沢川の渓流を渡ると、露天風呂で有名な大沢温泉があります。
 約4時間の自然と語りあえるコースです。

 神楽殿です

 説明版です
    岩手県指定無形民俗文化財
      円万寺神楽
 花巻に伝承されている神楽は、山岳信仰の基づく修験者集団によってもたらされた、山伏神楽がその主流をなしており、どの伝承経路から早池峰岳神楽系、円万寺神楽系、和賀大乗神楽系に大別される。 
 円万寺神楽は古くから、観音信仰を背景に栄えた湯口地区の円万寺(花巻市膝立字観音山)を拠点に、早池峰神楽、和賀大乗神楽とほぼ同時期に伝えられたとされている。
 かつて修験者たちは毎年霞(縄張り)の村々を巡回し、悪魔払い、火伏の権現舞を行なったといい、現在、権現舞はもとより、式六番の舞、多数の狂言等を演目として伝承している。
 また、北松斎公にまつわる伝承もあり、鳥谷崎神社祭礼で演じられるなど密接な関係がうかがわれる。
 七拍子による繊細で優雅な舞振りを特徴とする格式ある神楽である。
 ◇演目(式六番)鳥舞・千歳翁舞・三番叟・八幡舞・山の神舞・岩戸舞・
         鞍馬・天女・稲荷舞・五穀舞・鐘巻・三韓・蕨折・橋懸け・曽我・天王舞・権現舞・狂言数番
 ◇上演時期   地区神社祭礼・地区の祝事等  
      昭和36年7月  花巻市指定
      昭和49年2月  岩手県指定   花巻市教育委員会

 「染滝盥水」の手水舎です

 八坂神社拝殿です

 本殿です

 説明版です
    八坂神社
 村社  膝立第一地割郷村社地鎮座
 祭神  須佐男命
 創立  大洞2年(807)3月17日
 現在地は、元円満寺馬頭観世音境内にして、明治維新廃仏毀釈の際、本尊を山下の草堂に遷し、本社を矢川より奉遷し祭祀したるものにして、創立年月は即ち元円満寺観音の縁記によりたるものなり。
 祖母杉之記社内のあり、以て其縁由を知り得べし。(大正7年刊 湯口村誌抜粋)
 由緒  蝦夷征伐のためにこの地方にやってきた坂上田村麿が、大同2年(807)持仏の観音をまつったのが円万寺観音堂だといわれている。
 廃仏毀釈のため、明治5年(1872)円万寺観音堂の本尊を山の麓の草堂に移し、観音堂にそれまで円万寺の矢川というところにあった八坂神社を奉遷し、部落の氏神として崇拝した。
 廃仏毀釈もおさまったので本尊を観音堂に復させ、明治41年(1908)本殿、拝殿を新築し今日い至っている。(昭和41年花巻市教育委員会刊 花巻市史・神社篇抜粋篇)
     観音堂
 現在の観音堂は、嘉永4年(1851)の建造で、昭和38年(1963)の秋に萱葺き屋根を亜鉛メッキ銅版葺きに葺き替えをしていたが、40余年も経過し、各所が破損したので、平成17年(2005)6月全面葺き替えをして現在に至っている。
 また、建造以来150余年経過して風雨にさらされた外部建具が損傷していたので、さる篤志家の寄進により、平成15年(2003)4月、全面新調された。
     本尊
 御本尊は、坂上田村麿が大洞2年(807)に勧請した馬頭観音で、近郷近在の人々の篤い信仰を集めていたが、明治初年に起きた廃仏毀釈の運動を避けて、太田の清水寺に移し匿ってもらった。
 その後、廃仏毀釈の運動が終息してから、麓に草堂を建立し、明治12年(1879)7月14日に清水寺から御本尊を奉遷したと伝えられていた。
 しかし、その後、いつの頃からか御本尊の所在が不明となっていた。
 そのことを聞いた多田等観は、非常に悔しんでチベットのダライ・ラマ第13世法王か請来し、殊のほか大事にしていた千手千眼十一面観音像を昭和22年(1947)4月8日に観音堂の御本尊として寄贈奉安した。
 また、平成4年(1992)9月13日には、八坂神社宮司の佐藤家が、同家に伝わる観音像を観音堂に遷座し、多田等観が寄贈の観音像とともに須弥壇に祀られている。
 この佐藤家から遷座の観音像は、岩手県立博物館では銅造十一面観音座像懸仏で、室町時代(1392~1573)の制作であると説明している。
     平成23年(2011)7月14日   八坂神社 観音堂

 宝物庫の様です

 説明版でです
   花巻市指定有形文化財(歴史資料)
     正慶の碑(正慶元年)  材質 安山岩 法量 高さ140cm、幅58cm
    指定年月日  昭和35年5月7日
    所在地    花巻市膝立字観音山 八坂神社境内
 この碑は、正慶元年(1332)の紀年紀が刻まれた碑で、この地方の領主が戦死者供養のために建立したと推定されています。
 碑面には、梵字や蓮華座が刻印され、彫りは雄渾で明瞭ですが、文字部分は彫りが浅く、風化が進み判読しにくくなっています。
 明治の初め頃、八坂神社を矢河の地(現・花巻市円万寺矢川)から観音山の現在地に移した際に、この石碑も一緒に移したといわれ、もとは正慶2年の碑と同じ場所にあったものと考えられていっます。
 正慶元年は北朝の年号で、南朝年号の元弘2年に当たり、当寺花巻地方では北朝の勢力が優勢であったことを示す一資料であり、また花巻地方にある古い石碑の一つです。
 花巻市の歴史を知る上で手がかりとなる貴重な有形文化財です。
         花巻市教育委員会     

 円万寺観音堂です

 観世音碑です

 阿弥陀堂です

 鐘楼です

 梵鐘です

 説明版です
   梵鐘と鐘楼
 この梵鐘は、応仁の頃(1467~69年)円満寺にあった梵鐘が持ち去られた事蹟に基づいて、その復元と太平洋戦争までの戦没者の慰霊をしようとの遠大な目的で、昭和24(1949)年に多田等観が発願し、当時の湯口村民の賛同と近隣町村有志の浄財をも寄せられて新鋳された梵鐘です。
 鍾銘の正面には、チベット文字とその下に漢字で、「観其音声皆得解脱」とあります。
 これは観音経にあることばで、「この鐘の音を聞けば 皆安らかな境地に至りますよ」という意味です。
 そして鍾銘の最後のところは漢詩で「余韻は嫋嫋として山川に散満す 萬霊は怳忽す 孰れか涅槃を疑はんや」と結んでいますが、この鐘の音は、正によろずの霊をして、とりとめなくうっとりさせてくれるよい音色です。
 この鍾銘の撰文は、その往時、早稲田大学の漢字の教授であった川田瑞穂によるものですが、川田は昭和20(1945)年8月15日に玉音放送されて「終戦の詔書」草案にかかわったことで知られる有数の漢学者であります。
 鐘楼は、昭和25(1950)年に地元円万寺、膝立の有志の献材と地元以外の奉仕者も加わって完成した鐘楼でありましたが、建築後47年の歳月が経つうちに柱の腐食が進みましたので、平成9(1997)年9月に円万寺、膝立地区民の賛同による浄財と多田等観の遺族に寄進等によって改築したものです。
       平成9年9月      円万寺観音山を守る会

 長く成りましたので続きにさせて頂きます、次は「円万観音堂の祖母杉」です




 2024・9・12・10・40

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岩手県花巻市、上根子玄番「子安地蔵尊かつら」(市指定)です!!

2024-10-09 12:30:00 | 巨樹・大木
 上根子玄番地区は、花巻市役所の西約6kmのところ

 花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を南へ、約600mで一時停止を右(西)へ、県道12号線です

 約2.4kmで東北自動車道の下を潜った「⇐花巻南温泉郷・花巻南IC、県道12号線」の標識に従って、信号を左へ

 約2.9kmで「⇐藤根10km・県道13号線」の標識に従って信号を左(南南西)へ

 約700mで道路脇に「大桂の木⇒」(南側から撮影しました)の案内板の建つ交差点を右(西南西)へ入ります

 約500mで道路左手に子安地蔵尊の森が見えて来ます

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 北側から見ました

 砂利道を入ると東向きに「子安地蔵尊」です

 *到着時に近所のお年寄りの方がお参りされていましたので、お参りが終わるのを待たせて頂きました

 地蔵堂ですね

 説明版です
    花巻市指定天然記念物
      子安地蔵尊かつら
    樹高22m、目通り周囲19m(平成19年計測)
    所在地 花巻市上根子字玄番244番1 桂木地蔵堂
 このカツラは、遠野市小友町や軽米町晴山の「千本カツラ」とならび、県内でも最大級のの大きさを誇ります。
 カツラの巨木の特徴として、中央部は洞となり、まわりが大きく茂り、ヒコバエ(孫生え)と呼ばれる若い芽がたくさん出ています。
 新緑や紅葉(*カツラは黄葉ですね)の季節にはことのほか美しく彩られます。
 伝承によると、平安時代前期、天台宗の僧である慈覚大師円仁がこの地を訪れ、お地蔵さまを安置した際に植えたものと云われています。
 正面には子安地蔵を祀る祠が置かれ、古くから地域の人たちに手厚く守られて来ました。
      平成9年11月    花巻市教育委員会

 目的の大桂は御堂の裏側(西側)です(御堂の北側を見ました)

 南東側から(御堂の南側を見ました)

 南側から、ヒコバエが大きくなって纏まっています

 南西側から、第一世代は既に無くなっていますが、第二世代や第三代目が集まった巨木です

 西側から

 北西側から見上げました

 では、次へ行きましょう


 

 2024・9・12・10・15
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岩手県花巻市、北笹間第10地割「北笹間のナラガシワ」(県指定)です!!

2024-10-09 06:34:00 | 巨樹・大木
 北笹間第10地割地区は、花巻市役所の南西約南西約6kmのところ

 花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を南へ、約600mで一時停止を右(西)へ、県道12号線です

 約1kmの「豊沢川土地改良区事務所」前の信号を斜め左(南西)へ、県道103号線です

 約3.1kmで東北自動車道の下を潜ります、約900mで信号を右(西)へ、県道252号線です

 約2.1kmで道路右手の民家の敷地内に目的のナラガシワの樹冠が見えました
 
 住宅入口前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南東側から

 南側から見上げました

 垣根の切れ間に説明版の一部が見えましたが、内容は不明でした
 *岩手の文化情報大辞典では・・・
 ナラカシワは、元来暖帯性の樹で、県内に大きいものはあまりない。
 この樹は北上川筋にわずかに見られ、分布北限は紫波町(長岡・古館付近)とされている。
 ナラカシワはカシワに似ているが、葉の先端が急に尖り、葉柄はカシワより長く、葉縁の鋸歯の先端がカシワほど尖らない、などの点で異なる。
 北笹間のナラカシワは、根本幹囲約5m、目通径約4m、枝張東西約14.2m、南北18mで、樹高約21mで、樹齢は約300年と推定されている。
 ナラカシワの北限分布地に近い巨樹として貴重である。・・・となっています 

 南西側から

 では、次へ行きましょう



 2024・9・12・10・05
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岩手県花巻市、北笹間第1地割「北笹間のサイカチ」(市指定)です!!

2024-10-08 18:35:00 | 巨樹・大木
 今回から岩手県花巻市に入ります、花巻と言えば、宮沢健治、新渡戸稲造(旧紙幣に成ってしまいましたが5000円の人)が有名でした。(ともに記念館が北上川の東側にあります)
 今は、花巻東高校から西武に入った菊池雄星(盛岡市出身)や日本ハムに入った大谷翔平(奥州市出身)が、大リーガーとなって活躍する姿に注目が集まっていますね、2021MLBオールスターゲーム 菊池雄星・大谷翔平選出記念モニュメントが、花巻東高校の野球場に建てられています


 北笹間第1地割地区は、花巻市役所の南西約6kmのところ

 花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を南へ、約600mで一時停止を右(西)へ、県道12号線です

 約1kmの「豊沢川土地改良区事務所」前の信号を斜め左(南西)へ、県道103号線です

 約3.1kmで東北自動車道の下を潜ります、約900mで信号を右(西)へ、県道252号線です

 約1.4kmで右(北)への砂利道(農道)に入ります


 すぐ先の道路左手の民家の前に目的のサイカチが見えました

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 民家入り口への道路を入ります

 目的のサイカチです

 「花巻市指定天然記念物 北笹間のサイカチ」の標柱です

 南東側から

 南側から、目通り幹囲6.4mの巨木です

 西側から見ました

 では、次へ行きましょう



 2024・9・12・9・55
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