針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

戦国四君 信陵君(魏弟)

2024-01-16 20:29:21 | 漢詩・古典・エトセトラ

「是の時に當り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り」という言葉があります。信陵君は戦国四君の一人です。

信陵君(しんりょうくん)紀元前244年、中国戦国時代の魏の公子であり、政治家でもあり軍人でもあります。昭王の子。姓は、氏は諱(いみな)は無忌

 大国秦によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、異母兄の安釐王(あんりおう)に疑われ憂死(ゆうし)した。前漢の魏無知の祖父と伝わ。異母兄の兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて自分の手元においており、その数は三千人を超えたと言われています。

魏の公子と食客

 ある時、安釐王と六博を打っていた所、趙との国境から烽火(のろし)が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の手柄・力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。普通の君主と軍師・丞相とかの関係なら普通に上手くいくのに、兄弟だからですかね?。


             
                六 博」を打っている

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。予定通り信陵君は宴席を設けたが、侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。

 そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である
朱亥(後に侯嬴は自分が高齢なのでこの肉屋の朱亥を信陵君の従者として贈った)と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔をひとつもせず待っていた。こうした様子を見ていた群衆は噂し合った。そして宴席で信陵君は侯嬴を再び、上席へと座らせた。

 他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席に座らせたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をした理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑すむ一方で、待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。
          
              

 趙への援軍安釐王19年(紀元前258年)長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都の邯鄲(かんたん)を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して、晋鄙(しんひ)を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。

 信陵君の姉は趙の平原君の妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の食客による戦車百乗を率いて自ら救援に行こうとした。この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した

 ここで侯嬴は「戻ってこられると思っていました」と信陵君に策を授ける。「信陵君の手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきです。国軍に命令を下すための(わりふ)は王の寝室にあるとのこと。これを王が寵愛する如姫に盗ませなされ[2]。如姫は信陵君のためなら何でも行うでしょう(恩義があった)」と言い、これに従って割符を得た。続いて侯嬴は「割符を持っても将軍の晋鄙が疑ったならば、朱亥(しゅがい)に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなされ」と説いた。これを聞いた信陵君は涙した。「晋鄙将軍は歴戦の猛将。割符を見ても指揮権を渡さないだろうから、殺さざるをえない」と悲しんだためである。しかし断じて朱亥の所へ行った。朱亥は「貴方は一介の肉屋に過ぎない私を度々遇されましが、礼を言いませんでした。小さな礼は答えにならないと思っていたからです。今、貴方の窮地に命をもって救わせて頂きます」と答えた。信陵君が出立する際、侯嬴は「この老体では役に立てませんので、この生命(自分の命)を手向けとさせて頂きます」といった。

 そうして信陵君は国境の城に出向き、軍を率いていた晋鄙将軍に割符を見せて交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言った。このためやむなくが40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なおこれに前後して侯嬴は、約束を守り信陵君がいる方向へ向かって自刎した。

 信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え、親子で従軍している兵は親を、兄弟で従軍している兵は兄を帰し、また一人っ子の兵も孝行させるために帰した。そうして残った兵を率いて戦い、秦軍を退けた。勝利したものの勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として信陵君を歓待し、5城を献上しようとした。最初は信陵君もそれに応じようとしたが、食客に諭され、以後固辞した。

 趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて「信陵君は名声高いと聞くが、そのような者たちと交わるのか」と馬鹿にした。姉である平原君の妻が信陵君を訪れると、出立の準備をしていた。信陵君は「私は賢人と話をしたいと思ったが、毛公と薛公が居なかったため出向いた。お二方は趙にいた頃から賢人と聞いており、会ってもらえないかもと思っていたほどの人。平原君が賢人と思ったから魏王に背いてまで私は趙を救ったが、その語らいを恥と言う外面だけを気にする方のようだもはや平原君と関わりたくない」と国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達の半数が、身分に関係なく才を処遇する信陵君下に集まったと言います。

 安釐王29年(紀元前248年)、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対して食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したため、誰も諌められなかった。そうしているある日、毛公と薛公が屋敷に訪れてきた。

 毛公と薛公は信陵君に「貴方は祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、今があるのは祖国あってこそであり、魏の祖廟が破壊されたら何をもって天下に顔を向けられますか」と諌められ、信陵君はこれを全て聞く間も無く魏へ向け出立した。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五カ国の軍をまとめて秦の蒙鷔(もうごう)を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが窺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。

 これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。

これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、安釐王33年(紀元前244年)に過度の飲酒のために死去した。異母兄の安釐王がもっと明君だったなら、信陵君がもっと活躍できただろう。人間いくら力量があっても処を得ないと封じ込められてしまうんですね

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呂氏春秋を買ってきた。

2024-01-09 09:09:53 | 漢詩・古典・エトセトラ

こうして色々文献を見ていて以前から「呂氏春秋」という本があったのは知っていますが呂不葦の書き示した書だと知って見て見たくなりました。

 書名の由来は、1年12カ月を天人相関説(時令説)をもとに春夏秋冬に分けた十二紀から『呂氏春秋』八覧から『呂覧』とする。呂不韋は完成後に一般公開し、一字でも添削ができれば千金を与えると公言した、これが「一字千金」の由来とされています。 呂不韋は「奇貨居くべし」と言う言葉が残っていてそれが商才が優れているという意味と思われるかもしれませんが一寸違いますね。
 呂不韋については、『史記』の呂不韋傳と『戦国策』の秦策五とに見える。両書の記述には若干の相違があるが、呂不韋傳を主として、その人物像を紹介しています。
呂不韋は陽翟の大賈人なり。往来して賤(値段が安いこと)に販(買う)い貴(値段が高いこと)に賈(あきな)り、家に千金を累(かさ)ぬ。(積み重ねるの意)
諸国を往来して商売をし、巨万の富を築いた豪商である。

 趙の国に行った時、秦の太子である安國君の子供で人質として趙に住んでいた嬴異人(後の子楚)に出会った。呂不韋傳は記す、呂不韋、邯鄲に賈(商用で赴く)しに、見て之を憐れみ、曰く。「此れ奇貨なり居く可し。」と。これが有名な「奇貨居く可し」の出所です。

 子楚に投資して、安國君の太子にさせ、将来王位につければ、巨額の富を得られると読んで、資金をつぎ込み、それを実現させた。秦の宰相となり、富と権力を手に入れた。しかし秦王政、後の始皇帝が長ずるにつれて、疎んぜられて遂に嫪毒の亂に連座して罪を得て服毒自殺をする。十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇。その思想は儒家・道家を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家等、諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされる。天文暦学や音楽理論・農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる。また「刻舟求剣」などの寓話や説話も収録されています。

                                             
 
 呂不韋も食客を3000人集める。呂不韋は丞相となり10万戸を授けられて権力を握ると、戦国四君である孟嘗君、平原君(趙の趙勝)、信陵君(魏王の弟),春申君(楚)にならったのか食客を3000人集めたとされています。
孟嘗君などは3000人の食客がいても、泥棒もいたり物まね名人がいたり玉石混交状態でした。しかし、呂不韋の場合は質にかなり拘ったようで食客たちも一流の文化人だったり学者だったりと、クオリティが非常に高かったようです。

 これらの食客たちと作り上げたのが呂氏春秋であり市場で1字でも添削することが出来れば1000金を与えると宣伝しました。呂不韋は余程、自信があったのでしょう。尚、呂氏春秋は初の百科事典ともいえる様な内容です。
呂氏春秋は徳についてのお話しも多い
 私も呂氏春秋を読んでみましたが、様々な事が書かれています。夏・殷・周の王様がどのように考えて政治を行ったなども多く書かれているわけです。周の文王が病に掛かった時に、災いを払うために臣下は宮殿の増設を提案しましたが、周の文王は許しませんでした。代わりに、生活を質素にして徳を積む事に努めた話もあります。 これを繰り返したところ周の文王は病が全開したとあります。他にも、甯(ねいえつ)という人物はたゆまぬ努力を行った事で30年で成し遂げる事を15年で出来たなどの努力する事を大事だとする話も掲載されていました。現代人がみても役立つ感じの自己啓発系のネタもかなりあります。
天下は一人の天下に非ず
 呂氏春秋は百科事典のような内容なので、様々な事が書かれているわけです。歴史作家の宮城谷昌光さんは戦国名臣列伝の呂不韋の部分で「天下は一人の天下に非ず」という言葉に注目しています。キングダムの呂不韋は武力による統一ではなく貨幣による秦中心の国家を理想としていました。しかし、呂氏春秋の天下は一人の天下に非ずという言葉を解釈すれば、民主主義を提唱している」というわけです。

秦王・政は史実では、自分に権力が集中するように、中央集権化を進める政策をしています。ここが呂不韋と始皇帝が相いれない部分となるでしょう。もしかすると、嬴政は仲父とする呂不葦を尊敬する一方で呂不葦を疎ましかったか、それの反動だったのかも知れませんね。呂不葦の唱える処は諸子百家が根本であるのでそれに抗するように焚書坑儒になったとも言えます。李斯は荀子の元で韓非と共に学んだが嬴政には何一つ言えなかったのかも知れません。しかし書籍だけでなく儒家を始めとする思想家を生き埋めにしてしまうなどやはり嬴政は残虐だったと言えます。ちなみに、始皇帝は自分一人の独裁国家にしようとした為に、統一後わずか15年で滅んだとも考えられるわけです。

 史実だと秦には王翦(おうせん)、王賁(おうふん)蒙恬(もうてん)李信(りしん)などの名将もいましたし、政治を行う大臣も昌平君、昌文君、李斯などがいたわけですが、秦王政に諫言する臣下はいなかったようです。

 ここが秦が短命国家に終わった原因だとされています。呂不韋が秦の相国を務めた状態で、秦が天下統一を成し遂げていたら、趙高の暴政や扶蘇の廃位と胡亥の擁立なども無かったのかも知れません。陳勝呉広の乱などが発生しても、章邯や王離らは秦の中央政府と協力し、もっと楽に戦えた可能性もあります。トップに権限が集中しやすい体質だった為に、秦は滅んだ可能性もあるでしょう。
呂氏春秋の中身の抜粋【勇気の行き着く所?】
呂氏春秋は奇妙な普通ではありえない様な話も掲載されています。
斉の国の東と西に勇者気取りの男がいたそうです。東と西の勇者気取りの男が道であってしまいました。

この二人は一杯飲む事になったのですが、「肉が食べたい」と言い出します。そして、醤油だけを用意して、お互いの肉を刻みあい食べたと言うのです。もちろん、交互に食べ合い結局は二人とも死んでしまったそうです。呂氏春秋では「このような勇気なら、ない方がマシだ」と述べています。こういう滑稽な話が載せられているのも呂氏春秋の特徴です。
【盗賊に助けられた男】
呂氏春秋にあるこれは正しいのか?と考えてしまうような話も紹介しておきます。ある所に潔癖な男がいて旅に出たそうです。この潔癖な男は道で飢えてしまいました。

たまたま通りかかった盗賊が潔癖な男に食べ物を与えて飢えから回復しました。潔癖な男が名を聞いた時に、盗賊だと言うと、潔癖な男は悪事に手を染めた男から食べ物の援助をもらうわけには行かない。そう言うと食べたものを全て吐き出してしまいます。その結果、潔癖な男は飢えて死んでしまいました盗賊の食べ物を受け取る事は正義なのか?という事を考えさせられる内容です。私なら「もしかして盗賊は改心したに違いない」と勝手に判断して食料を貰ってしまう可能性もあります。しかし、道徳の授業でも使えそうな内容も含まれているのが呂氏春秋です。日本では、孫子や史記などに比べると知名度は落ちますが、考えさせられる内容も多いです。

呂不韋の思考は呂氏春秋を通じて、未だに輝き続けていると言えます。始皇帝や李斯の焚書坑儒からも残った不滅の書でもあります。呂氏春秋』(りょししゅんじゅう)。秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した。
 先に述べたように『呂氏春秋』は秦の荘襄王から始皇帝の初期のころまで宰相を務めた呂不韋が、その権力と財力とを総動員して全国から集めた学者たちに著作編纂させたものである。その構成は、十二紀・八覧・六論の三部に分かれ、全二十六巻百六十篇からなっており、内容は多岐にわたり、一種の百科全書的な書であり、同じ性格の書として前漢に編纂された有名な『淮南子』の先駆けとなったものである。この書の成立事情について、『史記』の呂不韋傳は次のように記している。
  呂不韋の家僮万人あり。是の時に當り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り。皆士に下り賓客を喜み、以て相い傾く(傾注、熱中すること)、呂不韋、秦の強きを以て、如かざるを羞じ、亦た士を招致し、厚く之を遇し、食客三千人に至る。是の時諸侯に弁士多く、荀卿の徒の如きは、書を著し天下に布く。呂不韋乃ち其の客をして人人の聞く所を著さしめ、集論(編集)し以て八覧・六論・十二紀の二十餘万言を為る。以為らく、天地の万物・古今の事を備う、と。号して呂氏春秋と曰う。
この書の編纂について、呂不韋は相当な自信を持っていたようである。之も有名な話であるが、呂不韋傳に以下の如く記されている。
   咸陽の市門に布き、千金を其の上に懸け、諸侯の游子・賓客を延き(招きよせる)、能く一字を増損する者有らば、千金を予えん、
この様に自信を持って世に送り出した書であったが、歴代中国における評価は低いもので、清朝になってやっと見直されるようになったのである。

成程ね、始皇帝が李斯と共に「焚書坑儒」をしたのに反して 呂不韋は諸子百家が提唱する「徳」が基本だったんだね。しかし相容れないと言っても何でこんなに毛嫌いしたんだろう。

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秦の始皇帝。 嬴政

2024-01-03 19:10:15 | 漢詩・古典・エトセトラ
【始皇帝(しこうてい)】(紀元前259年2月18日-紀元前210年9月10日)は、中国の初代皇帝(在位221年- 紀元前210年)。古代中国の戦国時代の秦の第31代君主(在位紀元前247年-紀元前210年)6代目の王(在位:紀元前247年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)または(ちょう)氏は趙(ちょう)諱は(せい)または(せい)。現代中国語では秦始皇帝または秦始皇と表現します。(おっかさんが趙の名家の娘、 李皓鑭です)
(文献から引っ張ってきていますので重複している処があります・あしからず)

                           

秦王に即位した後、勢力を拡大し他の諸国を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした。統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に改め、その始めとして「始皇帝」と号した

 治政としては重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した。統一前の秦に引き続き法律の厳格な運用を秦国全土・全軍統治の根本とするとともに、従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への地方統治の全国的な転換を行い、中央集権・官僚統治制度の確立を図ったほか、国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規制の制定などを行った。万里の長城の整備・増設や、等身大の兵馬俑で知られる秦の始皇帝陵の造営といった世界遺産として後世に残ることになった大事業も行った。法家を重用して法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行った焚書坑儒でも知られる。統一後に何度か各地を旅して長距離を廻ることもしており、紀元前210年に旅の途中で49歳で急死するまで、秦に君臨した。
 周の時代およびその後の中国独立国では、「大王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った趙政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される。「始」は「最初(一番目)」の意味である。「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗ることになる。「皇帝」は、神話上の三皇五帝より皇と帝の二字を合わせて作られたここには、始皇帝が天皇神農黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている。さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた。元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた
                                         

生涯 幼少期
秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた 。

人質の子、秦の公子であった父の異人(後の荘襄王・子楚) は休戦協定で人質として趙へ送られていた。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子 である祖父の安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父の昭襄王の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また妾であった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた。そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の継室ながら太子となる子を産んでいなかった華陽婦人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾(趙姫) 李皓鑭を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。諱を「政」と名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都、邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた。この子が後に始皇帝となるわけです
【実父に関する議論】
漢の時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じてしまいます]。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた

【死と隣り合わせの少年】

政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)には王陵、昭襄王50年(紀元前257年)には王齕に命じて邯鄲を包囲した。そのため、趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している。その後、邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。

昭襄王56年(紀元前251年)、昭襄王が没し、1年の喪を経て、孝文王元年(紀元前250年)10月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された

【若年王の誕生と呂不韋の権勢】

荘襄王(嬴異人)と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした。しかし、荘襄王3年(前247年)5月に荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ]。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した

秦王政6年(紀元前241年)、楚、趙、魏、韓、燕の五国、合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した。(函谷関の戦い)このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている

そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、秦王政8年、紀元前239年には『呂氏春秋』の編纂を完了した

だが、呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后・趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男の、嫪毒(ろうあい)を見つけた。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毒はお気に入りとなり、侯爵を与えられた。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都、雍に移ったのち、嫪毒と太后の間には二人の男児が生まれた

秦王政9年(前238年)、政が22歳の時にこのことが露見する。政は元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毒が宦官ではないという告発があった と言い、同書「始皇本紀」では嫪毒が反乱を起こしたという。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毒の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毒が若王の父になると公言したことが伝わったともいう。これによってもう捨て置けなくなった。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毒が太后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う。結果的に嫪毒は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された

事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。楚、趙、魏、韓、燕の五国、合従軍の丞相クラスがしきりにするがを味方に引き入れようとするが呂不韋はこれを断り後死亡した。

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趙の軍師 李牧

2023-03-29 09:59:23 | 漢詩・古典・エトセトラ

      まだまだ、優れた軍師がいました。                                             

                                                                     李       牧

                                                                     

李 牧(り ぼく、紀元前229年)は、戦国時代の趙の武将。名は(さつ)、字は。  白起(はっき)、王翦(おうせん)、廉頗(れんは)と並ぶ戦国4名将の一人。『史記』「廉頗 蘭 相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけています。

 李牧は代郡・雁門郡に駐屯した期間、軍を率いて匈奴を大敗させた。また、肥下の戦い・番吾の戦いで秦を大敗させ、武安君に受封された。だが、最終的には讒言を信じた幽繆王(ゆうみょうおう)によって殺害された。李牧の死後、趙の首都、邯鄲(現在の河北省邯鄲市)は秦軍によって陥落し、幽繆王は捕虜となり、趙は滅んだ。

北方の長官

 元々は趙の北方、代郡・雁門郡に駐屯する国境軍の長官で、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して備える任についていた。警戒を密にして、烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していた。匈奴の執拗な攻撃に対しては徹底的な防衛・籠城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命していたからである

だが、そのやり方は匈奴だけでなく、趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる。趙王は李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので、任を解かれた

 李牧の後任者は勇敢にも匈奴の侵攻に対して討って出たが、かえって被害が増大し、国境は侵された。そのため、趙王は過ちに気付き、李牧に任を請うたが、李牧は門を閉じて外に出ず、病と称して固辞した。それでも将軍に起用されたので、李牧は「王がどうしても私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを許された。そして、李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった

 ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。これに味をしめた単于(たんう)が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった

 その後、李牧はさらに襜襤(せんらん)を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなった。紀元前243年、悼襄王(とうしょうおう)の命で燕を打ち、武遂や方城等に侵攻した。

斜陽の趙を守る

閼与の戦いで秦を破った名将、趙奢を亡くし、政治外交で秦に対抗し得た藺 相如(りんそうじょ)が病で伏せていた趙は、紀元前260年の長平の戦いで秦に大敗し、そののち藺相如も世を去り衰亡の一途をたどっていた。また、紀元前245年に廉頗が楽乗と争い出奔したことから、秦の侵攻が激しくなり、紀元前236年に鄴が秦に奪われ、234年には趙将扈輒(こくちょう)が指揮を執る軍勢が平陽で敗れて、10万人が犠牲になった。(平陽の戦い)。そのため、幽繆王は李牧に軍を任せて、反撃に転じることにした。

233年、北辺の功を認められた李牧は幽繆王の命により、中央に召還され、大将軍に任じられた

 同年、秦が趙の赤麗および宜安を攻めたが、李牧はこれを破り退けた。その際、宜安を攻めた秦将、桓齮を肥下の戦いで討っている(あるいは敗走させた)。この功績により、李牧は武安君に封じられた

 紀元前、232年秦は趙の番吾を攻めたが、李牧は秦軍を再び撃破した(番吾の戦い)。さらに、李牧は秦から韓・魏の国境まで領土を奪還し、その勢力を南に押し返した。当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみである。

最期

  紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は趙攻略のため、今度は王翦を将とした大軍を趙に侵攻させた。そのため、趙は李牧と司馬尚(司馬卬の父)に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣の郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策した。郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した。また、幽繆王の母の悼倡后(とくしょうこう)も秦から賄賂を受け取り、趙王に讒言をした

 趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、讒言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された

 李牧の死後、趙軍は趙葱と顔聚が指揮を執ることになったが、3ヶ月後(あるいは5ヶ月後)に彼らは王翦に大敗し、大勢の趙兵が殺害された。邯鄲は秦軍によって陥落、幽繆王も捕らえられ、趙はついに滅亡した(紀元前228年)

北方の守備隊長
李牧の悲劇 - ゆっくり歴史解説者のブログ (rekishi-shizitsu.jp)  こちらから引用させて頂きました。

 李牧は、趙の宰相として登場したりもしますが、史記だと秦王政の言葉で「宰相の李牧が秦に来て誼を結んだ」とする内容があります。始皇本紀の統一後の嬴政(えいせい・始皇帝)の言葉です。

 史記の廉頗、藺 相如列伝では、李牧は北方にある代の守備隊長として登場します。戦国策の趙策に李伯が趙の孝成王の信任を受け、代の長官になった話があり、李牧の一族か本人の可能性もある様に感じました。李牧は代の守備を任されるわけですが、敵が攻めてくると、城に籠ってばかりで戦おうとしません。味方の趙兵でさえも李牧の事を臆病な人だと思っていたそうです。

趙王(趙の孝成王??)も李牧に戦えと命令しますが、李牧は守ってばかりで戦おうとはしません。損害も大してありませんが、何の手柄も立てない状態でした。趙王もついに李牧を解任して別の人を代の長官にします。すると、新任の長官は匈奴が攻めてくるたびに、出撃して戦ったのですが、被害ばかりが増えてしまい、手柄を上げる事が出来ませんでした。

代の地は軍費で消耗し多くの家畜を匈奴に奪われ、農耕も牧畜も出来ない土地になっていきます。趙王は自分の非を悟り再び李牧を隊長に命じます。この時に、李牧は趙王に「自分のやり方に口を出さない事」を条件に隊長(長官)を引き受けたとされています。

この後、また守備重視の方針でやったとされています。尚、史記によれば李牧は幕府を開き自分の裁量で決められる権利を有していた様です。李牧が治めた地では兵士の待遇がかなり良かったらしく、兵士が自分から戦いたいと李牧に戦いを望みました。

それを聞いて李牧は「然り」と喜んだとされています。兵士が戦いを望むようになると、李牧は原野を人で溢れさせ大規模な軍事訓練を行います。その後、北の匈奴が少数で攻めてきた時に、わざと負けて敵を油断させています。

匈奴は李牧は弱いと判断し、大軍で攻めて来ますが、ここで李牧は応戦する事になります。ただし、李牧は匈奴が突っ込んで来るように、匈奴に略奪させる為に家畜と民衆も用意していたのではないでしょうか。

しかし、李牧は鳥の羽を広げるような陣形を用いて、敵を破ったとされています。つまり、鶴翼の陣を使ったと言う事なのでしょうか?

西の方ではカルタゴの名将ハンニバルが左右の騎馬隊を重視した戦法を使っているので、同じ時期に東西で名将が鶴翼の陣らしきものを使っていた可能性があります。その後、北方に攻め込み匈奴などを大敗させ、匈奴などは10年間に渡って趙に手を出せなかったとする話があります。

中華の国と匈奴

李牧が名将たる由縁の一つは、匈奴を完膚なきまでに破った事でしょう。歴代の中華王朝は、漢の劉邦が冒頓単于に敗れたり、西晋が八王の乱で混乱し北方などの異民族が大量に中華の地に押し寄せてきました。

国では北虜南倭の言葉もあり、歴代中国王朝は北方の遊牧民に苦しめられています。秦の始皇帝が万里の長城を建設したのも匈奴への備えです。

李牧が北方の匈奴に対して、大戦果を挙げ中華を守った事は名将と言われる所以ではないでしょうか。因みに、蒙恬(もうてん)も秦の統一後に30万の兵士を使い匈奴を破っています。秦軍を相手に連戦連勝です。李牧は北方での手柄が認められたのか秦軍と戦う事になります。北方での功績が認められ、中央に召喚されたのでしょう。

尚、廉頗が魏に亡命するなどの事件もあった関係で李牧が呼び出された可能性もあります。しかし、ここでも李牧は大活躍します。燕の城を落としたり秦軍が攻めて来ても撃退したりと大活躍しています。桓騎を破ったりもしているのです。

分かっているだけでも、宜安の戦い肥下の戦い番吾の戦いで秦軍を撃退し趙の防衛に成功しました。紀元前236年に秦の王翦、楊端和(ようたんわ)、桓齮(かんぎ)によ鄴攻めが行われ趙は多くの土地を失っています。

この時期に秦軍を相手に連戦連勝した李牧の活躍は特筆すべきものがあります。

この時代ですが、戦国七雄の楚・魏・燕・趙・韓・斉などの国がありましたが、秦軍の圧倒的な強さの前に太刀打ちが出来ない状態で、秦軍を撃退出来るのは李牧だけだったとも言えるでしょう。幽穆王も李牧の功績を認め武安君としました。

趙の悼襄王に諫言

趙の悼襄王は、美貌で知られる遊女の悼倡(とうしょうごう)を側室に迎えようとします。李牧は「悼倡后は過去に嫁いだ家を破滅に導いている」とし、反対します。

しかし、悼襄王は李牧の進言を聞かず、悼倡后を側室として迎えてしまうわけです。悼倡后が子を生むと、悼襄王は太子を趙嘉から、趙遷に変えています。趙遷が後の幽穆王であり、悼襄王が紀元前236年に亡くなると趙王に即位する事になります。

尚、紀元前228年に秦が攻めて来ると、悼倡后は郭開と共に李牧を讒言した話があります。

とまあ、この位にしておきます。後は文献探し出して読んでね。司馬遷の『史記』とか『十八史略』なんか見るといいざます。→と勝手な事を言う針外しなのでした。

 

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呂不韋が出たので、次は李皓鑭(り こうらん)です。

2023-03-24 14:36:30 | 漢詩・古典・エトセトラ

        【李皓鑭】(りこうらん)

紀元前3世紀の中国。趙(ちょう)国の名家の娘の李皓鑭(り こうらん)は、継母の陰謀で家を追われ、奴隷として売られてしまったが、 大商人の呂不韋(りょ ふい)に買われて助けられた。呂不韋は皓鑭の美貌と才覚に惚れ込み、奴隷ではなく立身出世の同志と認め、 王族との繋がりを求める呂不韋によって、舞姫として宮廷に送り込まれる事となります。

自らの能力で舞姫から女官に出世する皓鑭。そんな皓鑭に好意を持つ異人(いじん)。異人は隣国の秦(しん)の王子だが、人質として趙国でひっそりと暮らしていた。 異人を秦の国王に推すという壮大な野望を抱く呂不韋。現在は権力もなく、王子とは名ばかりの異人だが、恩を着せれば呂不韋は秦で大きな権力を得られる。 秦国での異人の立場を向上させるために、密かに工作を開始する呂不韋。

               

一方の皓鑭は、陰謀の渦巻く趙国の王宮で、王妃付きの女官にまで出世した。皓鑭と呂不韋は互いに好意を持ってはいたが、関係は同志のまま。協力し、時に対立して続いて行った。 しかし、遂に罠に落ち、卑しい下級兵士の妻にされかかる皓鑭。 そんな皓鑭を、結婚することで救ったのは異人だった。皓鑭は戦乱のさ中に異人の息子の政(せい)を出産した。 同じ頃、隣国の秦で、異人の復権に成功する呂不韋。異人は呂不韋の手引きで趙国を脱出し、秦国に戻った。

息子の政と共に趙国に残され、不遇の8年を耐え忍ぶ皓鑭。異人(子楚と改名)は秦の王宮で遂に王太子(世継ぎ)の地位に就き、皓鑭親子を呼び寄せた。 秦国の王宮でも、数々の陰謀に打ち勝っていく皓鑭。異人(子楚)はついに国王に即位した。 しかし、病のため数年で崩御する異人(子楚)。代わって息子の政が国王に即位し、呂不韋は王にも勝る権力を手に入れた。 国王の妃(きさき)選びの日。呂不韋の計略で、身分の低い恋人を自死させてしまう政。しかし、若い王にはまだ、呂不韋に逆らう力は無い。 夫を失った皓鑭に関係を迫る呂不韋。しかし、今の皓鑭は、息子の困難な行く末にしか関心はなかった。

太后となった皓鑭は、嫪毐(ろう あい)という男を見込んで重用していた。しかし、世間では嫪毐が太后の愛人で子供までいると根も葉もない噂が立った。図に乗った嫪毐はクーデターを起こし、王宮に迫った。だが、若き王の政は頼れる家臣たちと共に嫪毐を成敗し、勢いのまま呂不韋を失脚させることにも成功した。 実の母の皓鑭までも、クーデターの共犯者と信じ、離宮に幽閉する政。

しかし、全ては皓鑭の計略だった。暴走する嫪毐を逆に利用し、政にこれを討たせることで、王としての自覚を持たせ、同時に権力を持ち過ぎた呂不韋をも排斥したのだ。 流刑と決まった呂不韋は自ら毒をあおって死に、皓鑭はその数年後に、離宮で静かに生涯を終えた。

【李皓鑭】

についてはDVDが出ていますので配役を紹介します。

趙国

秦国[編集]

  • 嬴稷(えい しょく) - 賀強(ホー・チアン)廷の医師。秦の国王。
  • 嬴柱(えい ちゅう)/安国君 - 王茂蕾(ワン・マオレイ)秦の太子。異人の父。
  • 嬴子傒(えい しけい)- 王雨(ワン・ユー)安国君の息子。異人の異母兄。
  • 華陽(かよう)夫人 - 譚卓(タン・ジュオ)嬴柱の正室。
  • 夏姫(かき) - 何佳怡(ホー・ジアイー)嬴柱の側室で、異人の母。
  • 范雎(はん しょ) - 譚建昌(タン・ジエンチャン)秦の丞相。
  • 白起(はく き) - 于彦凱(ユー・イエンカイ)秦の将軍。
  • 羋絲蘿(び しら) - 方安娜(ファン・アンナー)異人の側室。

    一時中国の「人民日報」とかは、歴代の漢室の皇帝、(例えば劉備玄徳)とかを、取り上げないで、残忍・非道で通っていた「秦の始皇帝」を功労者、真の皇帝として崇め奉っていましたね。だから。自分達。共産党が良く描かれている様に歴史を改ざんしてまでもストーリーを書き換えてしまっています。

    でもかの「レッドクリフ」の監督・監修者の如く低レベルで作り上げた映画は全く以って頂けないですよね。大体周瑜の奥方が「曹操が私の為に戦を起こした」として敵陣の曹操の元に出向き戦争を止めさせるなんて、馬鹿も休み休みしろといいたいですね。軍隊とか紅衛兵でエキストラとして出すのはいい。また軍船とかの大きな装備もまあまあいい。でも人間の行動が、皆昔から使われてきたストーリーをそのまま持ってきているのには呆れるばかりだね。
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呂不韋について。

2023-03-20 09:52:48 | 漢詩・古典・エトセトラ

呂 不韋(りょ ふい、 紀元前235年)は、中国戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につけることに尽力し、秦で王に次ぐ権力を持つ相国として権勢を振るった。荘襄王により、文信侯(ぶんしんこう)に封じられた。始皇帝の実父とする説もある

                                                                             
                                                                                                呂不韋

【奇貨居くべし】

 呂不韋の出身地は二説あり、韓の陽翟(『史記』呂不韋列伝)と衛の濮陽(『戦国策』)とである。商人の子として生まれ、若い頃より各国を渡り歩き、商売で富を築いた。

 趙の人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子の異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目にして、「これ奇貨なり。居くべし (これは、思いがけない品だ。仕入れておくべきだ)と言った。陽翟に帰った呂不韋は父と相談し、話し合いの結果、将来のために異人に投資することで結論がまとまったといいます。やがて呂不韋は再び趙に赴き、公子の異人と初めて会見した。

 当の異人は、当時の秦王であった昭襄王の太子の安国君(後の孝文王)の子とはいえ、20人以上の兄弟が居ただけでなく、生母の夏氏が既に父からの寵愛を失っていたため王位を継げる可能性は極めて低く、母国の秦にとっては死んでも惜しくない人質であった。しかも趙との関係を日増しに悪化させていた秦の仕打ちによって、趙での異人は監視され、その待遇は悪く、日々の生活費にも事欠くほどであった。だが呂不韋はこの異人を秦王にし、その功績を以て権力を握り、巨利を得る事を狙ったのである。無論、呂不韋には勝算があったのです。

【世子を擁立】

呂不韋は異人に金を渡して趙の社交界で名を売る事を指導し、自身は秦に入って安国君の寵姫の華陽夫人の元へ行き華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人のことを実の母親のように慕って日々を送っていると吹き込んだ。さらに華陽夫人の姉にも会って、自身の財宝の一部を贈って彼女を動かし、この姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とするよう説いた。華陽夫人は安国君に寵愛されていたが未だ子がなく、このまま年を取ってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君もこの話を承諾して、異人を自分の世子に立てる事に決めたのでした。

趙に帰った呂不韋が異人にこの吉報をもたらすと、異人は呂不韋を後見とした。また異人はこのとき、養母となった華陽夫人が楚の公女だったのでこれに因んで名を子楚と改めています。

 呂不韋は趙の豪族の娘、趙姫を寵愛していたが、子楚は彼女を気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断って子楚の不興を買ってはこれまでの投資が水泡に帰すと思い、彼女を子楚に譲った。このとき、彼女は既に呂不韋の子を身籠っていたが、子楚にはこれを隠し通し、生まれた子も子楚の子ということにしてしまったという。これが政(後の始皇帝)であるとされる。この説が真実かどうか今となっては確かめる事はできないが、当時から広く噂されていたようで、『史記』呂不韋列伝でもこれを事実として書いているが、秦始皇本紀では触れていません。

【秦の宰相】 

 紀元前251年、秦で高齢の昭襄王が在位55年で逝去し、その次男の孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となったが、間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。呂不韋は相国(当時は相邦と呼ばれていた)となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙いは見事に当たり、秦の相国として彼の権勢は並ぶものがなかったのです。  

 紀元前247年、荘襄王が若くして死に、太子の政が王となった。呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいは「おじ」という意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。

紀元前241年、楚・趙・魏・韓・燕の五国の合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられています。

【一字千金】

 この時期には孟嘗君や信陵君などが食客を集めて天下の名声を得ていたが、呂不韋はこれに対抗して3000人の食客を集め、呂不韋家の召使は1万を超えたと言う。この客の中に李斯(りし)がおり、その才能を見込んで王に推挙しました。

 更に客の知識を集めて、紀元前239年には『呂氏春秋』と言う書物を完成させた。これは当時の諸子百家の書物とは違って、思想的には中立で百科事典のような書物である。呂不韋はこの書物の出来栄えを自慢して、市の真ん中にこれを置いて「一字でも減らすか増やすか出来る者には千金を与える」と触れ回ったといいます

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垓下の戦い

2023-03-08 19:20:35 | 漢詩・古典・エトセトラ

垓下の戦い(がいかのたたかい)は、楚漢戦争期の紀元前(202年)’に項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間の垓下(現在の安徽省宿州市霊璧県)を中心に行われた戦 いです。

        

      紀元前(203年)広武山で長く対峙していた楚漢両軍であったが、楚軍は食糧不足、漢軍は劉邦の負傷や劉邦の父の劉太公が楚軍に捕らわれていたことなどの理由があり、両軍とも戦いを止めることを願うようになった。漢軍から弁士の侯公が楚軍へ使者として送られ、天下を二分することで盟約が結ばれた。(西は劉邦の漢、東は項羽の楚)

 楚軍は本拠地の彭城(ほうじょう)(現在の(江蘇省徐州市)への帰還を始めたが、劉邦は張良、陳平の「弱っている楚軍を滅ぼす好機」との進言を容れ、盟約を反故にして追撃を行なった。

(皆さんは日本人だから(針も日本人だよ)こういう約束を平気で破る事について抵抗があると思います)中国では騙された奴が悪いという事になります。

日本も将来中国と条約を結ぶ時、この事を念頭に入れておかないとひょっとして変な事になりかねないね。

漢軍は楚軍を追って固陵(現在の河南省周口市淮陽区の北西)という所まで進み、同時に韓信と彭越にそれぞれの兵を率いて共に楚軍を討つように命じ、陽武(現在の河南省周口市太康県)に兵を進めた。しかし両者は姿を見せず、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。

 張良は劉邦に対して韓信・彭越が来ないのは2人に恩賞の約束をしていないからだと言い、韓信には陳から東の海に至るまでの全ての土地を与え、彭越に対しては睢陽より北の穀城に至るまでの土地を与え、梁王(魏王)とするようにと進言、劉邦もこれを容れ、韓信・彭越に使者を送った。その結果、2人は即座に軍勢を率いて劉邦に合流した。さらに劉賈の軍も彭越と合流、楚の大司馬周殷も寝返り、これらの軍勢は次々と洨城(現在の安徽省、蚌埠市固鎮県)付近の垓下の劉邦の下に集結した。

                                                             
              垓下の唄 項羽の詠んだ歌だ。

漢軍は、韓信が30万の兵を率いて先鋒となり、孔藂と陳賀が側面を固め、総大将の劉邦の後ろに周勃と柴武が陣取った。対する楚軍は項羽が率いる兵は10万ばかりであった。

 韓信は自ら先頭に立ち項羽ら楚軍と戦ったが、劣勢になり後方に下がった。しかし、孔藂と陳賀が楚軍を攻撃すると、楚軍は劣勢になり、さらに韓信がこれに乗じて再び楚軍を攻撃すると、楚軍は大敗した。

 敗れた楚軍は防塁に籠り、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に

楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。この故事から、敵や反対する者に囲まれて孤立することを四面楚歌と言うようになった。)

 形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。項羽には虞美人という愛妾がおり、またという愛馬がいた。これらとの別れを惜しみ、項羽は自らの悲憤を詩に読んだ。(垓下の歌)。

力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 奈何すべき)
虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)

虞美人もこれに唱和し、項羽は涙を流し、臣下の者たちも全て涙を流した。

 宴が終わると、項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、灌嬰(かんえい)が五千騎の兵を率いてこれを追った。八百の兵は次第に数を減らし、東城(現在の安徽省徐州市定遠県の南東)に辿りついたときには項羽に従う者わずか二十八騎になっていた。

 ここで数千の漢軍に追い付かれた項羽は、配下の者に「ここで私が滅びるのは天が私を滅ぼそうとするからで、私が弱いからではない。これから漢軍の中に入ってこれを破り、それを諸君に知らしめよう」と述べ、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士、八・九十人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。

                                                     
            この地図を見ると如何に項羽が逃げて来たかが分かる

  項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場(現在の安徽省、馬鞍山市、和県、烏江鎮)に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。烏江の亭長(宿場役人)は項羽に「江東は小さいですが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることはできません」と告げた。

 しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再び私を王にすると言ってくれても何の面目があって彼らに会うことが出来るだろうか」と答えて亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。

  項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢は私の首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前にひとつ手柄をやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の遺体に恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を巡って味方同士で殺し合いを起こしたほどであった。結局遺体は5つに分かれ、呂馬童を含む5名それぞれに5等分された領地が渡された後に劉邦は項羽を手厚く葬った。

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 王昌齢の出塞行 

2023-03-05 08:48:08 | 漢詩・古典・エトセトラ

 兎角漢詩とかを読む時に、情景を浮かべながら、その世界に入れれば、より理解度が増しますね。針の知り合いに書道の先生がおりまして、なんでも師範とかを審査する位偉い先生だとか。字を見ていると吸い込まれて、自然に情景が瞼に浮かぶんだね。

                                
                                                            王昌齢

   【 出 塞 行  】                                    

白草原頭望京師    白草原頭 京師を望めば           白い草原の端からみやこを眺めると

黄河水流無盡時   黄河 水流れて尽くる時無し         黄河の水が流れて尽きることがない

秋天曠野行人絶   秋天 曠野 行人絶ゆ             秋天 曠野 行人絶ゆ

馬首東來知是誰   馬首東来するは知んぬ是れ誰(た)そ    馬の首を東に向けやって来る人はいったい誰だろうか 

【詩の意味】

 白草の生い茂る高原にたたずみ、都の方を望めば、都は遥かに遠く見えず、ただ黄河の水は滔々と西より東に流れ、尽きることがない。

 秋の空も淋しく、塞外の広野を往来する人影も絶えたが、折しもただ一人馬首を東へ向け都の方へ向かう旅人がある。あれはいったい誰であろうか(私も都へ帰りたいものである)。

[語句の意味]

  • 出塞行
    楽府題 辺塞守備の兵士の辛苦を述べたもの 「行」は歌
  • 白草原
    新彊省羌(きょう)県地方の高原とするも所在は不明 白草(一つにやまかがみ)が一面に生えている原野
  • 京 師
    都 長安
  • 馬首東来
    馬のたてがみを東すなわち都へ向けていく 「来」は方角に付く助辞で調子を添える

 【まさに辺塞詩の中の辺塞詩】

 代表的辺塞詩である。もう何年も都を遠く離れて国境警備に当たる兵士の望郷の思いを作者が代弁して詠っている。場所は定かでないが、青海省の青海湖の南あたりか、もう少し黄河の上流の新彊省内の重要地点か。いずれにしても都から500キロ以上離れた砂漠地帯である。

 この詩は結句が重要。旅姿の人が馬に乗って東の都に向かって進むのが久しぶりに目についた。数日もすれば彼は長安の町中にいるはずだ。何年も故郷に帰れない兵士たちの羨ましさが手に取るようにわかる。背景が広大で無人の僻地であるので、一層兵士たちのせつなさが鮮明に表出される。

 また起句の「白草」と承句の「黄河」は「白」と「黄」という色彩を示す対語を用いている。その詩的効果も考えてみるのもよい。

【漢詩の小知識】

 辺塞詩とは

 中国北方の国境地帯での戦争を主題とする詩。具体的には当地での兵士たちの苦しみや悲しみを詠ったものや、故郷に残された家族(特に妻)への思い、あるいは家族からの情を詠んだものも含む。

 辺塞詩人としては王翰、王之渙、王昌齢、高適、岑参らの名があげられる。盛唐時代特有の詩体です。 

この詩は唐詩を集めた詩集「三体詩」には起句が「百華原頭」、結句の「東来」が「西来」となっていて、作者も唐の李頎(りき)の作で題名も「旅望」とある。本会は「唐詩選」の表記を採用した。またこの詩は楽府題であります。

 「三体詩」について   6巻ある。南宋の周弼(しゅうひつ)が唐代の詩人167人の近体詩を七言絶句・七言律詩・五言律詩の三体に分けて編集したもの。中国では「唐詩選」より評価が高いといわれる。なお「唐詩選」「三体詩」「唐詩三百首」が唐詩を学ぶ三大書物でありますよ。

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ラマ僧

2023-02-28 11:02:11 | 漢詩・古典・エトセトラ

チベット問題
中国によるウィグル自治区 チベットの侵略は目に余る問題ですね。針外しが「ラマ僧」の文字に接したのは学生時代、「ダライ ラマ14世」のインドの亡命の時だった。
         

 チベット仏教にもとづく、政教一致の文化をもつチベット人が中国からの独立ないし高度な自治を求めていることから生じている紛争、および諸問題。近来、当局に抵抗する僧侶の焼身自殺が頻発し、チベットでの宗教や自由への圧迫が人権問題だとして国際問題化している。

 宗教指導者ダライ・ラマ14世は1959年にインドに亡命、ダラムサラに亡命政府(ガンデンポタン)をつくっている。中国に住むチベット人は682万人、うち270万人がチベット自治区に、他は青海(せいかい)・甘粛(かんしゅく)・四川(しせん)・雲南(うんなん)などの自治州に住む(2010年中国人口センサス)。

               
  中国共産主義の欠点は自分勝手な論法でチベットが嘗て中国領だったとか、だと「相手の事などお構いなし」に越境して中国による自治を強要したりすることだ。これは現代に至っても未だその傲慢さは変わっていない。

 中国はまだ文化的に見ても途上国だ。いくら飛行機や車、船を他所の国の技術を「パクっ」ても人間の頭のレベルが付いていけてない。そのレベルで他国を配下に置こうとしているから始末に悪い。

 チベット問題は新疆(しんきょう)ウィグルや内モンゴルの問題より複雑である。まず「実際上の独立」の歴史が長く、中華人民共和国になっても1959年3月の反乱でようやく本土への統合が始まり、行政系列に入ったのは1965年にチベット自治区ができてからである。次にチベットがもつ政治的、宗教的、文化的特殊性、さらには海抜4000メートルを超える自然の要害という条件も統合をむずかしくしている。

 また、「チベットとは何か」が中央権力とチベット人の間で異なっている。ダライラマ14世・(チベット亡命政府が主張する「大チベット」構想では)、ウツァン(中央チベット)を囲む周辺チベット(アムドは青海ほぼ全域と甘粛の一部、カムはかつての西康西部、いまの四川西部と雲南北部)に多数のチベット人が散在し、彼らは「大チベット」「チベット人がすむところ」が「チベット」だと考える。つまり、三つのチベットがあることになる。いまの自治区の2倍の領域である。1987年以来、ダライ・ラマ14世は、この「大チベット」を念頭に、「中国との提携関係のもとで」「民主チベット、核兵器のない中立のチベット」を求めている。他方、中央政府のいうチベットはチベット自治区に限られる。  

 1951年の中国人民解放軍のチベット進攻後、チベット側3方(ダライ・ラマ勢力、パンチェン・ラマ勢力、アワン・ジグメNgapoi Ngawang Jigme(1910―2009)勢力)と中央政府の間で「17条の和平協約」が結ばれ、チベットが「共和国の大家庭にもどった」ことが確認される一方、チベット地域の当時の政治制度、宗教制度は変えないことが約束された。だが、1957年から情勢は激変する。「民主改革」、農牧業の集団化が始まるのである。

 1959年3月、ラサを中心にチベット仏教僧侶、旧支配者が反乱を起こした。中共当局がダライ・ラマ14世を観劇に招待すると、「ラマが北京(ペキン)に拉致(らち)される」と考えたラサ住民(一説では3万人)がノブリンカ離宮を包囲、「チベット独立、漢人は帰れ」と騒いだ。離宮では旧チベット政府のカロン(閣僚)が人民会議を開き、チベット僧俗人民の名で政教一致のチベット独立を宣言した。

 中国中央政府は、旧チベット政府軍と武装した反乱者(一説では7000人)が人民解放軍に抵抗したので、3月20日解放軍が5000人のチベット勢力を殲滅(せんめつ)したという(死者は545人)。この間にダライ・ラマ14世は5000メートルの山々を越えてインド北部に脱出、チベットの事実上の独立の歴史や、中共によって1951年協約が反故(ほご)にされたことなどを国際社会に訴えた。

 このチベット反乱の背後には、カム、アムドで土地改革、農牧業の集団化、宗教的特権の廃止などが始まって旧社会を破壊し、旧支配者や僧侶が「衛教軍」などをつくって抵抗したことがあり、チベット社会旧勢力の多数がこの反乱に加わった。対して中央政府は、1959年から1962年にかけて人民解放軍が熾烈(しれつ)な殲滅(せんめつ)作戦を展開し、おびただしい死者を出した。毛沢東が一方で10代の見目麗しい女子を「房中術」と称して毎晩「夜伽」をさせていた。(長江の鮒の数より多かったとさ)

 話は変わって当時「カンフー」物が流行り始めまして、「ジミーウォング」の『片腕ドラゴン』が、皮きりで、中の登場人物に「極悪非道のラマ僧」左龍、左虎が出ていました。全くの人格者揃いなのにね。国の息の掛かった民族洗脳(プロパガンダ)によって中国国民から教化されてしまった訳だ。

   

まだ中国も共和国になりたての頃で香港も「イギリス領」でジミーウォングもこの映画を撮ったのが「台湾」だったそうな。ダライラマとこのラマ僧とのギャップに当時随分と面喰いました。国の立ち位置はその国の人間でないと分からないと言いますけど、今からすると随分と「えげつない洗脳された描写」だったんですね。

こういうプロパガンダに洗脳されているのに「ジャッキー チェン」もいますよね。(もしかしてスパイとして中国共産党に加入しているのかもしれませんが)

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歴代王朝

2023-02-05 08:11:08 | 漢詩・古典・エトセトラ

  中国の歴代王朝の首都の位置が何処ら辺なのか前から気がかりだったのでちょっと調べてみる事にしました。中国の王朝は時に幾つもあってキリが無いので取り敢えず西周からにします。この「西周」読みはと言えば「セイシュウ」かと思いきや何と「サイシュウ」なんだってさ。永年勝手にセイシュウと読み続けてきました。(とても恥ずかしいぞ!)たまには、変換してみるのもいいね。ま、尤も、昔、「不朽の名作」を「フキツノ名作」と読んで大笑いされた事ありましたっけ。(もっと恥ずかしいね)  

 人間の記憶力なんて多寡が知れているね。で、こうやって見ると、秦の都が洛陽にあったのを除いて大概「西安」(せいあん)を中心に置かれていたことが分かるね。三国時代、魏の許昌(キョショウ)、呉の建業(ケンギョウ)蜀の成都(セイト),それと北、南の宋の開封(カイフウ、臨安(リンアン)は特別ね。 それは金に領土を割譲させられたからです。  

西周

鎬京(長安)

前1122―前771

東周

洛邑(長安)

前770―前256

咸陽

前221―前206

前漢

長安

前256-9年

長安

8年-23年

後漢

洛陽
長安

25年-190年

190年-196年

三国

許昌(魏) 

建業(呉)

成都(蜀)

 

196年-220年

西晋

洛陽

265年-316年

東晋

健康

317年-420年

大興(長安)

581年-618年

長安

618年-907年

北宋

開封

960年-112年7

南宋

臨安(杭州)

1127年-1279年

大都(北京)

1264年-1368年

南京
北京

1368年-1420年
1420年-1644年

盛京(奉天)

1634年-1644年

中華民国

北京
南京

広州
重慶
台北

1912年-1928年

1928年-1937年
1949年
1949年

1949年

中華人民共和国

北京

1949年

 世界の首都は案外、ロンドン、パリ、シカゴなんか見ると寒い地方に多い。(ロンドンなんか、外に、牛乳瓶をおいて置くと凍ってしまうから冷蔵庫にいれておくんだとか)

だから、絵本なんかで見る王様の衣装は分厚いコートが多いよね。西安にしてもそんなに温暖な地方じゃないから寒いのではないのかね?。

 針の同級生に芝の「味芳斉」の藤山君がいますが、彼の先代のお父さんが朝4時頃針の家の前を通って店に行くんですが、真冬でも白い「上っ張り」だけで(下素肌)自転車こいで行く姿をよく見かけました。父君は上海の人で、いくら江南の人でも寒さに強いんだな」と思いました。そういえば中国の人は「酒が強いね」。小学校のクラス会で、陳君の店でやったことがありましたが、茅台酒(まおたいしゅ)を持ってきて「針、カンペイ」といって、9本瓶が転がっていました。また、うちの長男が修学旅行で、北京に行ったらもの凄く寒かったってさ。それでも、モンゴル辺りに比べると寒くはないのかね。

        
           西安                   洛陽       許昌 

 中華民国と中華人民共和国は王朝ではありませんので除外です。尤も今の中国共産党は皇帝が何万人もいる国家みたいなものですがね。中国古代は色々尊敬出来ますが、今の中国は党の保身ばかりが目立っていて大嫌いと言うか、蔑みます。歴代王朝は、滅亡の繰り返しですが、我が国の天皇制は2500?年(詳しくは忘れてしまいました。)も一度でも途切れる事無く続いているのは奇跡なんだそうだ。

 歴代の国家も秦の始皇帝の理念そのまま、現代に至っているのでその点は、良くないですね。日本の封建時代も似たりよったりですけど。張儀の言葉に「楚を滅ぼせば、我が国が潤う」というのがありますが、「自分が裕福でいい暮らしをするならば他所を滅ぼす」という考えは昔だからの話ですみますが、それを未だに踏襲して振りかざしている中国はいただけません。  

何だか話が他愛も無く終わってしまったね。     

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李白

2022-12-28 16:51:17 | 漢詩・古典・エトセトラ

 

  • 山中問答        李白
  • 問余何意棲碧山
    余に問ふ 何の意ありて碧山に棲むと君に問うが,    なにゆえ青い山の中に住んでいるのか
  • 笑而不答心自閑
    笑ひて答へず 心 自づから閑(しづ)かなり笑って、   笑って答えないが,心は自ずから静かだ
  • 花流水窅然去
    桃花流水 窅然(えうぜん)として去る。        桃の花,流れる水,その奥深くに分け入れば
  • 別有天地非人間
    別に天地の人間(じんかん)にあらざる有り。     俗世とはまた別の天地があるさ

                   
  • 【訳】
    ある人が、私にこう問うた。あなたは一体、何で好き好んで、深い緑の山のなかに住んでいるのか、と。私は笑って答えない。その心は、いたってのどかである。
  •  桃の花びらを浮かべた川の水が、どこまでも遠く流れ去っていく。ここは別天地、俗世間とは全く違うのだ。

    【解説】
     李白が53歳ごろ、玄宗に長安を追われて10年後、長江の流域を放浪していたころの作ではないかといわれます。山中に隠棲する楽しみを詠んだ詩で、「笑って答えず」の一句とともに、多くの人に親しまれてきました。しかし、かつて玄宗と楊貴妃の前にあって、二人を華やかに詠った『清平調』とは別人の趣きの詩風となっています。
     
    何意は、なんだって好き好んで、碧山は深い緑。桃花流水は、陶淵明の小説『桃花源の記』にある、漁師が谷川に浮かんだ桃の花びらをたどっていくうちに桃源郷に迷い込んだという話を踏まえているとされます。窅然は遠いさま、人間(ジンカン)世の中、俗世間。

  • 針外しなんかこんな処にいたらすぐ飽きちゃって、都会に戻っちゃうだろうね。

 

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杜甫の絶句

2022-12-04 17:10:09 | 漢詩・古典・エトセトラ

杜甫の絶句です。

             
               甫

江碧鳥愈白   こうみどりにして鳥いよいよ白く      川は青緑色、鳥はいっそう白く見える。

山青花欲然   山青くして花えんと欲す     山は青々と、花は燃えるように赤い。

今春看又過   今春すみす又過ぐ       今年の春もみるみるまた過ぎてしまう

何日是帰年   いづれの日にかねんならん   いつになったら故郷に帰ることができるのだろう。

 

美しい蜀の春です。蜀の川はエメラルド色に澄んでいると言います。

山の木々の緑、その間から見える真っ赤な花。

こんな美しい景色を見ながら詩人の心はここに落ち着くことができません。

 

杜甫の故郷は蜀ではなく北の洛陽。洛陽は黄河流域・河南省西部の都市、古代中国で何度も都になっています。長江流域の蜀と黄河流域の洛陽、風土・風景はかなり異なります。どんなに美しい景色でもよそ者には完全に溶け込めないものがあるのでしょう。親兄弟とともに暮らした故郷のなつかしさは何者にも代えがたいものがあるに違いありません。

人間、いくつになっても,生まれ故郷は忘れがたいものですね。

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柳宗元の江雪。

2022-11-30 06:52:50 | 漢詩・古典・エトセトラ

久々に漢詩を一つ。柳宗元の江雪です。有名な言葉に「肝胆相照らす(かんたんあいてらす)」があります。

「肝胆相照らす」とは、「互いに心の底を打ち明けて話し合えたり、深く理解しあって親しく付き合うこと」です。四字熟語では「肝胆相照(かんたんそうしょう)」です。

「肝胆」は肝臓と胆嚢(たんのう)のことで、どちらも生命を支える大事な臓器であることから、転じて「心の奥底」「真実の心」という意味です。「照らす」は知り合うということです。

                                                   

                                                                            柳宗元

柳宗元    江雪

千山鳥飛絶   千山 鳥飛絶へ              すべての山から鳥の飛ぶ姿が絶え

萬徑人蹤滅   万径 人蹤(じんしょう)滅す       あらゆる小道に人の足跡が消えた

孤舟蓑笠翁      孤舟 蓑笠の翁                                           小舟が1つ,みのと笠をまとった老人が

獨釣寒江雪           独り寒江の雪に釣る                                  寒々とした川で独り釣りをしている

柳 宗元(りゅう そうげん、は、中国唐代中期の文学者・政治家。字は子厚(しこう)。本貫(生まれたところ)の河東郡解県から、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。また柳州の刺史であったことから「柳柳州」と呼ばれることもありました。

柳宗元という人

 王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せた。散文の分野では、韓愈とともに宋代に連なる古文復興を実践し、唐宋八家門の一人に数えられます。

 柳鎮の子として生まれた。同時代の著名な文人の白居易・劉禹錫に1年遅れて長安で出生。生まれも育ちも長安であるが、12歳から16歳まで地方官の父の柳鎮に従って江南、江西から潭州の間を歴遊した。

 貞元9年(793年)に進士に挙げられ、貞元14年)には難関の官吏登用試験(科挙)の博学宏詞科に合格、集賢殿正字(政府の書籍編纂部員)を拝命した。新進気鋭の官僚として藍田県、尉(警察官僚)から監察御史(行政監督官)を歴任しました。

 徳宗の治世の8世紀末の唐は、宦官の勢力を中心とする保守派に対決姿勢を強める若手官僚グループの台頭が急であった。王叔文を頭目に戴くこの改革派へ、政界の刷新を標榜する柳宗元は盟友の劉禹錫とともに参加するが、既得権益の剥奪を恐れる保守派の猛反発に遭い、加えて徳宗の崩御後の永貞元年(805年)担ぎ上げた頼みの順宗も病弱で、その退位と同時に改革政策はわずか7カ月であえなく頓挫。礼部侍郎に就任し、これからという時に柳宗元の政治生命は尽きた(永貞改新)。

 政争に敗れた改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、長安を遠く離れた邵州へ、刺史(州の長官)として左遷された。ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州のへ、員外司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない)として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元33歳。

以後、永州に居を構えること10年、元和10年(815年)にはいったん長安に召還されるものの、再び柳州刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま、元和14年(819年)、47歳で亡くなりました。

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最後に三蔵の乗馬。

2022-05-17 17:24:48 | 漢詩・古典・エトセトラ

まず、三蔵法師こと玄奘については以前触れたので省略するが、その乗馬は白馬である。原作では玉龍という名なのだが、本名を明かさない通例により小龍や小白龍などの名が使われる。

これは当然ただの馬ではなく、正体は龍神の子だ。なぜ馬になっているのかというと、かつて西海龍王敖閏(ごうじゅん)の宝玉を火事で焼いてしまった罪で天帝に死罪とされるところを、通りかかった観音菩薩の慈悲で救われたのでありました。

           

 しかし、すぐに無罪放免というわけにいかず、天竺へ経典を求める人の足となるという交換条件だったため、小白龍は蛇盤山の鷹愁澗(ようしゅうかん)という谷川で待機することとなった。

 そして、五行山で孫悟空をお供にしたばかりの三蔵法師がここへやってくるのだが、小白龍はその使命を忘れていたばかりか、空腹のために三蔵法師の馬を飲み込んでしまう。三蔵法師は腰を抜かしてしまい、悟空は逃げながら戦う龍に決定打を与えられなかったため、土地神と山神を呼び出し、対処法を聞き出そうとする。

 大体龍という動物は空の上で「おしっこ」をするとそれを飲んだ人間は「不老長寿」を得られるとあります。何回の」話だか忘れてしまいましたが八戒にせがまれておしっこを出そうとするが、八戒「なんでそんなに勿体ぶっているんだ?」と言うと「師兄、無理言わんでくれよ、このおしっこを求めてどれだけの人間が苦労しているか」

           

 すると、大元の観音菩薩が来れば観念するだろうということで、悟空は観音菩薩を呼び出し、事の顛末を報告する。それを受けた観音菩薩はまじない的なもので小白龍を馬の姿にし、以後は三蔵法師の乗馬として最後まで旅に付き添うこととなる。
                  

 この後は基本的にはずっと馬のままなのだが、一度だけ龍となるシーンがある。それは黄袍怪(こうほうかい)(この妖怪も天女を追いかけて天界から下った者です)との戦いで、三蔵法師は虎に変えられて捕らわれ、悟空ら弟子達も散り散りという大ピンチに際してだ。小白龍は龍となって黄袍怪と戦うが敵わず、結局は悟空に助けを求めることとなる。

          

 此れは玄奘三蔵が周り巡った経路ですが、天竺(インド)についてからもかなり色々な所を回っています。この地図の右側の「唐」の国で回っているのは帰ってきた時の経路ですね。取経の旅に出かけるのに、早く出たいのに、こんなに回ってから出国するはずがないからである。

此れじゃいくら健脚でも馬が無いと無理だね。物語の中でもこの白馬の功績は「大」ですね。

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ついでに沙悟浄

2022-05-13 13:41:18 | 漢詩・古典・エトセトラ

 此処まで来て沙悟浄を取り上げないなんて不公平で可哀想だ。八戒に比べて痩せて青黒くて貧相。

 元々は天界の役人で捲簾大将けんれんたいしょう。天帝(玉帝)の御側役の一人で、霊霄殿れいしょうでんで謁見を求める者が罷り出た時に、天帝の前の御簾(ぎょれん)の側にいて、天帝と謁見を受ける者の間に入り、天帝を守護する役目。近衛兵の大将であり、「霊山の大将」と称される。「捲簾」だからと言って御簾の揚げ降ろしをする担当じゃないよ。かなりの高官で、西遊記における沙悟浄は地位の象徴であると理解される。

 蟠桃会のおりに、天帝の宝である玻璃の器を手を滑らせて割ってしまった罪で天界を追われた。鞭打ち800回の刑を受けて下界に落とされ、さらに7日に1度は鋭い剣を飛ばして脇腹を貫くという罰を受け続け、飢えと寒さから三千里もあるという弱水流沙河で人を喰らう妖仙となった。日本にも「番町皿屋敷」で皿を割ったお菊さんが処罰されてしまう話がありますが、玉帝ともあろう者が、玻璃の器を割った位で下界に叩き落とすなんて、心が小さい気がするね。

           

 ある日、天竺に経典を取りに行く取経者を探していた観音菩薩と出会って突然襲いかかるが、お供の惠岸行者に阻止されて戦う。ひとかどではないと悟って相手の名を聞いてみると菩薩の一行であったので、平伏して慈悲を乞い、これまでに9名の取経者を殺したことを告白する。菩薩は次に来る取経者の弟子となるように諭し、沙悟浄という法名と戒律を与え、さらに殺した取経者の髑髏は持っておくように命じた。普通は通称の「沙和尚しゃおしょう」と僧侶名で呼ばれる(孫悟空の「孫行者」、猪悟能の「猪八戒」と同じ)。

 その後、観音菩薩の約束どおり三蔵の一行が流沙河を通りかかるが、また相手が誰か確かめることなく、旋風のように襲いかかる。三蔵を掠おうとした試みは、水戦が得意な八戒に阻止されたが、三度戦ってもなかなか打ち破れないので、悟空が觔斗雲きんとうんでわざわざ観音菩薩を呼びに行った。菩薩は恵岸を派遣して、悟浄を降参させ、ひょうたんを渡して、9つの髑髏とあわせて法船(筏)とし、三蔵一行を流沙河の向こう岸へと渡した。法船は渡りきった後に、またひょうたんと髑髏に戻り、ひょうたんは恵岸が持ち帰るが、9つの髑髏は九筋の陰風いんぷうとなって音もなく消え去った。

 以後、三蔵に弟子入りし、剃髪して僧形となると、孫悟空、猪八戒らと共に天竺まで経典を求めて旅をすることになった。このように原作では、弟子の中では唯一、僧形をしているが人間とは異なる濃色の容姿から「竈君」(竈の神様)としばしば間違われる様が見られる。
捲簾大将と言えば、三銃士でいうと近衛の衛士の隊長の「デッサール侯爵」とか銃士隊長の「トレヴィル殿」位、偉いけど何故か八戒より弱く書かれているね。
沙悟浄と猪八戒の話で記憶に残っているのに「八戒」が「俺もなかなかの美男子だからなあ!」と言うと沙悟浄が大笑いして八戒の顔をつるりと撫でて「どの顔がそう言わせるんだ。そういうのを『ボロボロの駄馬に乗って乗る身が自慢』って言って、「お前のような奴の事を言うんだよ」

その後天竺にたどりついた沙悟浄は西天如来(釈迦如来)から金身羅漢(金身阿羅漢菩薩)になることを約束された。

皆、正果を得られてめでたしめでたしだ。あ、白馬を忘れてたよ。
もうちょっと続きます。

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