針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

柳宗元の江雪。

2022-11-30 06:52:50 | 漢詩・古典・エトセトラ

久々に漢詩を一つ。柳宗元の江雪です。有名な言葉に「肝胆相照らす(かんたんあいてらす)」があります。

「肝胆相照らす」とは、「互いに心の底を打ち明けて話し合えたり、深く理解しあって親しく付き合うこと」です。四字熟語では「肝胆相照(かんたんそうしょう)」です。

「肝胆」は肝臓と胆嚢(たんのう)のことで、どちらも生命を支える大事な臓器であることから、転じて「心の奥底」「真実の心」という意味です。「照らす」は知り合うということです。

                                                   

                                                                            柳宗元

柳宗元    江雪

千山鳥飛絶   千山 鳥飛絶へ              すべての山から鳥の飛ぶ姿が絶え

萬徑人蹤滅   万径 人蹤(じんしょう)滅す       あらゆる小道に人の足跡が消えた

孤舟蓑笠翁      孤舟 蓑笠の翁                                           小舟が1つ,みのと笠をまとった老人が

獨釣寒江雪           独り寒江の雪に釣る                                  寒々とした川で独り釣りをしている

柳 宗元(りゅう そうげん、は、中国唐代中期の文学者・政治家。字は子厚(しこう)。本貫(生まれたところ)の河東郡解県から、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。また柳州の刺史であったことから「柳柳州」と呼ばれることもありました。

柳宗元という人

 王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せた。散文の分野では、韓愈とともに宋代に連なる古文復興を実践し、唐宋八家門の一人に数えられます。

 柳鎮の子として生まれた。同時代の著名な文人の白居易・劉禹錫に1年遅れて長安で出生。生まれも育ちも長安であるが、12歳から16歳まで地方官の父の柳鎮に従って江南、江西から潭州の間を歴遊した。

 貞元9年(793年)に進士に挙げられ、貞元14年)には難関の官吏登用試験(科挙)の博学宏詞科に合格、集賢殿正字(政府の書籍編纂部員)を拝命した。新進気鋭の官僚として藍田県、尉(警察官僚)から監察御史(行政監督官)を歴任しました。

 徳宗の治世の8世紀末の唐は、宦官の勢力を中心とする保守派に対決姿勢を強める若手官僚グループの台頭が急であった。王叔文を頭目に戴くこの改革派へ、政界の刷新を標榜する柳宗元は盟友の劉禹錫とともに参加するが、既得権益の剥奪を恐れる保守派の猛反発に遭い、加えて徳宗の崩御後の永貞元年(805年)担ぎ上げた頼みの順宗も病弱で、その退位と同時に改革政策はわずか7カ月であえなく頓挫。礼部侍郎に就任し、これからという時に柳宗元の政治生命は尽きた(永貞改新)。

 政争に敗れた改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、長安を遠く離れた邵州へ、刺史(州の長官)として左遷された。ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州のへ、員外司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない)として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元33歳。

以後、永州に居を構えること10年、元和10年(815年)にはいったん長安に召還されるものの、再び柳州刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま、元和14年(819年)、47歳で亡くなりました。

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最後に三蔵の乗馬。

2022-05-17 17:24:48 | 漢詩・古典・エトセトラ

まず、三蔵法師こと玄奘については以前触れたので省略するが、その乗馬は白馬である。原作では玉龍という名なのだが、本名を明かさない通例により小龍や小白龍などの名が使われる。

これは当然ただの馬ではなく、正体は龍神の子だ。なぜ馬になっているのかというと、かつて西海龍王敖閏(ごうじゅん)の宝玉を火事で焼いてしまった罪で天帝に死罪とされるところを、通りかかった観音菩薩の慈悲で救われたのでありました。

           

 しかし、すぐに無罪放免というわけにいかず、天竺へ経典を求める人の足となるという交換条件だったため、小白龍は蛇盤山の鷹愁澗(ようしゅうかん)という谷川で待機することとなった。

 そして、五行山で孫悟空をお供にしたばかりの三蔵法師がここへやってくるのだが、小白龍はその使命を忘れていたばかりか、空腹のために三蔵法師の馬を飲み込んでしまう。三蔵法師は腰を抜かしてしまい、悟空は逃げながら戦う龍に決定打を与えられなかったため、土地神と山神を呼び出し、対処法を聞き出そうとする。

 大体龍という動物は空の上で「おしっこ」をするとそれを飲んだ人間は「不老長寿」を得られるとあります。何回の」話だか忘れてしまいましたが八戒にせがまれておしっこを出そうとするが、八戒「なんでそんなに勿体ぶっているんだ?」と言うと「師兄、無理言わんでくれよ、このおしっこを求めてどれだけの人間が苦労しているか」

           

 すると、大元の観音菩薩が来れば観念するだろうということで、悟空は観音菩薩を呼び出し、事の顛末を報告する。それを受けた観音菩薩はまじない的なもので小白龍を馬の姿にし、以後は三蔵法師の乗馬として最後まで旅に付き添うこととなる。
                  

 この後は基本的にはずっと馬のままなのだが、一度だけ龍となるシーンがある。それは黄袍怪(こうほうかい)(この妖怪も天女を追いかけて天界から下った者です)との戦いで、三蔵法師は虎に変えられて捕らわれ、悟空ら弟子達も散り散りという大ピンチに際してだ。小白龍は龍となって黄袍怪と戦うが敵わず、結局は悟空に助けを求めることとなる。

          

 此れは玄奘三蔵が周り巡った経路ですが、天竺(インド)についてからもかなり色々な所を回っています。この地図の右側の「唐」の国で回っているのは帰ってきた時の経路ですね。取経の旅に出かけるのに、早く出たいのに、こんなに回ってから出国するはずがないからである。

此れじゃいくら健脚でも馬が無いと無理だね。物語の中でもこの白馬の功績は「大」ですね。

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ついでに沙悟浄

2022-05-13 13:41:18 | 漢詩・古典・エトセトラ

 此処まで来て沙悟浄を取り上げないなんて不公平で可哀想だ。八戒に比べて痩せて青黒くて貧相。

 元々は天界の役人で捲簾大将けんれんたいしょう。天帝(玉帝)の御側役の一人で、霊霄殿れいしょうでんで謁見を求める者が罷り出た時に、天帝の前の御簾(ぎょれん)の側にいて、天帝と謁見を受ける者の間に入り、天帝を守護する役目。近衛兵の大将であり、「霊山の大将」と称される。「捲簾」だからと言って御簾の揚げ降ろしをする担当じゃないよ。かなりの高官で、西遊記における沙悟浄は地位の象徴であると理解される。

 蟠桃会のおりに、天帝の宝である玻璃の器を手を滑らせて割ってしまった罪で天界を追われた。鞭打ち800回の刑を受けて下界に落とされ、さらに7日に1度は鋭い剣を飛ばして脇腹を貫くという罰を受け続け、飢えと寒さから三千里もあるという弱水流沙河で人を喰らう妖仙となった。日本にも「番町皿屋敷」で皿を割ったお菊さんが処罰されてしまう話がありますが、玉帝ともあろう者が、玻璃の器を割った位で下界に叩き落とすなんて、心が小さい気がするね。

           

 ある日、天竺に経典を取りに行く取経者を探していた観音菩薩と出会って突然襲いかかるが、お供の惠岸行者に阻止されて戦う。ひとかどではないと悟って相手の名を聞いてみると菩薩の一行であったので、平伏して慈悲を乞い、これまでに9名の取経者を殺したことを告白する。菩薩は次に来る取経者の弟子となるように諭し、沙悟浄という法名と戒律を与え、さらに殺した取経者の髑髏は持っておくように命じた。普通は通称の「沙和尚しゃおしょう」と僧侶名で呼ばれる(孫悟空の「孫行者」、猪悟能の「猪八戒」と同じ)。

 その後、観音菩薩の約束どおり三蔵の一行が流沙河を通りかかるが、また相手が誰か確かめることなく、旋風のように襲いかかる。三蔵を掠おうとした試みは、水戦が得意な八戒に阻止されたが、三度戦ってもなかなか打ち破れないので、悟空が觔斗雲きんとうんでわざわざ観音菩薩を呼びに行った。菩薩は恵岸を派遣して、悟浄を降参させ、ひょうたんを渡して、9つの髑髏とあわせて法船(筏)とし、三蔵一行を流沙河の向こう岸へと渡した。法船は渡りきった後に、またひょうたんと髑髏に戻り、ひょうたんは恵岸が持ち帰るが、9つの髑髏は九筋の陰風いんぷうとなって音もなく消え去った。

 以後、三蔵に弟子入りし、剃髪して僧形となると、孫悟空、猪八戒らと共に天竺まで経典を求めて旅をすることになった。このように原作では、弟子の中では唯一、僧形をしているが人間とは異なる濃色の容姿から「竈君」(竈の神様)としばしば間違われる様が見られる。
捲簾大将と言えば、三銃士でいうと近衛の衛士の隊長の「デッサール侯爵」とか銃士隊長の「トレヴィル殿」位、偉いけど何故か八戒より弱く書かれているね。
沙悟浄と猪八戒の話で記憶に残っているのに「八戒」が「俺もなかなかの美男子だからなあ!」と言うと沙悟浄が大笑いして八戒の顔をつるりと撫でて「どの顔がそう言わせるんだ。そういうのを『ボロボロの駄馬に乗って乗る身が自慢』って言って、「お前のような奴の事を言うんだよ」

その後天竺にたどりついた沙悟浄は西天如来(釈迦如来)から金身羅漢(金身阿羅漢菩薩)になることを約束された。

皆、正果を得られてめでたしめでたしだ。あ、白馬を忘れてたよ。
もうちょっと続きます。

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次は猪八戒。

2022-05-08 20:27:07 | 漢詩・古典・エトセトラ

今度は「猪八戒」。孫悟空をやったのでついでに「猪八戒」です。 

中国語では家猪はブタ野猪がイノシシを意味して、単に「猪」といえば通常はブタのことをさします。元の時代の西遊記とみられる逸話をもつ朝鮮の『朴通事諺解』では、「猪」と近似した発音の「朱」を名字としていたが、明代に皇帝の姓が「朱」(朱元璋)であったため、避諱により元の意の通り「猪」を用い、猪八戒となりました。西遊記が唐の時代だから、後の元の事を言っても辻褄が合わないね。

              

  八戒は元々、天界で天の川を管理し水軍を指揮する天蓬元帥てんぽうげんすいだった。西遊記よりも古い書物では摩利支天の配下・御車将軍であったともされています。女癖の悪さで知られ、西王母の管轄する蟠桃会の折に酔った勢いで嫦娥に強引に言い寄った為、鎚で2000回打たれる刑罰をうけ、さらに天界を追われて地上に落とされた。

 地上では真っ当に生きようと人間に生まれ変わるはずが、誤って雌豚の胎内に入り、黒豚の妖怪となってしまった。雌豚の腹を噛み破って生まれ、群れの他の豚も打ち殺して、福陵山で人食い妖怪となる。その後、武芸をたしなむことを見初められ、福陵山雲桟洞の女妖怪であった卯二姐マオアールジェに婿として迎えられるが、一年余りで妻とは死別し、彼女の財産を使い果たすと、また人を喰らうようになった。

ある日、天竺に経典を取りに行く人物を探していた観音菩薩と恵岸に出会い、菩薩と知らずに最初は襲撃するが、知って慈悲を乞う。菩薩は猪悟能ちょごのうという名を与えて、取経者の弟子となるように諭した。それで改心して人食いを止め、自らの意志でときを守って五葷ごくん三厭さんえん(八戒)を断つ決心をして、精進料理だけの食生活をして待っていた。

しかし待ちくたびれて人里におりていき、猪剛鬣ちょごうりょうと名乗って、烏斯蔵国、高老荘の商家に強引に婿入りし、高太公の末娘の高翠蘭を娶る。ただし娘に危害は加えておらず、大変な大飯喰らいだが、酒やなまぐさは食さずに精進を貫き、家業にも励んで財産をなしていたという。ところが、化け物を婿にとったというのでは世間への体裁が悪いという、高太公が玄奘三蔵に頼んで、孫悟空に退治させることになった。悟空と戦うが、相手が観音菩薩の予告した取経者の一行だと知ると降参し、ねぐらの雲桟洞を焼き払って、三蔵に弟子入りした。

三蔵は、五葷三厭を食べないでいたことに感心し、念願が叶ったので物忌をもう止め普通に食べたいという猪悟能をおしとどめて、猪八戒という別名を与え、以後も戒めは守り続けるように諭した。彼はこれを嬉々として受け入れる。以後、孫悟空、沙悟浄と共に天竺まで経典を求めて旅をする。

原作においては、敬虔(けいけん)な仏教徒や僧として描かれています。煩悩と戦いながらも飲酒(ただし般若湯と憚って飲むシーンはある)・生臭食・女犯(前述の通り婿入りしたことはある)を犯すことは無く、僧としての義務である八斎戒も守っていた。三蔵一行のなかでコミカルな役回りが多く、明るく単純な性格に描写され、悟空によくからかわれる。豚そのものの醜い姿で、頭髪はない。

西域より帰還の後、未来世に浄壇使者(じょうだんししゃ)となることを釈迦如来より約束される。三蔵法師は旃檀功徳仏、孫悟空は闘戦勝仏、沙悟浄は金身羅漢であり、3人は仏や聖者なのに自分だけ「使者」である事に猪八戒は不平を漏らすが、釈迦如来曰く、法事の祭壇を清める(つまり供物の残りを好きなだけ食べられる)役という事で、猪八戒の大食に配慮しての事であった。

  • 太鼓腹に長い鼻のある豚の顔 怪力 好色 食欲旺盛 (ブタに生まれて来たのでしょうがないね。)楽天的 欲が深い 怠け者 愚か (もとは天上界で威厳のある役職だったのにブタの腹に潜り込んだ為にこんなに馬鹿になっちゃったんだね。でも根本は純情さが残っていますね)。
  • 武器は釘鈀(ていは)。9本の歯を持つ、熊手を思わせる馬鍬(まぐわ)風の農具で、太上老君の作。材質は神氷鉄。元帥昇進の祝いに天帝から下された物。重量は経蔵1つ分の経典と同じ、5040斤(約3トン)。ほとんど振るわれることはないが、本気で使うと火炎旋風を巻き起こすという。子供の頃このマグワをそういう名前の武器があると思ってました。
               
             西遊記にかかれている馬鍬はこんな感じかね?

    ・孫悟空同様に雲に乗って空を飛べる

    猪八戒は物語の中で少しは妖怪を退治していますが、悟空とは「雲泥の差」ね。挙げて見ると
    虎先鋒 狐阿七大王 蠍の精 万聖公主 十八公ら木の精(松の木の精)美后 南山大王 辟暑大王 辟塵大王(忘れてしまいましたが牛の精だったか)

    弱っていたのとか、女性、樹の精とかが多いね。弱いものしか勝てない。

    八戒はある意味人間の弱みの特徴を描いていると思います。物語を読んで「八戒」を馬鹿にしても、人間と変わり無いじゃないかって
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對 酒

2022-05-04 10:36:37 | 漢詩・古典・エトセトラ

流石、李白ともなれば人に酒を勧めるのにも品と学がありますねえ。「おーい、酒飲めよー、俺の酒は飲めねーって言うのかよ?」なんて事、言いません(←針外しの事みたいだね)。
          

   對 酒 
     李白

勸君莫拒杯,春風笑人來。 君に勧む杯を拒む莫れ、春風人に笑ってくる。
酒を注ぐから、拒みなさんな、ほら春の暖かい風が人に微笑みかけてくるではないか。
桃李如舊識,傾花向我開。 桃李 舊知の如く、花を傾け、我に向かって開く。
桃やスモモは昔馴染の如く、花を私に向かって開いてくれている。
流鶯啼碧樹,明月窺金罍。 流鶯 碧樹に啼き、明月金罍を窺う。
鶯が渡り来て(椿みたいな常緑樹)で啼いてくれている。明月は(銅の酒器)の中の酒を覗いています。

朱顏子,今日白髮催。 昨来 朱顔の子、今日、白髮催す。

昨日までは、紅顔の少年も、今日は白髪が迫り来ている。
棘生石虎殿,鹿走姑蘇臺。 棘は生ず、石虎の殿、鹿は走る姑蘇の臺。
石虎殿にも荊が生えて、姑蘇臺には鹿が走っている。
自古帝王宅,城闕閉黃埃。 古より帝王の宅と城闕とは黃埃に閉さる。
古から帝王宅とか城壁とかであっても黄塵で埋まってしまっている
君若不飲酒,昔人安在哉? 君もし酒を飲ざれば昔人いずこにありや。
もし、酒を飲まないのであれば、昔の人が死んで(何処にいるってんだよ)しまってもう酒を飲めないのと同じではないか?。

*webで探しても良い和訳が載っていません。これらは針外しの拙い、勝手な注訳となりまする。

       

・對(=対)は向かって等云う意味があります。
・舊識(旧識):以前からの知り合い。昔からの知人。旧知。
・罍:中国古代の青銅器。酒器。
・棘:サネブトナツメ。酸棗(さんそう)。
石虎殿:石の虎が刻まれる古代帝王の墓。〔石虎(せきこ)は五胡十六国時代の後趙の第三代の皇帝建武帝。次々に大宮殿を造営した。九華宮〕
姑蘇臺呉王夫差の宮殿姑蘇台。夫差の寵妃西施(せいし)(絶世の美人さんだよ)のいた宮殿である。江蘇省呉県の西南。姑蘇という字から「姑蘇城外寒山寺」が思い出されます。ということは近くなんだね。
・自古:昔から。昔より。
・安在哉:どこにいるだろうか(反語)。

 良くお酒を飲めない方は人生の半分しか幸せを享受出来ていないと言われます。刺身や鍋、焼肉食べてもお酒がその旨味を倍加します。なんて事を言っているのかしらね。
酒は飲まれては駄目ですが、嗜む程度なら、この上なく幸せです。また、心を許した友人と美酒を酌み交わして歓談する事は、人間に生まれてきて最高の幸せかも知れません。あ、これに加えて美人さんもね。(これが本心か?!)お酌なんかしてくれたら、最高の宴(うたげ)となりますね。

 ただ其処には風流、粋、品格があれば、美味しい酒宴を台無しにしないですみますね。
針外しはこれを全部ひっくるめて美味しいお酒と言っています。(へへッ)

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前に三蔵法師をやったので(三蔵と会う前)

2022-05-01 11:18:48 | 漢詩・古典・エトセトラ

今度は孫悟空です。

 孫 悟空 西遊記の主要登場の一人である上仙。今も崇拝される道教の神でもあり、香港をはじめ、台湾や東南アジアでは一般に斉天大聖の号で呼ばれ、信仰されている。彼は中国の民間信仰のなかで最も活躍するの英雄の一人である。何故か武林の門派でも始祖に祭り上げられて事があります。別名は孫行者。時代背景は唐の太宗の時ですが元代の『西遊記』(最古とされる)のあらすじを収録した朝鮮の書『朴通事諺解』(1677年)には孫吾空の記載があります。

『西遊記』の雑劇などの書作品での通称は猴行者、あるいは通天大聖などさまざまな名前で呼ばれているが、今は孫行者の名に落ち着いています。日本でよく知られた孫悟空は「いみな」であり避諱により当時の中国では一般には使用されない。

避諱    中国では古来、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられていた

物語は、昔々東勝身州須弥山にある傲来国の沖合にうかぶ火山島、花果山の頂に一塊の仙石がありまして、この石が割れて卵を産み、卵は風にさらされて一匹の石猿が孵った

 この石猿は、島に住む猿たちが、誰かが谷川の水源を見つけたら王様にするというので、勇を振るって滝壺に飛び込み、水簾洞という住み処を見つけてきたので、約束どおり猿たちに崇められ美猴王と名乗ることになりました。
 数百年経ったある日、限りある命にはかなさを感じたことから不老不死の術を求めて旅に出て、十年以上かけて西牛賀洲に住む
須菩提
祖師すぼだいそし
という仙人を探し出して弟子入りした。祖師は、姓を持たぬという美猴王に孫という姓を与え、孫悟空の法名を授ける。7年後、兄弟子を差し置いて、念願の長寿の妙道を密かに教わり、さらに3年後に地煞数ちさつすうという七十二般の変化の術を自然に悉く体得してしまった。さらに觔斗雲法も教わって自在に空の雲に乗れるようになる。ところが、他の弟子に術を見せびらかしたことから、祖師の怒りを買い故郷に帰るように命じられた

 花果山に帰郷すると、混世魔王という化け物が水簾洞を荒らしていたので身外身の術で退治したが、これをきっかけに傲来国に出かけて大量の武器を強奪して配下の猿たちに配って守りを固めさせ、配下の猿を軍隊にまとめ上げた。そうすると自分の武器も手に入れたくなり、海中の東海竜王敖廣の宮殿である龍宮にいき、悟空の意によって自在に伸縮する如意金箍棒を無理矢理譲ってもらう。さらに「三件回るより一軒でねばれ」と長く居すわって残りの三海の竜王たちからも武具を要求し、金の冠、金の鎧、歩雲履の防具一式を持ってこさせた。 牛魔を含む6大魔王[13]の妖仙と義兄弟となり、宴席で酔いつぶれていると、幽冥界から使いが2人きて魂を連れ去り、「寿命が尽きた」という。しかしそんなはずはないと抗弁して暴れ、閻魔帳を持ってこさせると、なるほど孫悟空の寿命が342歳とあるので、自分の名を墨で塗りつぶし、ついでに気に入ってる仲間の猿の名前もいくつか消した。もうお前らの厄介にはならんと冥界十王を殴って帰ってきたところで、目が覚めたが、以後、悟空以外の山猿にも不老のものがふえたという。
六代魔王=蛟魔王こうまおう鵬魔王ほうまおう獅駝王しだおう獼猴王びこうおう𤟹狨王ぐしゅうおうを加えた7兄弟は、七大聖と呼ばれ、牛魔王が長兄。

大鬧天宮だいどうてんぐう

こうして死籍を消すに至ったことから、天界からも危険視される存在になった。天上界の主宰者、天帝(玉帝)は石猿を討伐しようとするが、太白金星の意見で思い直し、官吏として天界に召すことで懐柔することにした。悟空は、天界の使者に喜び、弼馬温(馬の世話係)に任命されたが、半月後にその身分が低いと知ってへそを曲げ、不意に脱走してしまう。地上ではすでに十数年経っていたが、帰還した美猴王を神としてかしずく猿たちに囲まれて気分がいいところに、独角鬼王という妖怪が訪ねてきて臣下となり、さらに褒めそやして煽てたので、有頂天になった悟空は斉天大聖(天と同格)と自ら号するようになった。これを聞いた天帝は身の程知らずの石猿だと怒り、托塔李天王を大将にする討伐軍に派遣したが、先鋒の巨霊神と哪吨太子が敗れて歯が立たないと、悟空の神通力に恐れをなして退却した。

力で抑えるのが難しいとわかると、再び太白の意見で懐柔策をとることになり、二度目は悟空の希望通りの待遇とすることにして、新官職「斉天大聖」が創設され、正式に任命された。これは職務のない名目だけの官職であった。これでしばらくは悟空も満足していたが、天界では暇をもてあましていたので、新たに蟠桃園の管理を任されることになる。ところが、不老は悟空の最も好むところであり、栽培されている仙桃が熟れるのを待って食べ尽くした。そこに美しい仙女たちが桃を摘みに来て宴会が催されるというので、悟空は仙女たちが歓談する宴席に忍び込んで酒番を眠らせ、仙酒仙肴を食べ荒らし、さらに酔ったはずみで兜率天宮に迷い込んだので、ついでに太上老君の金丹の全部を頬張って、再び天界を逃げ出した。

 悟空が戻ると地上では百年経過していた。天帝は烈火のごとく怒り、天兵10万を派遣して包囲し、諸将を総動員して攻めかからせた。悟空の側は、七十二洞の妖怪たちと独角鬼王は生け捕られたが、猿たちはすべて逃げ延び、悟空は太子と四大天王、恵岸を打ち負かした。ところが恵岸がその師である観音菩薩に苦戦を報告したところ、菩薩は天帝に顕聖・二郎真を推薦する。門番は五月の節句で有名な「鐘馗様」だよ。玉帝の弟君。

 二郎真君は梅山の六兄弟と共に悟空を遂に追い詰め、太上老君の投げた金剛托(こんごうたく)で悟空が脳天を打たれてふらふらのところを捕まえた。

 天帝は、悟空を斬妖台に引きだして八つ裂きの刑にするが、悟空は仙丹の力で無敵の体となっていたので刀も斧も歯が立たず、火すら効果がなかった。最終手段として太上老君の秘法八卦炉の前に差し出し押し込めて熔かそうとするも、火の回らない巽の隅に退避して無事を得る(代わりにいぶされて目が真っ赤「火眼金睛」(あかめ)となった)。もう焼き尽くされたかと炉を開けると、勢い八卦炉から飛び出し、大暴れしてもう手が付けられない状態になった。悟空が怖ろしくなった天帝は、雷音寺の釈迦如来に助けを求めることになる。如来は悟空に身の程をわきまえさせるために賭けを持ちかけ、如来の手のひらから飛び出せなかった悟空を取り押さえて、五行山に五百年間封印してしまった。と此処で針外しの話はおしまいね。全部書いたら本を破って貼り付けた方が早いからだ。読者の皆さんは如来の指で出来た五行山から三蔵が悟空を助け出す処から見ているひとが多いよね。天界で大暴れする処は結構飛ばしてしまっている。

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曹沖 曹操の八番目の子

2022-04-26 21:46:52 | 漢詩・古典・エトセトラ

曹沖、字名は倉舒(そうじょ)。曹操の八番目の息子です。曹操と言う人物は、性癖というか、敵将を亡ぼすと必ず后を自分の側室に取り込んできました。曹沖もその例にもれず側室に入って出来た子なので曹操の子として順列に入ります。

                 
 幼少の頃から学問好きで、聡明な上に心優しかったため家臣からの信望も厚く、将来を嘱望されていた。曹操もその才を溺愛し、一時は嫡子曹丕よりも、曹沖に後継させようと考えていたほどであった。しかし曹沖はわずか13歳で早世してしまう。死後、鄧哀王と諡された。

 また一説によると、曹操の屋敷の中に百歩蛇という毒蛇がいたが、曹丕がそれを使い,曹沖を毒殺したとあります。長男である自分が、疎まれて、末弟の曹沖が曹操に溺愛されていたのを嫉妬したんですね。その後、先に述べた曹植とも跡目争いをして後に皇帝の座につきました。曹操の子達は皆、異母兄弟だったんですね。

 曹操の典医、華佗は中国史上稀に見る名医だった。しかし曹操が華佗を重用しなかったので、華佗は医学書を取りに行くといって故郷に帰ったまま、2度と帰って来なかった。怒った曹操は、諫める部下の言葉に耳も貸さずに華佗を投獄し、拷問の末に殺してしまった。それを知った曹沖は、嘆きのあまり死んでしまったとされる。どれが本当だか分からないね。

 これには別の話が合って曹操は脳腫瘍の病気があって、それを治すべく華佗を呼び寄せたが、脳を切り開くと聞いて曹操が激怒して華佗を殺したとあります。その時に曹沖が亡くなったとは書いてありません。
因みに華佗は寿亭候の関羽の臂の治療をして「名医と名患者」の話がありますね。少林寺の五拳は華佗の[五禽の戯]を参考に作られたとあります。

また弟子の法某に医術書を伝授したが、留守にしている時に女房が庭で焚火にして焼いてしまっていて「こんな書は、生活には役にたたない」と言ったとか。

 曹操は危篤状態の曹沖を回復させるため、医者のみならず普段は迷信的であるとして馬鹿にしていた「拝み屋」までを各地から集め、祈祷させたという。死後は、同時期に死んだという美しいと評判の甄家の少女の遺体をもらい受け、結婚式と葬式を同時に挙行させたという。吉川幸次郎氏は「いわゆる冥婚の最も早い例の一つ」と『三国志実録』の中で述べている。
 幼い頃から学問を愛する心優しい性格の曹沖を、曹操は溺愛しており、周囲の者もその将来を嘱望していました。まだ曹沖は幼少で亡くなった為に詩とかは残っていませんが、数少ないですが逸話が残っています。曹沖の聡明さや優しい性格を伝える逸話がいくつかあります。

 倉庫に保管してあった曹操の鞍(馬具)がネズミにかじられてしまったと言うことがありました。この時代、ネズミに何かをかじられるのは不吉の前兆であるという迷信がありました。事を知った曹操は怒り、責任者の倉庫番を処罰しようと考えました。話を知った曹沖は、倉庫番に『三日経ってから自首しなさい』と言った上で、自分の服にわざと穴を開け、嘆き悲しんで見せました。息子のただならぬ様子を案じた曹操が理由を尋ねたところ、曹沖は服の穴を見せ『ネズミに服をかじられました。不幸が起こるかもしれません』と曹操に訴えました。曹操は『それは迷信だから安心しなさい』と諭したといいます。三日後、倉庫番が曹沖に言われた通り自首しましたが、曹操は笑って彼を許し、咎めませんでした。

また、曹操の元に、孫権から贈られたゾウが届いた時のこと。その大きさに感心した曹操は、ゾウがどれほどの重さがあるのかと使者に訪ねましたが、誰もゾウの重さを知るものはいませんでした。

その様子を見ていた曹沖が父、曹操に「まずゾウを船に乗せ、水面のところに印をつけます。ゾウを船から下ろして、代わりに石を積んでいきます。ゾウを乗せた時と同じ所まで船が沈んだら、積んだ石の重さがちょうどゾウの体重と同じになっているはずです」とアドバイスしました。曹沖の利発さに、曹操は大いに喜んだと言われています。

利発な子は針外しはとても羨ましいね。でも早逝したんじゃね。

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山行 杜牧

2022-03-29 09:03:14 | 漢詩・古典・エトセトラ

 山行(さんこう)は、晩唐を代表する詩人のひとり、杜牧(とぼく…803~852)の詩です。杜牧の代表作の一つ[江南の春」が春の詩であるのに対し、こちらは秋の美しさを愛でた詩です。
                       

   山 行  杜牧

遠上寒山石径斜 遠く寒山に上れば石径せっけいななめなり 人気のない寂しい秋の山を遠く登れば、小石の道が斜めに続いていき

白雲生処有人家  白雲生ずるところ人家有り  白い雲の湧くあたりに人家がポツンポツンと見える

停車坐愛楓林晩  車を停めてそぞろに愛す楓林の晩  夕暮れ車を停めさせてしみじみとカエデの林を眺めると

霜葉紅于二月花  さうえふは二月の花よりもくれなゐなり  紅葉した葉は春の桃の花よりも赤い

「寒山」は「人気(ひとけ)のない寂しい山」。「石径」は「石の多い小道」。「遠」は山の高さを示しているのでしょう。頂上がはるかかなたに見える人気のない山に登ると、石の小道が斜めに続いている、という情景です。白雲生処」とありますからだいぶ高い所です。そこに人家が見えるのです。立科の針の家がある処位かね?。

杜牧はえらいお役人さんなので「車」で行くのですね。どんな車なんでしょうか。昔の中国を描いた映画などに人をかついで山道を登っていく映像があり、どのようにして登っていくかというと棒に椅子のようなものをくくりつけ、そこに人が座って棒の両端を人がかついでいくのです。ただそれですと「」とは呼べず「輿(こし)」になります。この詩では「車」となっていますから車輪がついているのでしょう。人が後ろから押す手押し車のようなものだったのかもしれません。もしそうだとするとそれほど勾配のキツイ山道ではなかったのでしょう。「坐」は「そぞろに」と読ませ、「なんとなしに・そのまま・うっとり」などの意味を持ちます。

            

 「楓林」は「カエデの林」。「晩」は「夕暮れ」。車を停めさせてそのまま美しい夕暮れのカエデの林を眺めたのです。「霜葉」は「霜にあたった葉」で紅葉した葉っぱのことです。
 「二月の花」は「旧暦2月のころ咲く花」ですから桃の花でしょうか?。紅葉したカエデの葉は真っ赤に燃え、春の桃の花より赤い。この最後の句にこの詩の命があって、前3句はこれを言わんがための前置きだ、とする評者もいます。確かに色彩のない前3句からこの4句に来るとパッと別世界に入り込んだような艶やかさがあります。

 このように色彩のあまり感じられない描写から突然目の前が開け鮮やかな世界が広がる…という描き方は中国の詩文にときどき出てきます。典型が陶淵明の『桃花源の記』です。トンネルを抜けるとこの世離れした美しい村里が現れてくる…。

 人の胸を打つ表現は時代を越えて別の詩人にインスピレーションを与えていくのでしょう。

 民国時代に活躍し、中華人民共和国時代も生きた作家・茅盾(ぼう・じゅん…1896~1981)が1946年に小説『霜葉紅似二月花』を出していますが、このタイトルはこの『山行』から取ったものです。革命を気取ったもののやがて挫折していくプチブル出身の若者たちをこの「霜葉」に例え、ホンモノの紅(共産党)とは異なり、やがてしおれていくとしたのだと解釈されています。元になった詩の雰囲気とはだいぶ異なりますね。

                  
 
 杜牧(と・ぼく…803~852)は晩唐(ばんとう…唐の最後の70年余りを指す言葉)を代表する詩人です。杜甫とは先祖を同じくする遠い親戚です。科挙にチャレンジしても合格できなかった杜甫とは異なり、かなり若くして科挙に合格し官職についていますが、あまり出世はできませんでした。

 家族のめんどうをみる必要もあって、都ではなく地方で役人を10年ほど勤めます。当時は都にいるより地方に行った方が収入が多かったのです。この詩もそうした役人時代に書かれたものです。しかし、同じ位の能力を持っていても、その人その人によって、運、不運の差が生まれるのは悲しいもんですね。
 針外しは単純なのか、江南の春も山行も大好きな詩です。

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曹植 曹操の三男

2022-03-19 17:16:14 | 漢詩・古典・エトセトラ

三国志では蜀、劉備、関羽、張飛、趙雲の話ばかりなのでちょっと片手落ちね。其処で目を付けた御仁をとり上げてみました。因みに曹丕は好きではありません。
曹植(そうしょく、または、そうち)大概そうしょくって言ってますよね。を取り上げます。

 初平3年-太和6年(192-232) 中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。字は子建。陳王に封じられ、諡号は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた人物でもある。沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の五男として生まれる。

          
              曹  植

 生母の卞氏は倡家(歌姫)の出身であるが、「世説新語」賢媛篇に名を列ねる賢婦であった。同母兄に文帝曹丕・任城威王曹彰。同母弟に蕭懐王曹熊。子は曹苗(早世)・曹志。他に2人の娘がいた。
異母兄の曹昂と曹鑠が早世すると、197年頃に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となる

 幼い頃より詩など数十万言を諳んじ、自身も詩人であった曹操に寵愛された。211年、平原侯(食邑5000戸)に封じられ、214年、臨葘侯(同)に転封される。
曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛する、闊達さと奔放さをあわせ持った、天才肌の貴公子であった。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征、潼関の戦いや張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。戦場の空気に馴染んでいたとみられる。
このころより詩・賦の才能がさらに高まり、ますます曹操の寵愛は深くなる。同時に、この頃から長兄の曹丕との後継争いが勃発する。彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、217年、正式に曹丕が太子に指名され、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになる。

220年、曹操が没すると側近が次々と誅殺され、221年には安郷侯に転封、同年のうちに鄄城侯に再転封、223年にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死ぬまで各地を転々とさせられた。
この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、文帝曹丕と明帝曹叡に対し、幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。特に明帝の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増える。230年、母卞氏が没し、最大の庇護者を失う。その後も鬱々とした日々を送り、232年11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。子の曹志が後を継いだ。一説によると曹植は曹丕の奥方の甄氏(しんし)に恋焦がれていたとか。
           
               甄氏(しんし)
甄氏は袁尚の息子の嫁であったが曹操が袁尚を破った後、長男の曹丕に嫁がせたとあります。有名な詩に「七歩詩」がありますね。「よくみのもんた氏」が何かにつけて取り上げていました。

   七歩詩  曹植
煮豆持作羹 漉鼓以為汁 豆を煮て持てあつものして以て汁と為す
豆を煮て濃いスープを作る豆で作った調味料をして味を調える

萁在釜下燃 豆在釜中泣 まめがら釜下ふかに在りて燃え豆は釜中ふちゅうに在りて泣く
豆がらは釜の下で燃え豆は釜の中で泣く

本是同根生 相煎何太急 もと同根どうこんより生ずるにあひること何ぞはなはだ急なると
豆も豆がらも同じ根から育ったものなのに豆がらは豆を煮るのにどうしてそんなに激しく煮るのか

曹操の元には敵国の細君が多数集まっていたので、後、後継者争いが起きるのは火を見るよりか明らかですよね。
人間と言う動物は先の事がよめませんね。一歩先は闇と言いますが、なかなか先は読めませんね。

 権力の中に身を置いていると、良い事はありません。昔2000円札作った小渕恵〇首相は、脳梗塞であるのに、権力に居座ったので、死ぬ羽目になってしまいました。
竹林の七賢人ではありませんがそういう世界から離れて暮らすのを選ぶ方がいいのかも知れません。

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飲中八仙歌の賀知章

2022-03-15 20:12:12 | 漢詩・古典・エトセトラ

賀知章(ガチショウ)盛唐の詩人。  字は季真、号は四明狂客。生れ:659年(顯慶四年)没年:744年(天寶三年)会稽郡永興県の人。越州永興(現・浙江省蕭山県)どっちが本貫地なんだろうね。

        
               賀 知章

証聖元年(695年)に進士に及第して、玄宗に仕え、開元年間に礼部侍郎となり、集賢院学士を加えられ、転じて工部侍郎に移り、秘書監を授けられた(賀監(がかん)の異称はこの官職名による)。
詩をよくして李白と交友があり、また草書と隷書に卓越した方です。

無類の酒客にして脱俗の趣あり、後に官を辞して故郷に帰り道士となって86歳で没した。狂草で有名な張旭と交わり、酒を好み、酒席で感興の趣くままに詩文を作り、紙のあるに任せて大書したことから、杜甫の詩『飲中八仙歌』では八仙の筆頭に挙げられています。

       
               賀 知章

 酔って馬に乗る姿は揺れる船に乗るかのようで、井戸に落ちてもそのまま眠り続けたという事です。王維、日本の遣唐使、阿倍仲麻呂らとも仕事をしています。李白が初めて長安に来たとき、かれを玄宗に推薦したのは、この人であったと伝えられる。天宝二年、老齢のゆえに役人をやめ、郷里にかえって道士になった。

 浙江省は南東部沿海地域、長江デルタ以南に位置し、北緯の27○12′~31○31′と東経の118○00′~123○00′間に介在しておる。東は東海に瀕して、南に福建、西に江西、安徽両省、北に中国で最も大きい都市の上海および江蘇と隣接する。紹興酒でも有名だね。紹興で出来る老酒の事を紹興酒って言うんですね。

       
                  賀 知章

 山は雁蕩山、雪竇山、天目山、天台山、仙都山などの名山があり、湖は杭州西湖、紹興東湖、嘉興南湖、寧波東銭湖、海鹽南北湖などの有名な湖、それに、中国の最も大きい人工湖の―杭州千島湖があり、川は銭塘江、欧江、楠渓江などの有名な川がある。京杭大運河は浙江北部を通り越して、杭州で銭塘江に流れる。昔から風光明媚な処で酒も美味いとくれば酔っ払いにならない方が不思議だね。
現存する書蹟に以下のものがあります。

『孝経』(『孝経』は、孔子と曽子が儒教の重要概念である「孝」について問答したもの)

          

孝経の全文を草書で書いたもので、賀知章の署名はないが、末尾に「建流二年(961年)冬重粘表賀監墨蹟」と小楷で書かれていて、古来賀知章の真蹟と伝えられる。江戸時代中期に日本に舶載され近衛家熙氏の収蔵するところとなった。久しく近衛家にあったが明治の初め皇室に献納されて御物となった。(現在は三の丸尚蔵館蔵)。書風は王羲之風の重量感があり、切れ味も鋭い。概して用筆勁利、しかも秀麗洒脱である。賀監とは賀知章のこと。高官を勤めながら破天荒な生き様で知られていた。李白がその賀知章と長安で出会った時、賀知章はすでに80歳を超えた老人であったが、李白を見て意気投合し、李白を謫仙人と呼んだ。有名な詩には賀知章を詠った李白の五言律詩「酒に對して賀監を憶ふ」があります。
酒に對して賀監を憶ふ」

  四明有狂客  四明に狂客有り
  風流賀季真  風流なる賀季真
  長安一相見  長安に一たび相ひ見しとき
  呼我謫仙人  我を謫仙人と呼ぶ
  昔好杯中物  昔は杯中の物を好みしが
  今爲松下塵  今は松下の塵と爲れり
  金龜換酒處  金龜 酒に換へし處
  卻憶涙沾巾  卻って憶へば涙巾を沾す

また賀知章の作には
『回郷偶書』帰郷したおり、たまたまできたもの

少小離家老大回 少小家を離れ老大にして回かえる    若かりし頃、家を離れ年をとって故郷へ帰った
郷音無改鬢毛衰 鄕音改まる無く鬢毛摧すたる      故郷の訛りは変わらないし、髪の毛もまばらだ。
児童相見不相識 兒じ童相い見て相い識しらず      子供が来て誰だか分からない
笑問客従何処来 笑ひて問う「客、何いづれの處ところ從より來(きた)る」と? お客さん何処から来たの?。

 賀知章は80歳を過ぎて引退した。懐かしい故郷だが、なにしろ50年ぶり、村の子供たちはだれかわからないので、「お客さん」と呼んだ。
 『ああ、すっかりよそ者になってしまったのだなあ』としみじみ詠う。

『詠柳』柳を詠む
碧玉妝成一樹高 碧玉の粧ひを成す、一樹の高き、 春になると、柳の木は青々と粧い、その木の何と高いことか。

萬條垂下緑絲條 万条の垂れ下る、緑絲の絛。  無数の緑の糸が枝垂れて、其の下端は、今にも川面に届こうとしている。
不知細葉誰裁出 知らず、細葉は誰が裁ち出づるを あの柳葉は、誰があのように細かく切り裂いたのだろうか、
二月春風似剪刀 二月の春風は剪刀に似たり。   二月の春風は、柳葉を切り裂く裁ち鋏のように、鋭く、冷たい。

お酒の話になると何故かいやしくなる針外しでした。
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王維の別荘「輞川」(もうせん)って何処?。

2022-03-13 07:41:09 | 漢詩・古典・エトセトラ

未だ、未完成のまま、アップしてしまいました。改めて書き直します。気が付いてみると「投稿」状態になってました。前の「お詫び投稿」は消しますんでよろしくね。

 王維の「輞川」にある別荘って何処ら辺にあるのかな?と思いチョックラグーグルアースで調べてみました。 王維は盛唐の詩人。現在の山西省の人。詩だけでなく画、書、音楽にも長けていました。31歳の時に長安の東南約50キロの山奥にある「輞川荘」という別荘を購入します。
  
 地図では西安になってますが、広い意味で西安の中に(外れに)長安があります。

そこで、友人の裴迪(はいてき)と別荘内の景勝を詠んだ詩が『輞川集』(もうせんしゅう)と言う名前で、まとめられています。今日の詩は、その別荘のほぼ中央にある欹湖(いこ)の岸辺の水の上に建っている建物「臨湖亭」があります。当時の軽舸とは船のことで、船でお客さんを臨湖亭に招いたようです。

       

上客、大切なお客さんなのでしょう。軒は日本語なら軒(のき)ですが、ここでは、窓の手すり。お客さんをお酒でもてなす。湖上にある臨湖亭から周りを見回すと四面、つまり辺り一面、芙蓉が開いていると詠っています。当時、芙蓉は蓮の花を指しました。

      
   この絵が本来の屋敷の姿なんでしょうね。ネットに絵が載ってましたが多少修復しました。

 大切なというか、大好きな人をお客さんとして迎えて、湖上でお酒を楽しむ。辺りは満開の蓮の花。湖を渡る涼やかな風と、王維のうれしい気持ちが伝わってきます。時の皇帝より良い暮らししてたんですかね?。

 
今は昔の面影は無いのかも知れませんが、公園として残っているのかも。

 
しかし、規模が違いますね。日本の岩崎邸とかのレベルとは遠くかけ離れています。詩を朗詠しても誰も聞いてはいないなんて事になりますね。当時の模様を描いた画集がありますが、これを見て想像するしかありません。

      
今の風景と対比してみるのも、想像力を膨らまして面白いかも知れません。

      
今の中国へは「ヒョイヒョイ」とはいけませんからせいぜい文献さがして、行った気分になるんですね。

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竹里館  王維

2022-03-10 09:00:13 | 漢詩・古典・エトセトラ

 王維の輞川(もうせん)集の中の一首です。前に挙げた「鹿 柴」同様、王維の別荘、輞川もうせん二十景の一つを詠ったものです。王維という人は仏門に入っていて帰依しているかのかと思ってましたが流石、官僚です、いい処に別荘持っていたんですね。           
      

    
                                     「竹里館」に出てくるような竹林
竹里館  王維

独坐幽篁裏 独り坐す幽篁ゆうこうの裏   竹やぶの中に一人で座る

弾琴復長嘯 弾琴、復長嘯     琴を弾き、声を伸ばして朗詠する

深林人不知 しんりん人知らず     深い竹林の中にいる私に誰も気づかない

明月来相照 明月来たつてあいらす 明るい月だけがやってきて私を照らす

 
こういう、静かな処での生活に憧れますが果たして暫く、暮らしていると退屈して厭きないかなあ!?。最初から、便利な生活を経験していなければ、その境遇に嵌っていられるんだろうけど、一度でも馴染んでしまうとなかなか耐えられるもんではないんだろう。バブルで高級な裕福な生活を送っていた人が社会情勢や景気が落ちて、倒産等になると、なかなか質素な生活になるのが苦しいんだろう。前に質素な生活をしていた事のある人でさえ、辛いかも知れないね。
どっぷりと裕福社会になれてしまって、スローライフなんてチャンチャラおかしいけど、せめてこういう風流な詩を読んで基本的な考えだけでも持ち続けたいものであります。

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金陵鳳凰台置酒

2022-02-28 09:03:28 | 漢詩・古典・エトセトラ
                       
 
  金陵鳳凰台置酒   唐  李白

  置酒延落景,金陵鳳凰台。 酒を置いて、落景を延ばす、金陵の鳳凰台。
  日の暮れるまで酒宴を張る 金陵の鳳凰台で

  長波寫萬古,心與雲俱開。 長波万古に寫ぐ、心は雲與(と)俱(ともに)開く。
  長江の万古変わらずそそぐを見れば心は雲と共に開け広がる

  借問往昔時,鳳凰爲誰來。 借問す往昔時、鳳凰誰の為に来る。
  言問はんその昔、鳳凰は誰の為に来たのか?。

  鳳凰去已久,正當今日回。 鳳凰去って已に久し。正に當に今昔廻るべし。
  鳳凰去りてすでに久しまさに今日こそ廻り来る時である。 

  明君越羲軒,天老坐三台。(今や)明君羲軒に超え、天老三台に座す。
  いまや明君は伏羲・黄帝にも勝り 賢臣が三公の位にある。

  豪士無所用,彈弦醉金罍。 豪士(ごうし)用いる処無く、琴を弾いて金罍に酔う。

  文豪も用いるところなく琴を弾いて美酒に酔うのみ。

  東風吹山花,安可不盡杯。 東風(こち) 山花を吹く。安ぞ(いずくんぞ)杯を盡(つく)さざる
  春風は山花を吹く好季節。どうして杯を重ねて、痛飲せずにいられよう。

  六帝沒幽草,で深宮冥綠苔。 六帝、幽草に没し、深宮綠苔に冥(くら)し
  六朝(りくちょう)の皇帝の遺跡も草に埋もれ、その深宮は苔むして暗い
  
  置酒勿複道,歌鍾但相催。 置酒して復言う勿れ歌鍾、但(はなはだ)相(あい)催(もよお)さん
  そんな事なんてもう言うな。只、酒宴を張って謳って囃し立てよう。

           

「今の皇帝は明君で伏羲・黄帝にも勝り 賢臣が三公の位まであって、盤石だ!」。此処で現皇帝をうんとよいしょしておかないとね。豪士たる我々は(豪士と言うのは、暗に李白達)。

用いられる処も無い。琴を弾いて酒に酔うのみである。
自分達が宮中で居場所が無くなって、しまっています。宮中が安定してしまって、自分達の棲む場所(活躍する場)が無くなってしまったのは何とも嘆かわしい。

ここで、針外し曰く、「でもねえ、狡兎死して走狗烹らる」って言うじゃないですか。用が無くなって殺されるよりいいじゃないですか?
金陵鳳凰台
昔、ここ金陵 (南京) の鳳凰台の上には、鳳凰が飛んで来て遊んだと伝えられているが、今では、鳳凰は去り、台だけが空しく残り、台の下の長江 (揚子江) のみが昔ながらに流れている。はるか西南の方向に見える三山は、雲の上にまでそびえ、中腹から下は青空の外へ落ちかかっているように見え、また二水は白鷺洲をはさんで二つの流れとなっている。

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子夜呉歌

2022-02-15 22:03:55 | 漢詩・古典・エトセトラ

 またまた唐詩です。唐詩300首の一つね。
               

            

子夜呉歌    <李白>

  • 長安 一片の月       ちょうあん いっぺんのつき 
  • 萬戸 衣を擣つの聲     ばんこ ころもをうつのこえ
  • 秋風 吹いて盡きず     しゅうふう ふいてつきず
  • 總て是 玉關の情      すべてこれ ぎょっかんのじょう
  • 何れの日か 胡虜を平らげて いずれのひか こりょをたいらげて
  • 良人 遠征を罷めん     りょうじん えんせいをやめん

    長安の夜空にはぽつんと一つの月がかかっており、あちこちの家々から砧を打つ音が聞こえてくる。また秋風は絶えまなく吹き続け、さらにこれらは(月光・砧の音・秋の風)すべて玉門関に遠征している夫を思い慕う情をかきたてる。いったい、いつになったら夫は異民族を平定して、遠い戦地から帰ってくるのであろうか?。          

    この詩は李白なんですが、東晋の時代に呉の国(江蘇省)に「子夜」という女性が作ったと言われる歌曲。これに多くの詩人が「調べ」に合わせて「詩」を作り唱和したとの事です。

この詩を見る度に、日本の万葉集の「防人の歌」に行ってしまいますね。2,3挙げてみると

国国の 防人つどひ 船乗りて 別るを見れば いともすべ無し

(現在語訳) 全国から集まった防人が(任務のため)船に乗って別れることを見れば、なんともなす術もない。

わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず

(現代語訳) 私の妻はとても恋しがっているようだ。飲もうとする水に影までもみえていて、決して忘れられない。

唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして

(現代語訳) 唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに。

大分前にうちの長男が中国に修学旅行に行った時に八達嶺の万里の長城は、とてつもなく「寒い」と言ってました。昔の兵士はさぞ辛かったんだろうね。今北京でオリンピックを開催していますが、スノーボードとかで落ちると氷が石のように固く、「落ちるのだけは絶対に嫌だ」らしいっす。(何でサマーズが出てくるんだよ)ハーフパイプの平野君も「落ちたら死を覚悟」だってさ。

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世に伯楽有り然して後に千里の馬有り。

2022-02-14 09:26:14 | 漢詩・古典・エトセトラ

 唐宋八家門の中で韓愈の話が出たので、再び登場です。「伯楽と千里の馬」についてです。

これは韓愈の「雑説」の中の文章です。中学校の漢文の授業で出てきてご存知の方も多いかと思います。唐の科挙の元、試験官に「人を観る能力のある奴がいない」と嘆いたもので、「自分を天下の名馬」、試験官が「伯楽」に例えています。

            

『雑説』
世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手、駢死於槽櫪之間、不以千里称也。馬之千里者、一食或尽粟一石。食馬者、不知其能千里而食也。是馬也、雖有千里之能、食不飽、力不足、才美不外見。且欲与常馬等、不可得。安求其能千里也。策之不以其道。食之不能尽其材。鳴之而不能通其意。執策而臨之曰、天下無馬。」嗚呼、其真無馬邪、其真不知馬也。
世有伯楽、然後有千里馬。

千里馬常有、伯楽不常有。故雖有名馬、祇辱奴隷人之手、駢死於槽櫪之間、不以千里称也。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故に名馬有りと雖も、祇だ奴隷人の手に辱められ、槽櫪(そうれき)の間(かん)に駢死(へんし/べんし)して、千里を以つて称せられざるなり。

馬之千里者、一食或尽粟一石。食馬者、不知其能千里食也。

馬の千里なる者は、一食に或いは粟一石を尽くす。馬を食(やしな)ふ者は、其の能の千里なるを知りて食はざるなり

是馬也、雖有千里之能、食不飽、力不足、才美不外見。
是の馬や、千里の能有りと雖(いへど)も、食飽かざれば、力足らず、才の美外に見(あらは)れず。

且欲与常馬等、不可得。求其能千里也。
且つ常馬と等しからんと欲するも、得(う)べからず。安(いづ)くんぞ其の能の千里なるを求めんや。

策之不以其道。食之不能尽其材。鳴之不能通其意。執策臨之曰、
之を策(むち)うつに其の道を以つてせず。之を食(やしな)ふに其の材を尽くさしむる能(あた)はず。
之に鳴けども其の意に通ずる能はず。策(むち)を執りて之に臨みて曰はく、

千里を走る馬は、一食に一石のもみを食べ尽くすこともある。
馬を養う者は、自分の馬が千里を走る名馬と知って養っているのではない。
この馬に千里の能力があったとしても、食を十分に得なければ力が足らず、才能の立派さが外には現れない。
その上、普通の馬と同じようにありたいと望んでも、それもできない。
どうしてその馬に千里を走ることを求めることができようか(求めることなどはできはしない)。馬をむち打つのに(=御するのに)、それにふさわしい方法でやるのではなく、馬を養うのに、(十分に食べさせて)馬の才能を発揮させることができない。
(馬は不満を訴えて)鳴いても、(伯楽でない人は)馬の気持ちを理解することができない。
むちを手に取り、馬に向かってこう言う。「天下に良馬なし。」ああ、本当に馬がいないのであろうか?。(それとも、本当は馬はいても)その馬の善し悪しを見分けることができないのであろう。
 人は、韓愈のように、その人によって不遇の感じ方があるかも知れないね。樹木希林さんが、「決して人の生活を羨まない事です」と言った事を思い出しましたが、なかなかその境地には辿り付きませんね。中国は人が多い。駄目な奴が世襲の元。高い地位にのさばっていれば、誰だって不満を持つのは当たり前なのですね。

 天下の名馬と言えば、赤兎馬は正史にもその記述があります。『後漢書』呂布伝や『三国志』呂布伝には、呂布が「赤兎」と呼ばれる良馬に乗っていた記述があり、特に後者では袁紹えんしょうのもとに身を寄せていた呂布が赤兎馬を駆り、袁紹の敵であった張燕ちょうえんを破ったことで、「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」言われるようになったという伝承が記されています。その後、曹操の元へ。その後、曹操が「関羽」を配下にしたいという「助兵衛根性」が仇となり、さっさと袁尚の元に逃げられてしまい関羽の乗馬になりました。

            
                     関羽将軍
  また「汗血馬」と言う馬がいて、実際に血を流していた、或いはそういう風に見えたという説も多い。馬の毛色によっては汗を流した時に血のように見えることがあるようだ。また寄生虫に寄生されている馬は実際に血の汗を流すことがある。この寄生虫による馬の能力低下はあまり無い。寄生虫の寄生(皮膚表面での吸血)による滲んだ血液が「血を流す」ように見え、かつその寄生虫による皮膚の刺激(痛み・痒み)によって、あたかも狂ったかのように(通常の馬としての巡行走行速度や走行距離以上に)疾走したというのが汗血馬のいわれでは、という説もある。
 針外しの大好きな「射鵰英雄伝」には郭靖がモンゴルで「江南七怪」と馬を捕まえますが、それが後に「赤馬」であったことを知ります。黄薬師の娘「黄容」と出会った時に出てきます。体中赤くて「血の汗」を流していました。

コメント (2)
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