針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

荘子について

2020-11-01 06:50:39 | 漢詩・古典・エトセトラ

針外しが信奉するのに、道教がありますが、道教と言えば老子と荘子です。老子は以前書いたので、今回は荘子。曾子(そうし)と区別するために「そうじ」と言われていますが、何とも違和感があり針外し的には「そうし」と言っています。どっちでもいい話ですけど。

             
   
 荘子は自身の考え方を、33編に収めていますが、内編7編、外編15編、雑編11編に分けられており、内編は「荘子」自身によってまとめられました。外編、雑編は後の学者が書き加えたと言われており、 内編にこそ純粋な「荘子」の思想が詰まっていると考えられています。

斉物論は、思想書『荘子』の第二編に登場する思想であり、「世の中のすべての存在は同等の価値を持っている」という考えです。「人間から見た主観的な価値観で、物事の優劣をつけることは出来ない」と「荘子」は述べています。「自分の目だけでなく、広い視野を持って物事を見なければいけない」という教えです。

荘子は読んだ事ないけど、「これ」は知っていると云う物が多いね。例え話が多いのでその中のいくつか挙げます。

木鶏
(もっけい)
木鶏とは、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす。

昔、紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、王からの下問に答える形式で最強のについて説明します。

紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀悄子は、
『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』 と答える。

更に10日ほど経過して再度王が下問すると
 『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』  と答える。

更に10日経過したが、
『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答える。

さらに10日経過して王が下問すると
『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えた。

これににた話が、昔読んだ清の時代の聊斎志異に「コオロギ合わせ」出ています。

無用の用
無用の用とは 「一見役に立っていないように見えることが、実は大きな役割を果たしている」という意味の名言です。針外しが知っている「無用の用」は、ねじ曲がって木材にも薪にも使えない巨木がありましたが、利用価値が無い為に長く伐採されずに長寿を得ているという話を覚えています。

井の中の蛙大海を知らず 

これは、大概の皆さんの知っていますね。狭い世界で生きていると、外の広い世界のことは何も分からないということ

虚室、白を生ず (きょしつ、はくをしょうず)
先入観を持たずに人と接すれば、他人の意見を素直に受け入れられるということ
直訳すると、「空っぽの部屋は太陽の光がよく入って明るくなる」という言葉です。
要するに、この言葉は「先入観を持たずに空っぽの頭で人と接すれば、他人の意見を素直に受け入れられるということを意味します。
あるがままを受け入れる、自然主義の考え方に基づく「荘子」らしい言葉です。
例え話ですけど、運動部の生徒は、ろくすっぽう勉強なんかしない。頭の中は「すっからかん」なんて言いますが、社会に出ると結構頑張っていい成績を残すなんてありますね。それは空っぽの頭なので上司のいう事を真に聞いて、一生懸命頑張るからだと言われます。これが「虚室、白を生ず」なんですね。

魚を得て筌(うえ)を忘る 

目的を達成すると、それに役立った物の功績は忘れてしまう。「筌(うえ)」とは魚を取る仕掛けをいい、 「魚を取ったら道具は必要なくなるので忘れてしまう」という意味を表します。「目的を達成すると、それに役立った物の功績は忘れてしまう」という教訓が込められた言葉です。
これに似た言葉に「狡兎死して走狗烹らる」があります。ちょっと違いますかね。

この他、荘子の妻が死んだため、恵子は弔問に行った。すると荘子は両足を投げ出して座り、土の瓶を叩きつつ歌を唄っていた。恵子は「夫婦として共に暮らし、子どもを育て老年になったのである。その相手が死んだのに、泣き叫びもしないのは、それだけでも不人情といえるが、更に瓶を叩きながら歌を歌うとは、ひどい振る舞いではないか」と責めた。 荘子はこう答えた「そうではない。死んだ直後には、私だって悲しみを抑えられず泣かずにはいられなかった。ただ人の始まりを考えてみるに、元々は生命は無かったのだ。生命が無かっただけではない。元々は形さえなかったのだ。形がなかっただけでない。もともと気さえなかったのだ。混沌と朧(おぼろ)でとらえどころの無い状態であったものから、やがて変化して気が生じ、気が変化して形ができ、形が変化して生命が出来た。そして今また変化して死の状態へ帰っていくのだ。

これとは逆の話もあります。
荘子が死んで妻が墓の前で息を吹きかけています。それを見かけた人が「何でそんなに息を吹きかけて入るんだ?」と言うと、盛り土が乾くと、再婚が出来るんだとか、・・で、実は死んでいなくてもっこりと荘子が起き上がると妻は大いに恥じた。とあります。・・すると荘子はそんなに恥じる事はないぞ、実際、連れ添っていたかどうかも確かではないのだから。

老荘思想と言いますが、老子は、例え話が総論的で、荘子は各論的で庶民風だね。

コメント
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