針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

名前が混同して

2021-03-08 09:24:48 | 武道・拳法の話

 少林寺の功夫で、名前が飛び交って同一人物かどうか判別がつかないね。特に少林寺四侠女は良く分からない。

例えば厳永春方永春方七娘がどうも判別しない。とWEb検索してみたらある程度の事が分かりました。

方 七娘

 ある日、白蓮寺に顔起誕と曽四という拳士が訪れた。七娘と顔たちは拳法を巡る口論の末、七娘と顔が試合をすることになった。しかし顔の技量は七娘に及ばす、敗れた顔の遺言により曽四は七娘の門下生となったという。後に七娘と曽四は夫婦となり、10数年後に曽四は白鶴拳の全伝を得て、全国に白鶴拳を広めるための旅に出た。その後、清朝によって白蓮寺を追われた七娘と曽四は再会を果たし、福建省東北部の詠春で白鶴拳を広めたという。ただ、方慧石は還俗していないなら娘がいたというのは少し信じられないですよね。

厳  詠春
詠春拳という名称については、厳詠春という女性の名から取ったとされている。彼女は中国武術史上、最も強い女性拳法家「少林四侠女」と呼ばれ詠春。色々と謂れが多くてどれが本当かはわかりません。厳詠春の父、厳二はある事件によってタイやミャンマー国境に程近い四川省の大涼山まで逃亡をし、そこで豆腐を売って生活をしていた。厳二は地元の少数民族から四川梅花拳(五枚尼姑伝の拳法)などの南派少林拳を学ぶ。厳詠春はそれらを父から学び改良したという。また厳詠春が鶴と蛇の闘争を元に創案にしたとする説もある。

 蛇鶴双形拳法は洪拳(はんけん)の洪熙官(ハンシークアン)との合作だという説も有名です。(傍ら、厳詠春という名は当時の武侠小説に登場する主人公の名前であったという実在の人物を疑う意見もあるうえに諸説も存在する。たとえば古伝の永春拳の創始者の一人と伝わる五枚(五梅)尼姑が、四川省の大涼山に隠れそこで詠春拳を作ったという伝承や、至善禅師が南少林寺の「永春殿」で練習していたためという説など)。

五枚尼姑=方 七娘
 彼女をルーツとする拳法で、もっとも有名なのは永春拳。厳永春という尼僧が五枚師姑の弟子で、彼女の拳法を簡化させて防身術として永春拳を編み出したという説もあります。 これは父親の羅漢拳から娘の方七娘が永春白鶴拳を編み出し、その簡化として永春拳が分派したという説とは若干差異がありますが、いずれにせよ仮託でありましょうからそのように語られたエピソードの向こうに真相はあるのでしょう。あるいは方家の七番目の娘というのが還俗前の五枚師姑を現していたとしてもおかしくはない。いずれにせよ、永春白鶴拳の女性開祖説武術の祖とされているのが五枚師姑です。白鶴拳(はっかくけん)とは、白鶴門拳法の総称。鶴拳。福建省とその対岸の台湾で大流行し、台湾では非常に有名な拳法である。実戦的で修練に即効性があるとされ、修する者は多い。技の豊富さではなく、深めていくメソッドに武術としての凄みを主眼においている。

 白鶴門に伝わる開祖伝説によると、清朝康煕年間(1662年 - 1722年)に生まれた福建少林寺の僧で少林十八羅漢拳の使い手である方慧石(方種とも)の娘、方七娘によって創作されたとされる。方七娘は16歳の折、鶴(白鶴仙人とも)の動きに触発され、父親から習得した少林十八羅漢拳に鶴の形意、姑娘歩(クーニャンホと言われる歩法。纏足の女性が歩くような歩法)を合わせて白鶴拳を編み出したといわれる(沖縄に伝わった白鶴拳の古文書「沖縄伝武備志」によれば「三年にして学成る」とある。)。その後方七娘は、白蓮寺を教練所として白鶴拳の普及を始めたとあります。

方 永春

 永春白鶴拳と詠春拳の両派の創始期に、五枚大師が関与しているとの逸話が伝えられている。一説では五枚大師が永春白鶴拳と詠春拳の原型を弟子に伝え、それらが独立し永春と詠春となったという伝説もある。
技術的には福州鶴拳、他白鶴門、他福建南拳などと同系列にある。永春白鶴拳は、文字通り白鶴拳の一派である。その由来は、伝説によれば五枚大師の弟子である方詠春が創始したと言われている。福建省の永春県地方で始まったため、永春の名前を拳種に冠するようになったという説である。
さらに、もう一つの説に、泉州少林寺の永春殿ない内で練習されていたことから「永春」の名を掲げられたという説が、雑誌「武林」1984年5月号で紹介されている。
「方永春説」
方永春は浙江省の方振東の娘である。方振東は武術と医術に長けた人物であった。永春は方振東晩年の子供だったため溺愛し、その衣鉢をつがすべく医術・武術をのニ術を熱心に伝えた。成人するとともに永春は結婚するも、その生活は続かず、不幸な結末を迎えた。
結婚生活に失敗した方永春は浙江を離れ福州の地に下り尼僧となった。この地で鶴の動きに学び、父振東に教わった技法を合わせ編んだのが永春白鶴拳であると言われている。
一方で、方永春ではなく方七娘とする説もあるが、名前以外は同じ説であることからもともと同一人物であるとの説もある(方七娘の父の名は方掌光という)。

ちなみに、少林寺の、有名処を紹介します。

広東十虎 王隠林、蘇乞兒、鐔済筠、黄麒英、鐵指陳、蘇黒虎、黄澄可、鄒泰、黎仁超
東莞三傑 莫清嬌、皮碟、王老佐
少林五老(五雄) 五枚尼姑白眉道人、憑道徳、至善和尚、苗
少林三雄 方孝玉、方美玉、方世玉
少林四侠女 苗翠花陸阿采、方永春、紅小雲
少林八傑 陸飛鵬、竜彪、尚志、謝福、李錦綸、洪熙官、胡恵乾
少林七奸 李流芳、陳景昇、高進忠、宋承思、方魁、馬雄、白安福

方 世玉 伝説の人物?。

 広東省肇慶の出身とされ、この地域を中心に伝承されてきた。父は方徳、母は武林の名手である苗翠花。幼い頃から母から武術の訓練を受ける。方孝玉、方美玉、方世玉の3人兄弟。
10歳のときに武術の達人を試合で殺してしまい、追っ手から逃れるために福建少林寺に入山。そこで修行を積む。
下山後、民衆を苦しめる悪人たちと戦い、人々から尊敬を集めるが、清朝政府による福建少林寺焼き討ちの際に若くして死亡してしまう。


黄 飛鴻   ワンスアポン ア チャイナで有名な方だね。

流派は南派少林洪家拳で、始祖・洪煕官の直系の弟子。素早く的確な蹴り技は「無影脚」と賞された。「無影脚」はもともと女性武術家の技であったが、その夫である宋輝鏜から洪家鉄線拳の型と交換で教わったといわれる。
広東省南海の人、1847年生まれ。黄飛熊とも。父の黄麒英は「広東十虎」の一人に数えられた武術の達人。黄麒英は息子には学問を修めさせたいと当初は武術を教授しなかったというが、十二歳頃には家伝の拳法をほぼ修得し、さらに黄麒英の師である陸阿采、また林福成、鐵橋三に師事したとされる

 鉄線拳は鉄橋三の創始した型であるが、鉄橋三の高弟・林福成が仏山の街頭で演舞中、誤って見物人に怪我を負わせてしまった際、治療を助けた黄飛鴻に感謝して伝授したとも。空手のナイファンチ(鉄騎の型)はこの鉄橋三の流れと解釈しています。

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