中国には長江とか黄河と言う大河がありますが、広大な領土を延々と流れています。その時の気候等で、怒涛の荒くれになったり、平穏な時は流れが無いかの如くゆったりとした流れになったりします。
よく人生は「大河の流れ」に例えられます。その人その人によって人生が違うのは当たり前の話で、その場その場を刹那的に生きている人もいるだろうし、ゆったりと表に出ず隠遁の生活を送る人もいますね。
針外しは中国の古典が好きなのですが何も宮中の雅な派手な生活を夢見ている訳ではありません。むしろ、陶淵明(尊称略)のような半隠遁の生活を好みます。これは気取ってそう、つとめている訳ではなく針外しがあまり才能がある訳ではなく必要に迫られたのでそうなったのあります。出しゃばって痛い思いをするのが嫌いだったのかもね。
人生には色々あって、怒涛の中に飛び込むような人生もあれば、永楽を求めたり、栄誉を求めるのもあります。種々雑多です。
大河のゆったりとした流れに身を任して無駄なあがきをしない、ゆっくりと流れに乗って海へと進んで全うする人生を昔から徳のある人生とされた。こうした背景には戦乱が多くあったからですね。その位で無いと、あっという間に「お陀仏」になってしまうからですね。
その間に人生には所謂「落とし穴」がやってきます。その時、役に立つのが物事を見極める「洞察力」だ。
自分が清廉潔白でなく、欲得で物事を決めてしまうととんでもない事になってしまう訳だ。雑念を出来るだけ払って、物の真実を見極めると、間違いが少ない。古の方で窮地に立った人はこれが足りなかったんだね。それでも人智で測りがたい事がありますが。
そうは言っても人口が極端に多かった中国では、隠遁を望んでも「飯の食い上げ」になってしまいます、なにはともあれ「食」が優先だ。「貧すれば鈍する」では自分の理想とする生活なんて出来っこないね。また人口の多かった中国では年柄年中「戦に明け暮れて」それで調度いい人口になった。何とも皮肉だね。こういった背景で隠遁を求めるのも当然だった訳だ。
俗界を離れて生活するのに、仏教、道教も大きな働きがあったね。所謂、出家。
でも、寺だってそう多くはありません。だから郊外に蘆を建てて,「晴耕雨読」の生活となる訳ですね。大河に身を任すような人生、下手に足掻けば溺れたり不遇の生涯を遂げる結果となります。じっと流れに身を任すと、世間で起きている出来事を観察できる。戦乱に遭遇して、不慮の死になったら誰だって嫌だからね。