この句は粱の武帝の子、蕭統(しょうとう)が編纂した「文選」の中の楽府古辞四首の中の「君子行」という一首です。此処に言う楽府古辞とは民間で謳われていて誰が作者か分からない物をいいます。前半六句は君子のあり方。疑いを掛けられるよう行動を慎んで。後半は功労を誇る事をせず謙虚でいろと説いています。
斉の武帝
464年~549年 蕭衍は字は叔達。梁の初代皇帝・武帝である。南朝の皇帝のなかで最も長い四八年の在位で、安定した治世だったことで知られる。残虐だったり無能だったりする皇帝が多い南朝のなかでは、ひときわ名君として名高い。
四七九年に始まった南斉は、五〇一年までの短期王朝だった。皇帝は蕭道成(高帝)から五代まで続いたが、まともなのは高帝と息子の武帝だけだった。四九八年、東昏侯(愚かな東の侯爵、という意味)が帝位についた。殺戮が趣味であるかのように、この皇帝は殺しまくった。朝廷の重臣たちも次々と殺され、蕭衍の兄も犠牲となつた。ここにいたり、ついに蕭衍は決起した。東昏侯を倒すと、その異母弟を皇帝に擁立(和帝)。そして、その和帝から帝位を譲られるかたちで、梁を建国し、皇帝となったのである。五〇二年のことだった。
武帝はその姓が示すように、斉を建国した蕭の一族である。本来ならば、同姓の国を滅ぼすのは、よくない行為だし、彼がいつ皇帝になろうという野心を抱いたかは、よく分からない。
ともあれ、南斉末期があまりにもひどかつたので、彼の行動も支持されたのである。殺さなければ殺される。そんな時代だったのだ。
武帝は文武両道のオ能があり、邸宅には多くの文化人・教養人が招かれていた。仏教に熱心で、僧侶以上に修行をしたともいう。功績のひとつとして、国立の大学を設立し、 一般の秀才にも入学を許可し、それとともに国家試験に合格すれば、家柄に関係なく、高級官吏として採用する制度を作った
君子防未然 訓氏は未然を防ぎ 君子は災いが起らないように未然に防がねばならない。
不處嫌疑閒 嫌疑の間に処らず 疑いを掛けられるような位置に自分を置かない。
瓜田不納履 かでんに履を入れず 例えば瓜畑の中で履を履きなおしたり、
李下不正冠 りかに冠を正さず スモモの木の下で冠を直しては駄目だ。
嫂叔不親授 そうしゅくはしんじゅせず 義弟が嫂に直接物を手渡したり
長幼不比肩 ちょうようはかたをならべず 若僧が年長のものと一緒に並んだりしては駄目だ。
後半は周公みたいな聖人であれと詠っています。 孔子はこの周公を敬慕していました。
勞謙得其柄 ろうけんにしてそのへいをう 功労を誇ることなく初めて人間としての本領を得る事が出来。
和光甚獨難 わこうははなはだ独り難し 自分の知恵を世俗のチリと思えるようにならねばならない。
周公下白屋 しゅうこうははくおうに下り 就航は粗末なあばら家に住んでいる人に対しても謙虚でいた。
吐哺不及餐 ほを吐きて餐に及ばず 食事中に来客があっても口から吐き出して面会したし、
一沐三握髪 ひとたび沐してみたび髪を握る 洗髪中に人が来ても、髪を握ったまま会いにでたほどであった。
後世稱聖賢 こうせいせいけんと称す だから後世に至っても聖賢と称されるのであります。
所謂、君子論ですが、中国派ご存知「儒教」の国、孔子が時の王に遊説して回って君子は「如何にあるべきか」を説いて回りました。それを時の権力者は取り入れて儒教国家となった訳です。するとこれに老耼(ろうたん)(老子の事)が皮肉った。大道廃れて仁義有り。「お前が礼だの義などとくだらない事を言うもんで仁や義などの根本の道徳が必要とされるようになったんだよ。」
老子は無為自然の道を説きました。
因みに孔子の説いたのが八徳で南総里見八犬伝でも有名な仁・義・礼・智・忠・信・考・悌ですね。