自然体験プログラムで「鶏を殺して食べる」活動をわざわざやる必要があるのだろうか・・・。
現代の普通の生活では、目の前の動物をして食することはない。肉は食材としてお店に売っている。それを買って食せばいい。スーパーに売っている鶏肉は、生きた鶏だったことは知っているからそれでいい・・・、かもしれない。当自然学校でも、鶏は家畜というよりは、その役割は生の動物として子どもたちが触れ合うものであることは確かであるが、しかし、これまでも、何回かして喰った。
自然学校という田舎にあり鶏を飼うことができるフィールドがある。だからこそ、実施できるプログラムであるだろう。自然学校で飼っている鶏は常時食ではないが、やっぱり、喰うべきだろう・・・。 しかし、私たちは食肉業者ではない。体験学習として「命と食を考える」機会を提供するなどと見栄を切るのは、簡単だが、やはりこのプログラムを進行するには細心の注意と準備が必要だ・・・。
ちょっと違うかな・・・、
というよりも、自分の中にある生命に対する価値観を見つめ直すつもりで毎回望むべきだと、終わって感じた。
ある子がを見て(直視はしていない、その場にいた)泣いた。 泣いた理由を落ち着いてから聞くと・・・、
「殺されたあとに、吊るされて、さらに湯につけられたことがかわいそうだと思って悲しくなった」、であった。
その理由を聞いて、はたと思い出された私自身の体験があった。
それは、20年くらい前に始めて鶏プログラムをスタッフ研修で実施した道北の養鶏農家でのできごとだった。 当時、ネパールのシェルバが半年の研修生でねおすに滞在していた。彼も同行し、彼が中心になって鶏のと料理をしたのだが、彼は作業の始終、たぶんラマ教の念仏を唱えていた。 「OMMAIPENIFUM・オンマニペニフム」 首を切り落とすとき、解体するとき、肉を包丁でミンチにするとき(餃子のひき肉にしたのでした)・・・、 無言で作業をしている中で、時々、「OMMAIPENIFUM・オンマニペニフム」 と念仏を唱えていた。
今思い起こせば、彼のひとつひとつの作業(、羽むしり、解体、加工)は、とても丁寧であった。 食物となる生き物に対しての畏敬と感謝の念を絶やすことなく作業をしていたのだ。 口では、「命大切さや食におもいやるプログラム」というのは簡単だ。 しかし、その姿勢と態度が自分に中に薄いんじゃあないかと今回、思い知らされた。 それは、宗教心の違いがおおいにあるだろうが、それであっても、「祈りと感謝」が薄まってしまっている現代日本人である己を感じることになった。
ショックを受けたお子さんも、ひとやすみして「落ち着いた。もう大丈夫」と、その後の解体作業にも参加して、料理された固い肉(逞しい雄地鶏ですから)を噛み締めて食べた。
子ども達にとっては、大きな体験だったが、私自身にとっても、改めて「命について」考える、とても良い一日になった。
OMMAIPENIFUM・オンマニペニフム
南無阿弥陀仏