3月19日は、NPOねおすの解散フォーラムでした。 設立当初の自然ガイド時代のお客様、子どもの自然体験キャンプ活動でNEOSと名乗る前から参加してくれた元子どもの青年、役所の方々と総勢100名位の集まりとなりました。 南極越冬中の盟友樋口和生さんからも現地からの生中継ができたし、大きすぎず、小さすぎず、我がねおす風味のフォーラムができたかなと、自己満足をしています。 理事長として、ねおすをふりかえる講演をしましたが・・・、緊張もあり、当初からのお客様が「私、私たちと育てて頂いた」との感謝の念が浮かんだところで、涙を流して、ちょっと取り乱してしまったなあ・・・。 珍しく、講演のラフ原稿を書いて手元に置いていたのですが・・、そのとおりにまったくならず・・・。 話したかったことが話せなかった。 こういうのを、「後の祭り」というのだな・・・。
せっかくですから、ここで、ラフ原稿を残しておこう・・・。(ちょっと長いです)
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NPOねおすの代表をさせて頂いていた高木です。 まだ法務局や道庁に解散届手続きが完了はしていないのですが、法的な解散日は、会員総会で解散が採択された3月8日となりますので、、すでに理事長ではないのですが・・・、
本日は、年度末の誠にお忙しい時期にお集まり頂き、たいへんありがとうございます「。この時期にやるのか?」と内部からも批判がありましたが、私としては、本年度解散なので、4月以降にこのフォーラムを繰延したくなかったので、トップダウンで理事長決裁させてもらいました。
NPOねおすは、会社や役所組織のように階層的上司部下関係がきっちりとした組織にしたくないと常々考え経営にあたってきました。 それは私自身が会社組織を経験し、上下下達のトップダウン運営で、自分の思いが遂げられない経験をいろいろとしたからでもあります。 しかし、一方では、会社の経営以降で大きく方針を変えることは嫌なので、自らが組織を持ち「思い」をカタチにしてゆきたいという想いもあり、NPOねおすを経営してきました。
「高木さんは、筋を通す・ブレないと」外部からは評価を頂くこともよくありましたが、スタッフのみなさんにとっては、そう感じたことは、もしかしたら、あまりなかったかもしれません。そのため「朝令暮改」、言ってることをすぐ変えると不信に思われたことも多々あるでしょう。 私たちの仕事は、目の前の仕事、プログラムにおいては、「より良い方」の選択が必要で、バランス取りが重要です。 常にどっちを「選ぶべきか」重層的な中で判断を繰り返すしかありません。 細かなブレがあって大きなブレがないように調整すると言ったら聞こえがいいかもしれませんが、そういった信条で経営をしてきました。
しかしながら、前向きとは言え、「解散」自体はネガティブなことですから、最終段階にあって、スタッフのみなさんには不安もある中、私のちょっとした言動によって、いろいろな不協和音を醸し出してしまったのは、私自身の至らぬところでありました。 ごめんなさい。
さて、こうして壇上に立ってお話をさせて頂く機会はこれまでたくさんありましたが、今日は「NPO法人ねおすの代表」という肩書きをもって、壇上でお話させて頂くのは最後です。せっかく集まってくださった皆様の時間を少しでも無駄にしないようにするには何をお話すればいいのか・・・、珍しくたいへんに迷いました。 何か「いいこと」を話そうとしたら失敗するので、 ざっくりとねおすの今までと、次のセッションにつなげるように「これから」への思いを率直にお話させてください。
◆なぜ、北海道自然体験学校をはじめたのか? ホリスティック教育(ジョン・P. ミラー著)
子どもの頃に自然の中で家に帰るのも忘れて遊んだ昭和世代の私は、いわゆる昭和40年代から60年代の高度経済成長期に生活圏にある自然がなくなるのを肌身で体験、感じてきた世代です。千葉で暮らしていましたが、公害のまっただ中、自然保護運動も盛んでした。 複合汚染、人口爆発、人生40年で終わるというような本がベストセラーになっていたのが高校生時代です。
それでは、いかん。「子どもは自然の中で大いに遊ぶべきだ、そこで身につけることができるのは人生を生きてゆくためにベースとなる」と思い、20代の前半に一度ネイチャースクールのようなものを立ち上げる企画を個人的にしたことがありました。 しかし、当時は、ノウハウを得るすべも資金も場所もなく、諦めました。そして、しばらくは、その「思い」を忘れたように、猛烈サラリーマンとして、なんとゴルフ場開発や健康ランドなど観光開発をしていた時代もあります。いわゆる景気のいい時代で、計画・企画好きなわたしは、個人年収も1000万円を目指すというような、人生年表なんか作っていました。それば、あの「バブル」と言われた時代です。 もともと少ない給与でしたが、ほんとうに年収が倍になった年もありました。 この頃の話をすれば話題がつきないのですが・・・、
その勤めていた不動産会社でスポーツクラブを立ち上げました。その子ども水泳教室に通っていたお子さんを対象に、始めて有料の自然体験キャンプを赤井川村で実施したのは、1990年、今から26年も前なんだなあ・・・。
しかし、継続はできませんでした。それは、あの「バブルの崩壊」と言われたできごとでした。 ゆけゆけで観光不動産事業を広げていましたから、直撃でした。立ち上げたスポーツクラブもリストラとなり、「人斬り」と言われていた副社長の元で、私もあちこちから引っこ抜いてきたスタッフ達を切りました・・・。 今回も大リストラではありますが、あの時のようにスタッフを路頭に迷わすような、分かれ方ではないので、みなさん、ご安心ください。
その時、会社からは不動産の宅建の資格をとって、高齢者向けマンションの開発をやれと社長から指示を受けたのですが・・・、それをきっかけに「本当は自分は何をやりたいのか」考える時間を得ることができました。
そして、20代にぼやっと考えたネイチャースクールに立ち返ったのです。
◆NEOSの意味、コンセプトワードは。
当初はひとりでネイチャースクールをたちあげましたが、うまくゆきませんでした。 そこで、同様なことを考えている人、仲間を探すことにして、出会ったのが樋口一生さんでした。今は、南極観測隊の越冬隊長で南極滞在中、のちほど、インターネットで彼からのメッセージももらうことになっています。 二人の最初の目的性は、アドベンチャーエデュケーション(冒険教育)でした。 わたしは子どもの活動にモチベーションがあり、彼は山岳でした。
ともかくも、力を合わせることができ、北海道自然体験学校NEOSという任意団体を立ち上げました。
NEOSのNはNature(自然)、EはEducation(教育)、OはOutdoor(野外)、SはSchool(学校)です。
このSには特にこだわりがあります。 生徒、対象者は参加者だけでなく、我々自身も含まれる、学び合う関係性を大切にし、スタッフも生徒である、 事業と人材育成を両輪として「場」をつくるということをモットーとしてやってきました。
当初の事業のキャッチコピーは、今考えるとちょっと恥ずかしいのですが、当時、社会的にも流行っていたキーワード 「もっと地球にやさしく」でした。 山岳ツアーと子どもの自然体験キャンプをメーンで活動をしていました。そのうちにゆく先々の自然豊かな町村地域との関係性も深まってゆき、都会からお客様を自然に連れ出すというパターンから、私たちが地域側に住み暮らし、四季折々を体感したうえで、その場へお客様を誘うという、都市と地域との交流創出に重きを置くようになりました。 この時期のキャッチコピーが「NEOSは進化中の自然学校です」でした。
NEOSは、自然と楽しく遊んで、楽しく暮らすためのお手伝い業です。でも、「地球の未来」に何ができるか、いつも意識しています。
98年にNEOSは、・・・・・の10の目標を示しました。
今や「地方創生」とか言われていますが、地域側に住むと 少子高齢化や第一次産業の疲弊などさまざまな社会問題が実感されるようになって来ました。 わたしは、「ホリステック」という言葉が好きです。 さまざまな事象は全て繋がっている。だから、自然は自然だけでなく、福祉も農業も教育もすべてに連関性があり、社会問題をかいけつしてゆくためには全てを同時に高めてゆく必要があるとの考え、理想をもっています。
このころ、生活関連のさまざまな市民活動をしている方々と出会いました。 そして、阪神淡路大震災を契機にNPO関連法案の成立を望むようになりました。そして、 「ネットワーク」の重要性を体感してゆくようになりました。 我々の活動は、経済活動というよりは、NPOなんだと思うようになり、キャッチコピーを「自然生活提案工房」としました。
◆その経営原則として ・ねおす活動のエコロジー7原則 を掲げました。
◆2001年 ねおすツーリズム憲章
この頃より自然豊かな町村での拠点づくりへと仕事の比重が移り、大雪山自然学校の設立準備や川湯エコミュージアムへの人材派遣、私自身も黒松内町に移住しました。
◆ ねおす銀河ネットワーク構想
ここで明確に登場してきたのが、ねおす銀河ネットワークです。 「個性ある小集団を銀河と例えたコミュニティとする、その銀河をたくさん創出させて、それらがネットワークするセイフティ社会」
・次代に向けて 未来への懸念
・Donika Suru Ryoku どーにかする力
・事業と人材育成の場の一体運営
・ねおす経営エコロジー7原則から 次は、「複雑系の7つの知」の獲得へ 銀河ネットワークは到達できるか。