なぜか、写真の上下の黒い画面が取れない・・・。
三陸ひとつなぎ自然学校の柏崎未来(じょい)から柏崎龍太郎様の訃報が届きました・・・。 残念です。御歳90前後と思いますので、おからだを悪くされていたとは言え、やはり大往生だろうな。 じょいとは同じ姓ながら当縁だそうで一族の大長老でした。 じょいは釜石市鵜住居の出身で、あの大震災当時は私どもの黒松内ぶなの森自然学校の職員をしていました。
思い起こせば、3月11日の午後は次女の結婚式でした。大災害を知ったのは披露宴の二次会も終わり宿の部屋に戻った深夜でした。翌日は即座に自然学校に帰ると、スタッフ達はじょいとテレビを囲んで三陸の情報収集をしていました。 釜石の状況はさっぱりと流れませんでした。携帯電話もつながらい状況が続いていました。福島原発の様子も報告されるようになってきました。 支援に行くか行かぬか暫し逡巡しましたが、目の前にいるじょいの姿を見ていれば、選択の余地はありませんでした。 午後になり、TV映像で釜石市の中心アーケード街に津波が流れ込む様子が放映されました。
「よし、行くぞ!」と決心し、ワゴン車に自然学校にあった毛布や火器コンロ、テント、寝袋、灯油タンクなどを満載に詰め込んで、じょいと星山さん(ほっしー)と三人で現地へ出発したのでした。 しかし、青函フェリーも止まっていました。函館大沼の関係者にフェリー乗船の手配を頼みました。
フェリーターミナルには運送トラックが大量に乗船待ちをしていましたが、夜中に出航が決まった第一便にトラック優先のなか、最後から2番目というギリギリ乗船が果たせたのでした。 青森からは高速道路は緊急車両が優先され通行できない状況で、道路封鎖があちこちされてい下道の通行可能な道路を縫いながらじょいの出身地の釜石市鵜住居町片岸を目指しました。
昼過ぎに釜石市の手前の遠野市に到着、整備された沿岸へゆく国道は一般車両は通行止めでした。調べた結果、沿岸に抜ける山道があるとのことがわかりましたが、遠野市でもその区間の道路状況はわからないということで、「お勧めはできないが、行くなら、あくまでも自己責任で」ということでした。沿岸からこちらに来る車もあったので、突入を決心しました。
大きな地震があった割には内陸部にはまったくと言っていいほどに被害は見受けられませんでした。崖崩れもなく峠を越えて沿岸地域へ。 春の訪れを感じさせるのどかな東北の中山間風景が続きました。集落にも慌てている様子は車窓からは見受けられませんでした。
ところが、海岸から数キロあたりからは様相がいっぺんしました。津波が到達した最終ラインの向こう側とこちら側はまさしく天国と地獄でした。 かろうじて一台のブルトーザーが道路の瓦礫を押し分けて車両の通行を確保している最中で、ついには、じょいの実家のある海岸近くまではたどり着けず、農家の庭先にテントを張って、とりあえずの現地拠点を設営したのでした。
翌日は周辺の確認。11から12日にかけて被災者達は山中に野宿した人や内陸の学校体育館などにたどり着いた人々もいました。訪れた地域の小学校の体育館にもあふれんばかりの被災者がいました。とってもではないですが、私たちが積み込んでいる毛布資材などでは間に合いそうにもありません。 地域内を動いていると、ある小さな集会所に70人前後の人が避難している場所がありました。 それが、たまたま、じょいの出身地の片岸地区の人々が中心に避難している場所だったのでした。そして、そこを取り仕切っていたのが、龍太郎さんでした。
それから、北海道ねおすボランティアセンターは、この避難所を中心に鵜住居川流域を支援することになったのでした。龍太郎さんを事実上のトップに同じ町内会の人々ばかりの避難所の結束力と彼の統率力はほんとに学ぶことが多かった。そして、龍太郎さんの助言もあって、それからはより上流の橋野地区にある旧保育園をボランティアセンターの拠点として、仮設住宅にも事務所を借り受けて支援活動を展開したのでした。
現在は、そのねおす北海道ボランティアセンターを母体として設立した一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校が地域ツーリズムを旗印にして復興活動を展開しています。 龍太郎さんのカウンターバックアップがなければ、今はなかったと言っても過言ではありません。
多くのご指南を頂いた人生の師である、柏崎龍太郎様のご冥福を心からお祈り致します。そして、龍太郎様から学んだことを胸に、これからも精進してまいります。