高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

教立寺拝観

2024-10-08 12:58:29 | 黒松内・寿都
旅に出ていたので、Mail チェックをしていなかった。参加している寿都町のお宝調査の案内が来ているのを昨夜気づいて、(申し込みが必要だったが、)直接参加してきました。お疲れモードなのでちょっと面倒だったのですが、MRKさんに命令されるようにして出かけたのですが、興味深くて、参加して良かったな。
 
寿都歌棄に教立寺というお寺があるのですが、そこに閻魔大王像と地獄図が寄進されています。その由来をざっと書いてみると・・・、
 
話しはおよそ150年前の安政年間、江戸幕府は北海道開拓のために太平洋・長万部側からニシン漁盛んな日本海・寿都へ黒松内新道の開削をしました。費用は地元の富豪漁師の親方‣角十(かくじゅう)佐藤家がだいぶ負担をしたらしいですが、そのおかげで「一日の人別改めが1万人にもおよび、長万部の海浜には一条の蟻道のようになり、目を見張る思い」と、松浦武四郎の「後方羊蹄日記」にも書かれています。 人が増える往来では、悪人もはびこり、追剥強盗や殺人事件も多発するようになりました。
 そのころ、現黒松内町の入口付近の「蕨岱・わらびたい」に和歌山県の武家出身の医者・森田利三郎が住んでいました。(どういう経緯で移住したのか興味深いところだが・・、)相次ぐ事件に対して憤然となり、思案の末に自宅付近に「閻魔堂」という祠を建てて、閻魔大王とその審判検察官を10体を並べ、その横に地獄絵を奉納し、悪人等も含め道行く人々に悪行非難を拝めさせました。このおかげだったのでしょう。そのうちに悪党共は姿を消して安全に通行できるようになったといいます。
 その後、子孫によって、教立寺に寄進されたということでした。


二枚の絵図は、地獄への分かれ道への旅路と地獄図の2枚がありました。
 
気になったのは、閻魔大王と裁判官の他に一体、不気味な白っぽい座像です。これは、〇〇婆(住職の話が聞き取れなかった・・)というそうで、三途の川を渡る前だか後に死人の身ぐるみをはがす役割をもった婆さんだそうです。(閻魔団の前にぬかずくためだろうから、たぶん川を渡ったあとだろうな)



御年九十歳のご住職はユーモアたっぷりの語り口で、今日の午前中はなかなか興味深い体験をさせて頂きました。
 
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