2010.10.28(木)雨
逆谷については奥上林村誌に太平記(室町時代)の文をまじえて以下の記述がある。
「正平六年(慶安元年)十月 仁木三郎山陰道の軍兵を従え上林谷を通り、逆谷を出て若狭に打入りけり。」逆谷というのは老富市茅野より、福井県大飯郡佐分利村に出たところにありて城趾がある。谷水が河の流れと逆(反対)に流れているので、さかさま谷という名がついたといわれている。
府道1号線は、山家から徐々に高度を上げ、福井県境の永谷坂峠から一気に急勾配を下ることになる。その急勾配となったところに馬こかしという崖があり、一色五郎守邦の居城があったと言われている。このあたりを逆谷というそうだ。奥上林村誌に云うように谷水が川の流れと逆に流れるとなると、峠から2,3百m下った左岸の沢が逆谷なんだろうか。今のところ確認できていないがいずれどこか調べてみたい。
逆川、逆谷が金属採鉱の地に高い確率で存在することは先般述べたが、その理由というのは定かでない。前回に書いたいわゆる断層説がもっともらしく思えるが、ふと妙な考えを思いついた。それは大金属地帯山形県の吉野川、別名逆川について、二万五千分の一地図、白鷹山を飽くこと無く眺めていると、逆川の理由は支流の多くが本流とは逆方向から流れ来て合流していると云うことが判る。谷有二氏は米沢盆地では他の川が北流しているのに、珍しく南流しているから逆川というのだろうかと書かれているが、断層などの地形によるものだとすると、支流の合流方法は逆川の呼び名の大きな理由とならないだろうか。そしてその本流と支流の流れを脳裏に反芻しているとき浮かんだものが百足である。
合流点つまり出合いの手前で鋭角に方向を変えて合流する様は地図上で見れば百足の足に見えまいか。
相川郷土博物館と百足の図
百足は鉱山と最も関係の深い動物である。佐渡相川の資料館で大きな百足の絵を見つけてから、なぜ百足が鉱山と関係があるのか知るまで長いことかかった。若尾五雄氏の「黄金と百足」(雨読で紹介済み)でようやくその理由を知ることとなったが、氏の説の中には逆川=百足というのは無かった。かつて鉱山師は鉱脈を求めて、川を遡った。川の岩石や地形、植物や湧出物などを調べながら遡り、その支流をつぶさに踏査したに違いない。その時、その出合いが百足の足のように屈曲して出合い、その附近に有力な鉱脈を見つけることができたなら、百足信仰として発展してもおかしくはない。突飛な考えのようだけどあるかも知れない発想である。つづく(大唐内のこと(5)は2010.10.25、黄金と百足は2010.1.31)
今日のじょん:「おとーさん今日のじょん間違うてるで、越後獅子違て連獅子やで」「えーえらいこっちゃ、越後獅子やったらテレビ出演やなあ」
というわけで、昨日の記事は間違いで、出来るのは連獅子である。お詫びの印に写真を一発。
なぜかカメラを向けるとお尻を向けるのでよくわからないが、よーするに枕を振り回すだけの芸である。