晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠’13夏(1) 7/26

2013-07-26 | 山・峠

2013.7.26(金)晴れ 

 鳥垣自治会や鳥垣渓谷を整備する会が永年鳥垣渓谷やシデ山周辺を整備されてこられ、一応のコース整備が完成した。広く皆さんに紹介するため、広報により参加者を募集し、本日決行、無事終了した。

コース:鳥垣渓谷~みと~シデ山~弓削道~弓削
参加者:22名(長岡京市、舞鶴市、綾部市等)
タイム:  9:00 鳥垣小野田橋集合~車で獅子鼻移動
       9:30 出発
       9:35 おりとの滝
      10:05 F6
      10:30 やすみと  出発 10:45
      11:30 みと、昼食 出発 12:20
      13:05 シデ山ピーク  出発 13:20
      13:50 大栗峠   出発 14:20
      16:00 弓削到着

 今年はドッグランどの建設に集中するため山行を控えていたのだが、ようやく目処が付いたため今回の山行にはリキを入れて取り組んだ。桜井さんからあそこが歩きやすくなったとか、どこどこに看板を付けたとか常々聞いていたので、今回は特に楽しみである。
 市民新聞などでも広報していただき、参加も過去最高の22名となった。じょんのびの定休日に合わせて設定していただいたのだと思うが、各種のイベントが土日に限られている現在、ウィークディの行事というのが値打ちがあると思っている。世の中には土日が仕事で動けないという人も沢山居るのだ。
P1040988



小野田橋9時集合、静かな里も大賑わい。

 獅子鼻公園の整備もさることながら、鳥垣渓谷も随分歩きやすくなっている。特に滝を見るための遊歩道はこの季節にはありがたい。
P1040990



鳥垣渓谷取り付き地点、おりとの滝も案内板が出来てバッチリ。
P1040997




従来見えなかった第三の滝上部も遊歩道が出来、第六の滝など見ることが出来るようになった。

 もっともよく整備されたのは、おおだんからみとに通じる元茅場の樹林帯斜面である。尾根道や谷道のようにコースが一定していないため、人為的に道を造らない限りばらばらに登ってしまう。そのために歩きにくく、迷いやすい。これを解消してジグザグの歩きやすい道を造っていただいた。コース中一番の難所が、今までの登りより随分楽になった。
 みとで昼食とする。いつもなら頂上まで行くのだが、今日の人数では広い場所が必要となる。ここで調子の悪い人が出て、誰かを附けて林道から下山すべく思案していたのだが、丁度仕事明けの村上さんが差し入れを持って、車で駆けつけてくれた。偶然のことなのだが、地獄に仏とはこのことである。
 惜しむらくはみと自慢の眺望なんだが、夏の湿った空気で丹丹、若丹国境稜線までぐらいだ。
P1040998P1040999


 

眺望抜群みとの広場と開通した新ルート。


 みとから稜線までの新ルートも広葉樹の明るい斜面で、旧ルートのシダの道よりも断然快適だ。
 稜線に上がるとシデ山頂まで、ポコンポコンと小突起がつづく、このルート中第二の難所と言っていいだろう。初めて来たときにはこの突起の登りが堪らなく辛かったが、今では平気である。体力が着いたというよりルートになれたと言うことだろう。山登りってこんなものである。つづく 


【今日のじょん】今朝は山行きで急いでいる、かみさんは弁当作りにかかりっきりだし、こんな時ほどじょんの動作がのろいのだ。イライラして「はよ来いよ」なーんてどなってしまうと、座り込んでカイカイしている。
 こちらの気持ちが伝わってそうなっているのか、別に普段通りなんだがこちらがそう感じるのか、ビミョーな心理合戦である。P1040891
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯盛山(15) 西光密寺(7) 7/25

2013-07-26 | 飯盛山

2013.7.25(木)晴れ

 荒井神社が明治記念碑の位置から現在地に移転したかどうかもわからないのに、その理由を探るというのも変だが、明治記念碑の広場からすぐ下方に西光寺本堂の屋根を見下ろしたときに、移転があったとしたらこういう理由だろうなあと感じた。
それは西光寺が隆盛になるとともに、その本堂の更に上部にある荒井神社がさわりに感じたのではないだろうか。両寺社が一体のものであったとしても、西光寺が神職を派遣しているのだから、立場としては西光寺が上位である。立場上下位である社殿が本堂の上部に存在するのは堪らない。そういった考えで参道入り口脇に位置を変えたのではないかと想像するのである。そう考えると荒井神社は西光寺が創建される前から存在したことになる。
P1040782

 


庫裡の右の石段を登ると本堂の阿弥陀堂、明治記念碑は更に右の尾根に取り付き本堂の斜め上部になる。

現在の荒井神社は八木町美里荒井1に存在する。美里は雀部、神田、広垣内、三地区の合成地名だが、荒井は地名が先なのか、神社が先なのかわからない。一般的には地名が先の場合が多いが、そうすると「三代実録」の元慶六年(882年)には現在地に存在したこととなる。それ以前に移転していたとしたら、何らかの文書でも無い限りわからない話である。
 ただ明治記念碑の地に散在する瓦が、明治24年以前のものとわかれば、そこに何らかの建物が存在したということになるので、元荒井神社の可能性は出てくるが、少なくとも8世紀、9世紀というような代物ではなさそうだ。
P1040973

 


明治記念碑付近に散在する瓦片、専門家なら年代も特定出来るそうだ。

ネット上の不確かな情報のせいで随分遠回りしたが、荒井神社が移転したか否かというのはわたしの探究することとはあまり縁がなさそうである。
 わたしが真に知りたいと思うのは飯盛山の本質である。なぜ飯盛山と呼ばれたか、飯盛山はどのような役割を果たしたかという点である。
 気になるのは飯盛山の形状である。一般的に飯盛山というのは三角錐の神奈備山状なのである。中には見る方向によってそうで無い場合もあるが、ある方向から見るとしっかり神奈備山状を呈しているものである。きれいな三角錐ばかりではなくドーム状であったりする場合もあるのだが、この八木町の飯盛山はどうもそれらしい形が見られない。地形図で見ると西側に当たる園部町小山東町方面から見ればそれらしくなるかもしれないが、東北、東、南、南東から見る限り飯盛山の特徴は無い。
P1040933



桂川新庄橋から(東北)右からの稜線の末端のピーク。
P1040959



園部川神田橋から(南東)
P1040960



八木西I.C入り口から(南)P1040958




住職が、玉泉の水を引いて、玉泉紅葉の滝という庭園を造られている。

 飯盛山の形状に不審を抱いているとき、読書中の「大和の原像」(小川光三著)の中に気になる文章を発見した。つづく

【作業日誌 7/25】
植木屋さん柳影を?んでかい(3日目)

【今日のじょん】爆発南京の葉が鹿に襲われている。深夜に雨が降ったので、今朝は泥の上に鹿の足跡がくっきり、どうする?
P1040982P1040984

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする